2話 逃げ出して
王宮の門をくぐり、石畳の道を歩くペトリシェの背中を、見えない冷たい風が追いかける。背後からは、彼女を「狂人」と罵る声が聞こえてくる。しかし彼女は振り返らない。
まっすぐ前を見据え、一歩ずつ進んでいく。
その歩みは、まるで誰にも止められない運命そのもののようだった。
「お嬢様、馬車はこちらに」
馬車の扉を開けて待っていたのは、彼女に仕える執事のアレックスだった。ペトリシェは無言で馬車に乗り込むと、窓の外をぼんやりと眺める。王都の街並みは、今日も何も変わらない。活気にあふれ、人々は明日を信じて生きている。だが、彼女の瞳には、すでに失われた世界の残像が映っていた。
馬車が揺れながら進む中、彼女は静かに口を開いた。
「アレックス、荷物の準備は?」
「はい、既に滞りなく。明日の朝には出発できるかと」
「結構。では、行き先は?」
「お嬢様のご実家へ、という手配になっておりますが…」
ペトリシェは小さく首を横に振る。
「いいえ、それじゃ駄目。行き先を変えるわ、もっと遠くへ、人の手が入っていない、静かな場所へ。」
アレックスは、主の意図を察して静かに頷いた。彼もまた、ペトリシェの真意を理解する数少ない人物の一人だった。
「かしこまりました。では、行き先はお嬢様が前々から気になっておられた辺境の廃都、ルナウーンにて」
ペトリシェは、その言葉に満足げに微笑んだ。
「そう、あそこなら、邪魔も入らない。私は、美しい滅びの舞台を創らなくてはならないのですから。」
アレックスは、その言葉を静かに受け止めた。彼は知っていた。彼女の言う「美しい滅びの舞台」とは、決して他人事ではない。それは、この世界全体の運命であり、自分もまたその舞台の一部なのだと。彼の心には、不安と同時に、何よりも主への揺るぎない忠誠心があった。馬車が揺れ、王都の灯りが遠ざかっていく。これから始まる旅路が、いかなる結末を迎えるとしても、彼は決して彼女のそばを離れることはないだろう。
馬車は、賑やかな王都を抜け、人々の記憶から忘れ去られた、遥か遠い辺境へと向かうのだった。