第十九話 崩壊防衛戦線
人生の岐路とは、
往々にして目には見えないものだ。
いつ、どこで、
その境界線を越えたのか。
気付ける者は少ない――
足を踏み外した時には、
もう戻れない所に立たされている。
――――――――――
「ふぅ……」
俺は、凍てつく外套の懐に、
手を差し入れた。
外気とは別世界。
己の体温による、小さな避難所。
そこから――
方位磁針を取り出す。
「よし」
針は、静かに北を指していた。
数値上は、問題ない。
だが。
これだけを、
信じるわけにはいかない。
俺は知っている。
この「安定」が、
いかに脆いものであるかを――
* * *
極寒、暴風、容赦のない冷却。
条件が揃えば、
磁針は、いとも簡単に凍りつく。
史実でも、実際に起きた悲劇だ。
凍えた針は動きを鈍らせ、
やがて沈黙する。
方位磁針の凍結。
それは、
方角を失うことを意味し――
すなわち「生」を失うことに等しい――
* * *
「酒井軍曹」
前を歩く、雪に覆われた大きな背中に声をかける。
「予備の磁針を。今すぐだ」
「……了解」
即座の応答。
酒井軍曹が手袋の内側から、
もう一つの磁針を取り出した。
針が激しく揺れる。
風に煽られ、凍えながらも、
必死に北を指そうと震えている。
わずかな――
数秒のような、
永劫のような静止のあと――
二つの針は、
同じ方角でピタリと止まった。
「……よし。生きてるな」
「問題ありませんな、少尉殿」
酒井が低く、熱を持った声で言う。
「進路、維持だ」
――――――――――
次に、行軍指示を変更した。
要は「行軍時のルール」ということだ。
「引き続き、酒井軍曹を先頭に、
五十歩ごとに、各員、針を確認せよ!」
「五十歩ごとに確認!」
号令を飛ばす。
ひとつは進路の確認。
「五十歩ごとに確認!」 「五十歩ごとに確認!」
後続の兵たちが、
機械的な正確さで声を連ねていく。
「行軍時、観測目標を共有!」
「三時の方向、倒木確認!」
「三時の方向、倒木確認!」
「右ズレなし!」
「右ズレなし!」
ふたつめは対象物の二重確認。
わずかに覗く「特徴物」を、
分隊全員の目で捉えて、復唱する。
歩き。
止まり。
測る。
その繰り返し。
やることは単純だ。
行軍速度は落ちる、効率は最悪だ。
だが――
列が、ぶれない。
円環を描かないように抗ってみせる。
そして、俺たちの前進は、
確実に「直線」を刻み始める。
雪山では、
個人の感覚などゴミ同然だ。
頼れるのは、
冷徹な数字と、震える針だけだ。
――――――――――
「……少尉殿」
しばらくして、
酒井が口をひらいた。
「針は、安定しています……ですが……」
「ああ、分かっている」
白の円環の説明はしていない。
そんな時間も、余裕もない。
だが――
俺が何を恐れているのか、
分隊の、誰もが、察し始めていた。
俺たちの分隊の思考は、
まだ、動いている。
だが――
この対策を講じているのは、
俺たちの周りだけだ。
第五連隊の全隊は、どうだ――
前方の山口少佐や、
神成大尉率いる「本隊」は、どうだ――
この「見えない罠」に気付いてるか?
もし、本隊そのものが「白の円環」に、
その足を踏み入れてしまったら。
俺たちが、
信じて、従っている、
その背中が――
すでに、死のループを、
描き始めているとするのならば――。
「……くっ」
ひと際強い横風に、
バランスを崩しそうになる。
胸のざわめきが――
静かに、そして、
暴力的に大きくなっていく――




