Umemura’s
第1話:「マティーニの哲学」
新宿の片隅にある、知る人ぞ知る小さなバー、「Umemura's」。この俺、梅村が切り盛りする店だ。大した広さもないが、その分だけ、静かで落ち着いた空間が広がっている。薄暗い照明に照らされたカウンターには、古びた木の温もりが残っていて、いつの間にか常連たちが集う場所となっていた。
今夜も、そんな常連の一人、山田さんがカウンターの端っこに座っている。山田さんは昔からの客で、年は五十を過ぎたくらいだろう。仕事帰りにふらりと立ち寄り、軽く一杯を楽しむのが彼の習慣だ。口数は少ないが、目の奥には何か人生の深みをたたえている。俺がこのバーを始めた頃から、ずっと変わらずやってきている。
「梅村さん、今夜は何にしようかな」
いつものように、山田さんはぼそっと言う。俺は少し微笑んで、ガラス棚に並んだボトルたちを眺めた後、問いかける。
「今日は、マティーニにしませんか?」
彼は少し考え込むように眉を寄せたが、すぐに小さく頷いた。「いいね。マティーニか…何年ぶりだろうな」
俺は静かにグラスを取り出し、氷を手にした。マティーニは、シンプルだが奥深いカクテル。ジンとベルモットのバランス、そして冷え具合が命だ。この一杯には、作る側の美学が問われる。
カウンターの奥にいるティナが、ふらりと近づいてきた。アルバイトとして働いている彼女は、ちょっと不思議な存在だ。可愛らしい顔立ちだが、時折、鋭い観察眼を持っているような気配を感じさせる。
「マスター、今日はマティーニなんですね」と、ティナが楽しげに言った。
「そうだよ、ティナ。マティーニは、男のカクテルさ」と俺が答えると、彼女は小首をかしげた。
「でも、強いカクテルって、女性も楽しむものじゃないですか?たとえば、仕事で疲れた日とか…」
俺はティナの言葉に少し考え込んだが、すぐに笑って返した。「確かにな、ティナ。今の時代、男も女も関係ないかもな」
グラスに注がれたジンが、冷たい氷でゆっくりと冷やされていく。俺は慎重にベルモットを足し、静かにステアする。時間が止まったかのような瞬間。これが俺の、いや、この店の美学だ。
「さて、できたぞ」
俺は出来上がったマティーニを山田さんの前に置いた。クリアな液体がカクテルグラスに揺れ、オリーブが一つ沈んでいる。
山田さんはグラスを手に取り、静かに口元に運ぶ。そして、一口飲むと、わずかに目を細めた。
「…うん、やっぱりこれだ」
その言葉に、俺は胸の内でほっとした。マティーニは、シンプルなようでいて奥深い。作り手と飲み手の間に、ある種の信頼関係が必要だ。
その時、店の隅でピアノの音が鳴り始めた。ナベ君が、古いブルースのメロディを奏で始めたのだ。彼は少し太っていて、髪の毛が薄いが、演奏の腕前は確かだ。特にこの時間帯、彼のピアノが店の雰囲気を引き締めてくれる。
ティナはナベ君の演奏に合わせて、リズムを取りながら軽く踊る。彼女の動きは自然で、店全体がほんの少し明るくなるような気がする。
山田さんはもう一口、マティーニを飲みながら言った。「梅村さん、マティーニって人生みたいだな」
「どういう意味ですか?」俺はカウンター越しに尋ねた。
「シンプルなようで、バランスが大事ってことさ。ちょっとした違いで、全然違う味になる…人生もそうだろ?」
俺は少し考えてから、うなずいた。「確かに、そうかもしれませんね」
ティナがクスクスと笑いながら、山田さんに言った。「じゃあ、マティーニのバランスが崩れたときは、どうすればいいんですか?」
山田さんはその質問に少し戸惑ったが、やがて微笑んで答えた。「その時は、もう一杯頼むしかないな」
