第二十四話 真夜中の雪中救助隊
夜の八甲田は、もはや「山」ではなかった。
それは、咆哮する風と、
暴力的なまでの冷気が支配する、
底なしの深淵である。
風が唸り、雪が礫となって外套を叩く。
数歩先では「白」と「黒」が混ざり合い、
天地の感覚すら奪われていく。
立ち止まれば、凍える。
動けば、迷う。
夜の雪山で、
判断を誤るのではない。
夜の雪山に、
足を踏み入れること自体が誤りなのだ――
――――――――――
「分隊を繋げ! ロープを離すな!」
俺の声は、吐き出した瞬間から、
吹雪に切り裂かれる。
俺たちは、互いの体をロープで結び、
一列の数珠繋ぎとなって、
一寸先も見えない白の幕を、
突き破るように進んだ。
懐の簡易地図には、野営地の西側に、
等高線が密になった「危険地帯」が記されている。
山口少佐殿が、視察の途中で足を滑らせたとすれば、
その断崖の縁以外に考えられない。
もし、そこに居なければ、
そこで、この捜索は打ち切りだ――
――――――――――
だが、時に、
現実というものは残酷で……。
「……人影は、無し……か」
目的の座標に辿りついた、俺は、
その場に立ち尽くしていた。
携帯照明が照らし出すのは、吹き乱れる雪の粒子と、
無慈悲に広がる平坦な「白」だけだ。
呼びかける声も、風の唸りに瞬時に掻き消され、
返ってくるのは、
肺を刺すような冷気だけだった。
足元が、絶望に崩れそうになる――
「……少尉殿、待ってください」
酒井徳次郎軍曹が、雪を噛むような声で足を止めた。
「何か、あったか……」
俺が問いかけるより早く、
酒井軍曹は照明の光を一箇所に固定した。
その光の先。
一見すれば、ただの雪原にしか見えない場所で、
彼は「死の予兆」を捉えていた――。
「……雪面の層が、死んでいます」
猛吹雪の中、
足跡などは、すぐに消えてしまう。
痕跡として残るのは、
もっと大きな違和感だけとなるのだが――
一面の新雪、が。
斜面の一角だけ、
雪の層が、不自然に乱れていた。
人間が滑った痕でもない。
人の足に踏み荒らされた跡とも違う。
それより、もっと、もっと大きい――
一面の新雪の下から、
一度、雪の層がめくれ上がり、
そのまま、波打ったまま、凍りついていた。
雪崩――
(……表層雪崩か)
深雪の表層部分だけが、
滑るようにして起きる小規模な雪崩。
今夜のように降雪量が多く、
気温が低く、雪がサラサラしている日に起きやすい雪崩。
それは雪崩として小規模ではあるが、
だが、人間を呑み込むには十分過ぎる威力である。
俺の地図に描いた「密な等高線」――
あの断崖の縁で、積りに積もった雪を抑えていた雪の塊。
雪庇が一気に崩れたのだ。
「雪崩の跡を辿る、下に溜まっているはずだ!」
この断崖の先は、駒込川へ落ちる。
そこは、深い谷の底となる。
嫌な予感がする――
――――――――――
斜面を這うように降りて数分。
雪風を避けるように、
岩陰の窪地に身を寄せる三つの影が見えた。
「……いたぞッ!」
叫びたい衝動を抑え、
俺は、慎重に距離を詰める。
ここで叫べば、冷気に喉を焼かれ、
体力が奪われるからだ。
現場に辿り着き、
俺が、手元の携帯用照明を向けると、
そこには――
山口鋠少佐。
その隣で、少佐を庇うように立つ、
加藤次郎見習士官。
そして。
雪の窪みに横たわり、
苦悶に顔を歪める大蔵元大尉。
「……小林少尉、か」
山口少佐の声は、弱々しく掠れていた。
だが、その瞳にはまだ理性が残されていた。
「大蔵大尉、脚が……」
酒井軍曹が素早く大蔵大尉の側に膝をつく。
大尉の右脚には、すでに、
自分の脚絆を解いて巻いた添え木と、
包帯が施されていた。
「雪崩ですか」
状況確認のために俺は尋ねる。
「……私が、踏み抜いた」
