第二十話 ここは何処だ
おかしい。
最初に浮かんだのは、理屈ではなく、
生存本能が鳴らす警報だった。
時間は合っている。
歩数も計算通りだ。
懐の羅針盤は、
狂いなく「北」を指し続けている。
それなのに――
目的地である「田代」の気配が、
一向に現れない。
本来なら、そろそろ地形に変化が出るはずだった。
谷へ向かう緩やかな傾斜。
風向きの微妙な変化。
あるいは、一瞬でも視界が抜ける地点。
だが、現実は残酷だった。
前も、横も、足元も。
ただ、塗り潰されたような「白」しかない。
――――――――――
雪煙の向こうから、酒井徳次郎軍曹が近づいてくる。
雪を被ったその姿は、まるで歩く亡霊のようだ。
「……少尉殿。予定地点、過ぎておりますか?」
「……分からない」
即答だ。
ここで指揮官らしく振る舞い、
嘘をつくことに意味はない。
今は「分からない」という事実を
共有することの方が、生存には重要だ。
神成大尉の隊列は、
数歩前方で進み続けている。
列は崩れていない。
致命的な遅れも出ていない。
規律が保たれているからこそ、
この「異常」だけが浮き彫りになる。
もし、単に目的地を通り過ぎただけなら、まだいい。
だが、最悪の可能性は二つ。
ひとつ。
部隊全体が、
的外れな方向へ全力で邁進している場合。
ふたつ。
同じ場所を、気付かぬまま巡っている場合。
* * *
史実では――
第五連隊青森隊は、帰営の途上で
完全に方向を見失い、
この「鳴沢」の付近で壊滅的な打撃を受けた。
* * *
だが、今回の俺たちは「前進」している――
予定通りのルートを、
予定通りの行程で。
それなのに、ここまで、
地形の手掛かりを失うものなのか?
「いや、違う……」
気付く余地は、あったはずだ。
微かな風の澱み――
雪の溜まり方――
異変の兆候は、
確かに存在していた。
それでも、俺は、見落とした。
余裕がなさすぎた。
氷点下二十度を下回る寒気。
際限のない疲労。
そして、二百名の命を預かる極限の緊張。
それらが静かに、
確実に、判断力を削っていたのだ。
俺は「自分の分隊を守ることだけ」に意識を割かれ。
全体を包む「違和感」から、
無意識に目を逸らしていたのかもしれない。
――――――――――
「少尉殿」
酒井軍曹が、低いが鋭い声で問う。
「このまま進んでも、目的地へ、
近づいている保証がもてませんな……」
「ああ……」
酒井軍曹も同じ結論のようだ。
胸の奥の疑惑が、冷たい確信へ、
その形を変えていく。
この部隊は、どこにも向かえていない。
俺たちは、
すでに「白の円環」に飲み込まれている。
本隊の指揮官たちが、
この錯覚に、気づかないはずがない。
だが、時に軍隊という組織は、
止まる「判断」を後回しに、
進む「行動」を続けてしまうものだ。
だから、
俺が、行くしかない。
規律を乱し、隊列を横切ってでも、
再び、神成大尉の元へ。
この「最悪」の可能性を突きつけ、
死の行進を止めるために。
俺は、凍りついた一歩を、前へと踏み出した。