俺たちは皆、静かに笑い合った。そんな何気ない会話と、一杯のマティーニ。このバー「Umemura's」での夜は、いつもこんな風にゆっくりと流れていく。
第2話:「マルガリータと甘く苦い記憶」
「Umemura's」に夜が訪れるたび、この俺、梅村はいつものようにカウンターに立ち、さりげなく客たちの顔を見渡す。常連もいれば、初めて訪れる者もいる。新宿の喧騒から少し離れたこの小さなバーは、何故か人を引き寄せる魅力があるらしい。
今夜、カウンターに座っているのは美しい女性、名前は加奈子さんだ。彼女はここ最近、頻繁に店に顔を出すようになった。30代半ば、細身で洗練された雰囲気を持つが、どこか儚げな印象もある。彼女がカウンターに座ると、店内の空気が少し変わるのを感じる。
「梅村さん、今夜は何を作ってくれるの?」
彼女は少し微笑んで、俺に問いかける。俺は少し考えてから答える。「今夜は、マルガリータにしませんか?」
「マルガリータ…いいわね。ちょっと酸味が欲しかったの」
俺は微笑み返しながら、手際よくライムを絞り、テキーラを取り出す。マルガリータは、甘さと酸味、そしてほんの少しの苦味が絶妙に混ざり合ったカクテル。恋愛みたいなものだな、とふと考える。
グラスの縁に塩を振りかけながら、俺は彼女の表情を伺う。加奈子さんは、どこか遠くを見つめているような目をしていた。思い詰めたような表情が、何かを抱えていることを示している。
「加奈子さん、何かあったのか?」
俺は自然な流れで問いかけた。彼女は一瞬驚いたようだったが、すぐに肩をすくめて微笑んだ。「やっぱり、隠せないのね。梅村さんって、鋭いわね」
「ここに長くいると、自然とそうなるんだよ」
彼女はため息をつき、カウンターに肘をついて話し始めた。「実はね…恋人と別れたばかりなの。彼とは長い間一緒にいたけど、どうにもならなくて」
俺は静かに彼女の言葉に耳を傾けながら、カクテルをシェイクした。グラスに注がれるマルガリータの鮮やかな色が、彼女の話に寄り添うように見える。
「どうにもならなかった、か。それでも、長く一緒にいられたんなら、それなりに良い時もあったんだろう?」
「もちろん、そうよ。でも…結局は、何かが足りなかったのかもしれない」
俺はグラスを彼女の前に置き、少し考えてから言った。「マルガリータも、何か一つでもバランスが崩れると、全く別の味になる。恋愛も、そんなもんじゃないか?」
加奈子さんはその言葉に、少しだけ目を見開いた。そして、そっとグラスを手に取り、一口飲む。
「うん…そうかもしれないわね。酸っぱくて、でも、甘くて、少しだけ苦い。まさに今の気持ちみたい」
俺は静かにうなずいた。マルガリータは、確かにそんなカクテルだ。複雑な味わいの中に、いろんな感情が詰まっている。
その時、ティナがふらりと現れて、にこやかに加奈子さんに話しかけた。「加奈子さん、今日はちょっと元気ないですね。何かあったんですか?」
加奈子さんは驚いた顔をしてから、笑顔を浮かべた。「うん、ちょっとね。でも、このマルガリータで元気が出てきたわ」
ティナは嬉しそうに頷き、今度は俺に向かってウインクした。「さすがマスター、いい選択です!」
俺は肩をすくめて笑い返す。ティナは本当に不思議な子だ。時折、鋭いことを言うし、人の気持ちを察するのが上手い。
店の片隅で、ナベ君が再びピアノを奏で始めた。今夜は軽やかなジャズのメロディだ。彼の音楽が、店内に流れる空気を柔らかくする。
加奈子さんはピアノの音色に耳を傾けながら、再びマルガリータを口に運んだ。そして、ふと俺を見つめて言った。
