第十八話 死の行軍、リングワンダリング
視界がゼロの「白」の世界では、
道は、意味を失う。
雪と空の境界は消え、上下の感覚すら曖昧になる。
足元も、前方へ続くはずの路も、
すべてが同じ「白」に支配されていた。
見えるのは、せいぜい――
数歩先を行く者の背中が、
亡霊のようにぼんやりと浮かぶ、その程度。
それすらも、次の瞬間には
吹雪の幕に呑み込まれて消える。
完全な「ホワイトアウト」だ――
「五十歩!」
前方から酒井徳次郎軍曹の声が飛ぶ。
「五十歩!」
「五十歩!」
後続の兵たちが、
次々と、その声を復唱していく
声の連鎖。
目に見える「繋がり」を失った今、
この「音の命綱」だけが、
列の存在を感じる、唯一の手がかりだった。
――――――――――
だが、違和感があった。
俺は歩調を緩めず、
ひとり、わずかに眉をひそめる。
進んでいる。
確かに前進しているはずなのに、
何かがおかしい。
身体にかかる負荷と、
距離を重ねている感覚が、
どうにも、一致しないのだ。
いや……
そもそも「景色」など、
すでに存在していないのだ。
視界は白一色。
右を見ても雪山、左を見ても雪山。
あらゆる地形の「個性」は、
数メートル積もった新雪の下に、
埋め尽くされている。
ならば、俺たちは――
本当に「前」へ進めているのか?
* * *
リングワンダリング。
現代では知られた遭難要因のひとつ。
視界不良。
単調な環境。
それらが重なると、
人は容易に方向感覚を失う。
そして――
無意識のうちに、
利き足側へわずかに偏り続け……。
気づかぬまま、
円を描くように歩き続けてしまうのだ。
* * *
本人は「真っ直ぐ」進んでいるつもりで。
だが実際には、
同じ場所を巡り続ける。
彷徨い続ける。
命が尽きる、その時まで。
自分は「前」に進んでいると、
信じたまま――
この時代の軍人たちは、
まだ、知る由もない知識。
だが、俺は知っている。
雪山は、
理屈ではなく「錯覚」で人を殺すことを。
――――――――――
「五十歩!」
不意に思考が途切れた。
「五十歩!」 「五十歩……!」
声が、後ろへ遠ざかっていく。
その連鎖の中で、ひとつ、わずかに遅れた復唱があった。
「遅れてるぞ! 列を詰めろ!」
隣の兵が叫ぶ。
遅れた声の主は、木村勇上等兵か。
この規則正しい点呼のおかげで、
はるか後方にいる木村の息遣いまで、
手に取るようにわかった。
声は荒いが、まだ芯はある。
木村はまだ崩れていない。
列は保たれている。
だが、問題はそこじゃない。
さきほどの疑念が、
黒い泥のように心に広がっていく。
本当に、方向は合っているのか?
――――――――――
白は、すべてを奪う。
方向も。
距離も。
自信も。
そして――
「正しいつもり」という幻想さえも。
――――――――――
俺は前を見る。
何も見えなくても、
神成大尉や、山口少佐は、
そこにいるはずだ。
だが、同時に、確かめなければならない。
この行軍が、巨大な円を描いていないことを。
俺たちが「白き死の円環」に、
囚われていないことを。
ここで確かめなければ、手遅れになる――。
嫌な予感が、
凍てついた俺の思考に、
深く、静かに染み込んでいく――