山口少佐が、絞り出すように言った。
「新設された雪濠の外縁を回り、
吹雪の合間に、田代の明かりが見えた気がしたのだ」
ぽつ、ぽつと呟くように説明をはじめる。
「そこで、確認しようと一歩踏み出した瞬間、
足元が消えた」
そこで少佐の言葉が途切れる。
まさに、一瞬の出来事だったのだろう……。
そして、大体の流れは把握できた。
雪中行軍の強硬軍に責任を感じていた山口少佐は、
自分の目で「希望」を確かめようとした。
そして、八甲田の仕掛けた雪庇の罠に落ちた。
――――――――――
「大蔵大尉が……滑落する我々二人を、
その身を挺して受け止めてくれたのです」
加藤見習士官の声は震えていた。
当然だ、死の淵を覗き込み、
紙一重で生還した直後なのだから。
「雪崩に流されながら、大尉は、我々の体を掴んで……。
自らがクッションとなって衝撃を殺し、
この窪地へと導いてくださいました……」
巨大な自然の猛威を前に、人間の力など、あまりに些細なものだ。
実際に、彼がどれほどの「クッション」になれたのか、
物理的な効果は誰にも証明できない。
だが、現実に今、絶望的な斜面の下で三人が命を繋いでいる。
それが、何よりの答えなのかもしれない。
「俺ぁ……転がっただけだ」
大蔵大尉が苦く笑う。
「そのあと、雪の中から掘り起こし、
ここまで運んでくれたのは、この二人だぜ」
山口少佐と、加藤見習士官。
二人は、雪に濡れた手袋のなか、
感覚を失い鍵爪のように強張った指先を、
上手く動かせないようだった……。
「自分たちは、ただ、必死で……」
凍傷で、指が動かなくなっていく中、
それでも、二人は必死に雪を掻き出し、
戦友の命を救ったのだろう。
善意の連鎖――
雪山では、非常に危うい選択である。
時には、助かるはずの命もろとも、
全滅を迎えることもある。
だが、今回は。
三人とも、出来る限りの最善を尽くし、
それが功を奏したようだ。
この極限の状況下で、
誰一人、生きることを諦めなかったのだ。
――――――――――
吹雪の荒れ狂う谷底から、
俺は、周囲を見渡す。
地図の記憶によれば、
本隊までの距離は、わずか数百メートル。
だが、問題は、
この胸まで達する深雪だ。
負傷者を抱えたまま、
この谷底を登り切るのは、不可能に近いだろう。
「斜面の雪……か……」
表層雪崩が削り取った、無残な跡を眺める。
雪が流れ去った後の斜面は、
胸まで沈む新雪とは違い、自重で固く締まっているはずだ。
これなら――
あの重すぎる「橇」が、唯一の救いになるかもしれない。
「酒井軍曹、
本体へ戻り、橇を持ってきてくれ」
「……橇ですか?」
酒井軍曹が目を丸くする。
この数日間、
行軍を遅らせ、兵たちの体力を奪い、
誰もが「捨てたい」と呪ってきた、あの重い官物。
苦々しい記憶しかない。
だが――
「ここで、運ぶのは行李じゃない」
視線を、大蔵大尉へ向ける。
「今、橇で運ぶのは、命だ」
そんな、俺の言葉に、
酒井軍曹の表情から迷いが消える。
「数名を連れて行け。
足の確かな者たちを選べ」
「はっ」
酒井軍曹の動きは迅速である。
吹雪の中へ、その頼もしい背中が消えていった。
――――――――――
俺は、その場に残り、山口少佐の肩を掴む。
「大丈夫です、少佐。
皆で、すぐに合流できます」
「……あ、あぁ……」
この場に残る、
呼吸を、確認しながら。
「……この山で、一人も欠けさせはしません」
「……そう、だな……」
言葉をかけ続けて、
彼らの意識を繋ぎ止める。
これも、救急活動に大事なことだ。
相変わらず、
夜は深く、風は止まない。
だが、かつて、呪われた「橇」が、
駒込川の絶望を変えてくれる。
そう信じて。
白く煙る、その暗闇の向こうを、
俺はじっと見据えていた。