「梅村さん、あなたはどうなの?恋愛とか…」
突然の質問に、俺は少し驚いたが、すぐに落ち着いて答えた。「この店が恋人みたいなもんさ。まあ、昔は色々あったけどな」
「その『昔』の話、聞かせてほしいわ」
彼女の目は真剣だった。俺はしばらく沈黙した後、少しだけ昔の記憶に触れることにした。「まあ、大した話じゃないけど…昔、俺にも好きな人がいたんだ。けど、お互い忙しくて、結局すれ違いばかりだった」
「それで、別れたの?」
「そうだな。結局、俺がこの店を始めるために、色々と犠牲にしたんだ」
加奈子さんはしばらく黙っていたが、やがて静かに言った。「そういうことって、あるのね」
「そうだ。けど、俺はこの店があるから、後悔はしてない。自分で選んだ道だからな」
彼女はそれに少し微笑んで、グラスを持ち上げた。「それじゃあ、私も自分で選んだ道を進むしかないわね」
俺も軽くうなずいた。「その通りだ。人生は、いつも自分でバランスを取らなきゃならない」
加奈子さんは最後に一口、マルガリータを飲み干した。そして、まるで何かを吹っ切ったように、すっきりとした表情で俺に言った。「ありがとう、梅村さん。今夜は少しだけ元気になれた気がするわ」
俺は微笑みながら彼女を見送り、カウンターの上に残された空のグラスを片付けた。マルガリータの余韻が、ほんのりと甘酸っぱく、そして少しだけ苦い。
夜はまだ、続いていく。
第3話:「ラスティ・ネイルと影の話」
「Umemura's」の夜は、いつものように静かに始まった。この俺、梅村はカウンターに立ち、夜の訪れとともにやってくる客たちを迎える準備をしていた。店の隅では、わた君がゆっくりとピアノの調律をしている。彼の指が鍵盤に触れるたび、店内に柔らかな音色が漂い始める。
その夜、扉が静かに開き、一人の男が姿を現した。彼の名前は双太さん。ベージュのトレンチコートにハット、サングラスをかけている。その姿は、まるで映画のワンシーンのようだ。いつも寡黙で、どこか影のある男だが、この店では常連の一人だ。
「よう、梅村さん」と、彼は落ち着いた声で言いながら、カウンターに腰を下ろす。
「いらっしゃい、双太さん。今夜は何にする?」俺はいつものように尋ねた。
双太さんはカウンターの奥に並んだボトルたちを眺めた後、ドランブイのボトルに目を止めた。中身が半分ほど残っていることに気づき、軽く顎をしゃくった。
「最近、左利きのジョーは来てないのかい?」と、彼が低い声で尋ねた。
俺はその問いに、ほんの少しの間を置いてから、軽口で応じた。「ああ、奴は死んだぜ。組織の殺し屋に撃たれてな…」
その瞬間、カウンターの向こう側でティナが大爆笑し始めた。彼女は身をよじりながら、涙を浮かべて笑い転げている。
「も、もう、マスター!それ、本気で言ってるんですか?殺し屋って…映画じゃないんですから!」
俺は肩をすくめて笑いながら、双太さんに目を向けた。「ほら、ティナには通じないんだよ、こういう洒落は」
双太さんも口元に微笑みを浮かべた。「そうだな、ティナにはまだ早い話かもしれない」
俺は、グラスを取り出し、ドランブイとスコッチを手にした。「それじゃ、ラスティ・ネイルを作るとしよう」
ラスティ・ネイルは、大人のカクテルだ。甘さとスコッチの強さが絶妙に絡み合う、どこか昔の記憶を呼び起こすような一杯。俺は手際よく氷をグラスに入れ、スコッチを注いでから、ドランブイをゆっくりと足した。
双太さんはグラスを受け取り、一口飲んでから、静かに呟いた。「やっぱり、これだな。落ち着く」
