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偽りの抱擁

作者: 八島司

※noteでも投稿しています

 山路美穂(やまじみほ)は父のことが心配だった。父は母が出ていって以来、ずっと元気がなかった。

 昨日からなんとか会社には行ってくれるようになったが、食事や入浴の時など以外は思い悩んだ様子でぼうっとしているか、スマホの母の画像を眺めていることが多い。いや、食事や入浴すら美穂が声をかけなければ忘れて、ずっとそのままでいそうな様子だった。

 弟の壮太(そうた)は近くに住む叔母の家に預けてある。あそこには壮太と同じ年頃の純一がいるので寂しくはないだろう。

 美穂も母がいなくなったことにショックが無いと言えば嘘になる。だけど、どこかこうなることがわかっていたような気もした。


 思えばいつのころからか、母が自分たちを見る目はどこか乾いていた気がする。

 暴力を振るわれていたとか、面倒をみることを放棄し、放置されていたとかではない。家事はきちっとこなしてくれていたし、暴力などもってのほか――だけど、面と向かって(しか)られたこともなかった。

 学校のクラスの子たちは親なんて口うるさくてウザいなどと簡単に言う。だけど、美穂は母のことをそんなふうに思ったことは一度もなかった。一度もそんなふうに思えなかった、というべきかもしれない。

 勉強をせずに遊んでいようと、帰りが遅くなろうと、母は何も言ってこなかった。美穂を叱ってくるのはいつも父の方だった。そのことに気づいたはじめのころは父の目が無く母がいるときだけ、美穂は怠けたり、ちょっとした悪さをするようになった。だけど、あまりに母は何も言わず、次第に美穂は自分から怠けたり、悪さをするのをやめるようになった。弟の壮太が怠けたり、悪さをしたときは自分が姉として叱った。

 母は何も言わずとも娘が自分から気づいて怠けることやちょっとした悪さをやめると信じて放任していたのだろうか? 美穂が姉としてちゃんと壮太をしつけると信じて壮太の行動にも口出ししなかったのだろうか?

 違う、と美穂は思う。

 母はきっと、自分たちがどういう人間になろうとかまわなかったのだ。関心など持っていなかったのだ。

 その証拠に、美穂が全国模試で上位に入った時も、壮太が学校で表彰された時も、母の反応は「そう、よかったね」という淡白なものだった。嬉しそうな表情も見せなければ、詳しく話を聞こうともしなかった。父が帰宅してから報告すると、父は「すごいじゃないか!」と手を叩いて喜んでくれたのとは対照的だった。

 そんな母が半年ほど前から、どこか華やいだ雰囲気を見せるようになった。目を輝かせ、外出することが多くなった。

「今日はちょっと出かけてくるから、夕飯の支度お願いね」

 そう言って出かける母の足取りは軽やかだった。

 仕事に忙しい父や、友だちと遊ぶことに夢中のまだ幼い壮太は気づいていなかったようだが、そんな母の様子の変化から美穂は薄々こういう日がやってくることに無意識のうちに気づいていたのかもしれない。

 そして先週の金曜日、母は置手紙を残して家を出ていった。

『皆さんには申し訳ないことをします。でも、このままでは私はだめになってしまいます。新しい人生を歩ませてください。美穂、壮太のことをお願いします。』

 それだけだった。父への言葉も、愛情を込めた別れの言葉もなかった。まるで同居人への連絡事項のような、事務的な文面だった。


 今、父はテーブルの上に腕を枕にして伏せている。(かたわ)らには飲みかけのお酒が入ったグラス。どうやら酒でショックを誤魔化(ごまか)そうとしているうちに酔いつぶれて寝入ってしまったらしい。

 普段は酒を飲まない父だった。でも母が出ていってから、毎晩のようにコンビニで酒を買ってきては一人で飲んでいる。美穂は心配だったが、今の父を止められるような言葉を持たなかった。

 美穂は父に近づき、その肩をゆすった。

「お父さん、こんなとこで寝てないで。身体に良くないよ。寝るならちゃんとベッドで寝よう」

 声をかけると父が目を覚ました。美穂を見上げるまだ酔いを残した様子の父の目が見開いた。

「か、嘉穂(かほ)! 帰ってきたんだな!」

 そういって父は立ち上がり、突然、美穂のことを抱きしめてきた。

「ちょっ! お父さ、ちがっ……! あたし、美穂だよ! 放して!」

 酒臭い。まだ酔いが残っているのだろう。だから母と間違えているのだ。

 美穂はなんとか父を引きはがそうとするが、父は逃がすまいとするかのようにますます強く抱きしめてくる。息苦しいほどだ。

「お父さん、苦しい……あたし、美穂だよ。お母さんじゃない……」

 でも父には美穂の声が聞こえていないようだった。父の腕の中で、美穂は母の置手紙のことを思い出していた。

『美穂、壮太のことをお願いします』

 母は最後に残した手紙にさえ父へは何も言い残さなかった。心苦しさゆえ残す言葉が思いつかなかったのか、それともそれほどまでに二人の距離は開いていたのか。美穂には分からなかった。

 そのとき美穂は頬と肩のあたりに湿った感触をおぼえた。

「嘉穂……かほぉ……」

 父が、泣いている。

 母とは違い、美穂が勉強をさぼって遊んでいると「美穂、遊ぶのもいいけど、やるべきことをちゃんとやってからにしなさい」と叱ってきた父。テストでいい点を取ると「よくがんばったな」と言って頭を撫でてきてくれた父。大型の休みには車を運転して遠くに連れて行ってくれた父。進路のことを相談すると真剣に向き合ってくれた父。

 家事はあまりやってくれるタイプではなかったけど、それでも良き父といっていいひとだと思う。そんな父が、幼子のように涙を流して美穂にすがりついてきている。

 いつしか美穂は父を引き離そうとするのではなく、父の背中に手をまわして抱きしめ返していた。

 父の背中は震えていた。こんなに細くて、こんなに弱々しい背中だっただろうか。いつも頼りがいのある父だと思っていたのに、今の父はまるで壊れ物のように(もろ)く感じられた。

 母に去られた父の痛みがどれほどのものかわかった今、そんな父を突き放すことなどできなかった。たとえ自分のことを母と勘違いしているのだとしても、父の悲しみを受け止めてやりたかった。

「大丈夫だよ、お父さん……」

 美穂は父の背中を優しくさすりながら、そっと呟いた。嘘だと分かっていても、今の父にはその言葉が必要だと思えた。

 うちの家族……どうなってしまうんだろう……

 美穂の胸の内のつぶやきに対する答えは無い。今はただ、この(いつわ)りの抱擁(ほうよう)によって少しでも父の悲しみが癒えることを願うことしかできなかった。

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