第二十七話 天は我々を見放した
朝は、静かに訪れた。
雪濠の中。
白く濁った光が、
天井代わりの雪壁を透かしている。
凍てつく空気。
だが、昨夜よりは幾分ましだった。
雪が断熱材となり、外の暴風を完全に遮断していた。
身体は芯から冷えている。
それでも――
俺は、生きて目を覚ました。
――――――――――
「……起きられてますか、少尉殿」
低く抑えた声。
酒井徳次郎軍曹だった。
雪濠の入口にしゃがみ込み、
こちらを覗き込んでいる。
雪明かりに浮かぶ顔。
深い皺。
強張った頬。
眠っていない目。
それでも、その声は落ち着いていた。
「……ああ」
喉が、ひどく乾いていた。
それでも、俺は短く答え、
身体を起こした。
――――――――――
外へ出る。
――瞬間。
頬に、暴力的な風を叩きつけられた。
思わず目を細める。
吹雪。
昨夜よりも、確実に荒れていた。
空と地の境界は曖昧で、
白は絶え間なく流れ続けている。
――時刻 午前五時頃。
――気温 氷点下二十度。
肌に触れた空気だけで、
この凶悪な冷気を理解できた。
呼吸のたび、凍てついた刃が肺を刺してくる。
容赦なく命を摘み取る、白の悪魔だ。
だが、俺たちの『拠点』は生きていた。
かまくら型の雪濠は崩れていない。
風を防いだ空間からは、細く焚火の煙が立ち上り、
炊事の準備が進められている。
行李は守られ、薪も、まだ残っていた。
* * *
史実では、三日目の朝には――
すでに多くの兵たちが凍傷で立ち上がれず、
部隊は、壊滅状態を迎えていた。
だが、今は違う。
俺たちは確実に、違う朝を迎えている。
* * *
「飯が炊けたぞー!」
雪濠の合間に設けられた即席の炊事場から、
力強い声が上がった。
疲労の色はあれど、
それは、確かな生気を感じさせる声だった。
――――――――――
立ち上る湯気。
配られたのは、温かい白粥。
史実では、凍りついた握り飯を、
噛み砕くことすらできなかったこの朝に。
凍結していない食事が喉を通り、
冷え切った身体の奥底へ、熱を落としていく。
「……あったけぇ」
「ああ、生きた心地がするな……」
自然と、まわりから声があがる。
それだけで、兵たちの青白かった顔に、
わずかな血色が戻っていく。
俺は椀を受け取ると、
静かに、だが、噛み締めるように口へ運ぶ。
温かい――
それが、この地獄の中で、
どれほどの命を繋ぐ救いになるか。
そんな食事風景から、
少し離れた場所。
雪原に立つ、
ひとつの背中が見えた。
神成文吉大尉。
外套を翻し、空を見上げている。
吹き荒れる白。
その向こうの、見えぬ天を。
俺は、自然と大尉の元へ足を向けていた。
――――――――――
「大尉殿」
背後から呼びかけた。
神成大尉は振り返らない。
ただ、静かに言った。
「天は」
一瞬の間。
唸るような吹雪が、
世界を白く染め上げる。
「我々を見放した」
低く、押し殺すような声。
史実において、
この部隊の『死』を決定づけた絶望の言葉。
だが、今の神成大尉の声に、諦めの響きは一切なかった。
「……そのようですね」
俺は、激しく雪が吹き荒れる空を見上げながら答えた。
否定も、励ましもせず。
ただ、事実として肯定する。
「だが」
神成大尉の言葉は続く。
「それでも、行軍は、続けねばならない」
その横顔に、揺らぎはなかった。
「天が見放したからといって、歩みを止めるならば」
神成大尉は、空を見据えたまま言い放つ。
「もはや、それは皇軍ではない。ただの敗残兵だ」
規律。
責任。
そして、
指揮官としての、揺るぎない覚悟――
いつもどおりの神成大尉だ。
その言葉の重みが、
冷たい空気を通して真っ直ぐに伝わってくる。
「……」
俺は言葉を探した。
だが、気の利いた台詞は出てこなかった。
この人は弱音を吐いているのではない。
すべてを理解したうえで、自分の足で立っているのだ。
神成大尉は、
まだ、しっかりと地に足をつけている。
「小林少尉」
神成大尉がゆっくりと振り向き、
はじめて、こちらを見た。
「昨日の救助」
一瞬の沈黙。
「見事だった」
短い言葉。
それだけだった。
だが――
それ以上は、要らなかった。
「……ありがとうございます」
俺は背筋を伸ばし、深く敬礼した。
――――――――――
吹雪が荒れる。
気温は零下二十度――
視界不良。疲労蓄積。
どれを取っても最悪の状況だ。
それでも。
三日目の朝は、始まっていた。
史実とは違う拠点。
史実とは違う、温かな食事。
そして、絶望に呑まれていない指揮官と兵たち。
だが、山は変わらない。
天候は変わらない。
天に見放された八甲田山の試練は、
ここからが、本番だ。