ティナはまだクスクスと笑いながら、カウンター越しに双太さんを見つめていた。「でも、左利きのジョーって、本当にいるんですか?もしかして、マスターの昔の知り合いとか?」
俺はグラスを拭きながら、軽く首を振った。「ああ、ティナ。ジョーは、ただの洒落さ。この業界には、いろんな伝説があるけど、全部が全部、本当じゃない」
ティナは少し残念そうな顔をしたが、すぐにまた明るい笑顔を見せた。「そうかぁ。でも、マスターの話、いつも面白いから好きです!」
双太さんはそのやり取りを聞きながら、再びグラスを口に運んだ。彼の瞳の奥には、どこか遠い場所を見つめるような影があった。何かを抱えているような気配が、彼の周りにはいつも漂っている。
俺はそんな双太さんに、そっと問いかけた。「双太さん、今日は何かあったのか?」
彼はしばらく沈黙した後、静かに答えた。「いや、何も。ちょっと昔のことを思い出していただけだ」
「昔のこと、か…」俺はグラスを手に取りながら、彼の言葉を反芻した。「ラスティ・ネイルを飲むと、過去の記憶が蘇ることってあるよな」
「そうだな」と、彼は頷いた。「このカクテルの甘さと苦さが、過去の甘い思い出と苦い後悔を一緒に呼び覚ますんだ。まるで、人生そのものみたいに」
俺は静かにうなずき、ティナに目を向けた。彼女はその深い会話に耳を傾けていたが、まだその意味を完全に理解するには若すぎるようだった。それでも、彼女なりに感じ取るものがあったのか、少し真面目な表情でグラスを拭いていた。
ナベ君のピアノの音色が、そんな静かな時間を包み込むように響く。ブルースのメロディが、店内にゆっくりと流れ、夜の空気をさらに深く染めていく。
「そういえば」と、双太さんがふと思い出したように言った。「左利きのジョーが、本当にここにいたら、どんなカクテルを頼むんだろうな?」
俺は少し考えてから、冗談めかして答えた。「きっと、ダブルのラスティ・ネイルだ。奴は、甘いもんが好きだからな」
双太さんは微笑み、ティナもまた笑顔を取り戻した。そして、夜はさらに深まっていく。ラスティ・ネイルの余韻が、甘く苦く、そしてほんのりとした温かさを残しながら。
第4話:「ブラッディ・メアリーと揺れる心」
新宿の夜が静かに深まる中、「Umemura's」ではいつものように穏やかな時間が流れていた。この俺、梅村は、カウンター越しに客たちの様子を眺めながら、ナベ君の静かなピアノの音に耳を傾けていた。ティナは、カウンターの向こうでグラスを磨きながら、ふわふわとした表情で店内を見渡している。
扉が開き、ひとりの女性が入ってきた。加奈子の職場の友達、静香さんだ。クールな美貌を持ちながらも、その表情にはどこか疲れがにじんでいる。彼女は、いつものように静かにカウンターに腰を下ろした。
「こんばんは、梅村さん」と彼女は少し微笑んだが、その笑顔には力が感じられなかった。
「こんばんは、静香さん。今日は何を飲みますか?」俺はいつものように彼女に声をかけたが、彼女の雰囲気に少し違和感を覚えた。
静香さんは、しばらく黙って考えるように目を伏せていたが、やがてゆっくりと口を開いた。「ブラッディ・メアリーをお願いできますか?」
「ブラッディ・メアリー、ですね」と俺は確認しながら、少し驚いた。ブラッディ・メアリーはトマトジュースとウォッカを使ったカクテルで、爽やかさと同時に独特の強さを持っている。静香さんがこのカクテルを選ぶのは珍しい。
俺は、静かに彼女のオーダーに応じて、トマトジュースとウォッカ、そしてスパイスを手際よくシェイカーに入れた。ガーニッシュには、セロリを添える。ブラッディ・メアリーは、どこか鋭さと冷静さを感じさせるカクテルだが、その裏には揺れ動く感情が隠れているようにも思える。
「お待たせしました」と、彼女の前にカクテルを置いた。鮮やかな赤い色が、彼女の白い指先に映える。
静香さんは、グラスを手に取り、じっとその赤い液体を見つめた。そして、ゆっくりと一口飲んだ。
「ブラッディ・メアリー…この強さが、今の私にぴったりかもしれません」静香さんは静かに言った。
「何かあったんですか?」俺は、彼女の言葉に少し踏み込んでみた。彼女がこのカクテルを選んだ理由が気になったからだ。
彼女は、ため息をつきながら、目を伏せた。「職場でのことや…恋のことで、少し疲れてしまったんです」
「恋のこと?」俺は少し驚いて尋ねた。静香さんは普段、感情をあまり表に出さないが、今日は何かが違う。
「ええ…」静香さんは、少しだけ視線を俺に向けたが、すぐにまたカクテルに視線を戻した。「好きな人がいるんです。でも、その気持ちをどう伝えればいいのか分からなくて…」
その言葉に、俺は少し言葉を失った。彼女の落ち着いた美貌の裏に、そんな繊細な感情が隠れていたとは思わなかった。
「伝えるのは、難しいですよね」俺は静かに答えた。「でも、どんな結果になるにせよ、自分の気持ちを伝えることは大切だと思いますよ」
静香さんは、俺の言葉に小さく頷いた。「そうですね…でも、怖いんです。拒絶されるのが…」
「それは誰だって怖いことです」と俺は優しく言った。「でも、何もしないままでいると、そのまま何も変わらない。勇気を出してみることも、時には必要ですよ」
彼女はしばらく黙っていたが、やがて静かに微笑んだ。「ありがとう、梅村さん。あなたの言葉、少し勇気が出ました」
その微笑みに、俺は少しだけ胸がざわついた。彼女の抱えている恋の相手が誰なのか、そしてその恋がどうなるのかは分からない。ただ、彼女が少しでも前に進むことができれば、それでいいと思った。
静香さんは、ブラッディ・メアリーを飲み干し、ふっと息をついた。「今日は、ありがとう。少し元気になりました」
「またいつでも来てくださいね」と俺は微笑んで答えた。
静香さんは、カウンターにお金を置き、軽く手を振りながら店を出て行った。その背中を見送る俺の胸には、彼女の言葉が静かに残っていた。
夜がさらに深まり、ナベ君のピアノが静かに店内に響いていた。
第5話:「ブルー・ムーンと揺れる想い」
夜が静かに更けていく「Umemura's」。ナベ君のピアノが店内を優しく包み、ティナがカウンターの向こうで楽しそうにグラスを磨いている。俺、梅村はその光景を眺めながら、どこか落ち着かない気持ちで仕事をしていた。静かに夜を楽しむ常連客たちの間に、何かが変わりつつあるような、そんな予感がしていたからだ。
ドアが開き、静香さんがゆっくりと入ってきた。クールな美貌を持つ彼女は、いつもどおり落ち着いた表情でカウンターに腰を下ろした。しかし、俺の目には、彼女のその静けさの中に、何かが隠れているように映った。
「こんばんは、梅村さん」と、静かに彼女は微笑む。
「こんばんは、静香さん。今日は何を飲みますか?」俺はいつものように声をかけたが、彼女の表情に注意を払っていた。
「ブルー・ムーンをお願いできますか?」静香さんは、静かに答えた。
ブルー・ムーン…カクテル言葉は「叶わぬ恋」。以前もこのカクテルを頼んだ彼女が、再びこの選択をするということは、何か心の中に揺れるものがあるのだろうか。
俺は、彼女のオーダーに応じて、バイオレット・リキュールとジンをシェイカーに注ぎ、カクテルを作り始めた。その過程で、ふとティナがこちらを見つめていることに気づいた。いつもは明るく無邪気な彼女だが、今夜はどこかその笑顔が陰りを帯びている。
静香さんの前にブルー・ムーンを置きながら、俺はティナの視線が気になった。彼女も何かを感じ取っているのだろうか。
「どうぞ、静香さん。ブルー・ムーンです」と俺は彼女に差し出した。
静香さんは、グラスを手に取り、その美しい青紫色をじっと見つめた。「この色…まるで叶わない想いを象徴しているみたいですね」彼女は静かに呟いた。
「その恋が叶うかどうかは、まだ分かりませんよ」と俺は返した。言葉は慎重に選んだが、心のどこかで彼女の気持ちを理解しているような気がしていた。
「そうですね…」静香さんは少しだけ微笑んだが、その笑顔にはどこか切なさが混じっていた。
その時、ティナが突然、俺のそばに来て、俺の袖を引っ張った。「梅村さん、今夜、ちょっとお話してもいいですか?」
彼女のいつもの無邪気さがそこにはなかった。俺は、彼女の瞳に何か言いたいことがあるのを感じ取った。
「もちろん、ティナ。少し後で話そうか?」俺は静かに返した。
ティナは小さく頷き、再びカウンターの向こうに戻ったが、彼女のその表情にはどこか憂いが残っていた。
静香さんがカクテルを口に運びながら、俺をじっと見つめている。その視線が俺の胸をざわつかせた。彼女の気持ちが俺に向いているのだろうか。だが、その一方で、ティナの存在も気になっていた。
夜が更けるにつれ、店内はますます静かになっていった。ナベ君のピアノも、どこか物悲しいメロディを奏で始めている。
静香さんはカクテルを飲み終え、静かにグラスを置いた。「梅村さん、あなたに…何か伝えたいことがあるんです」と彼女は静かに言った。
その言葉に、俺の心臓が一瞬止まったかのようだった。だが、その瞬間、ティナが俺のそばにそっと寄り添い、囁くように言った。「私も、梅村さんに話したいことがあるんです…」
二人の女性の視線が俺に向けられる中、俺は静かに息をついた。ブルー・ムーンの青紫色が、どこか切なさを映し出しているように感じた。今夜、このバーで交差する恋の想いが、どこへ向かうのかは、まだ誰にも分からない。
第6話:「エックス・ワイ・ズィーと運命の夜」
「Umemura's」の静かな夜は、何も変わらないように見えた。いつも通り、ナベ君のジャズが流れ、ティナはカウンターの向こうで微笑んでいる。この俺、梅村もいつも通り、カクテルを作りながら、店の空気を感じ取っていた。
だが、その夜の空気には、何か異質なものが混じっていた。張り詰めた緊張感が漂い、どこか心の奥で不安がざわついていた。
扉が開き、静香さんが入ってきた。彼女はいつものようにクールで美しいが、その目には何か鋭い光が宿っていた。俺は彼女を見て、何かが違うことを直感的に感じ取った。
「こんばんは、梅村さん」と静香さんは微笑んだが、その笑顔にはどこか冷たさがあった。
「こんばんは、静香さん。今日は何を飲みますか?」俺はいつものように声をかけたが、内心では彼女の様子を警戒していた。
「エックス・ワイ・ズィーをお願いします」と、彼女は静かに答えた。
エックス・ワイ・ズィー…ライムジュースとラム、そしてトリプルセックを使ったシンプルだが深い味わいのカクテルだ。だが、そのカクテル名が今夜の空気をさらに不穏なものにしているように感じた。XYZ、まるで物事の終わりを暗示しているような響きがあった。
俺はカクテルを作りながら、静かに彼女を観察していた。静香さんはカウンター越しに俺を見つめている。その視線は鋭く、まるで何かを決意したような強さを帯びていた。
「お待たせしました。エックス・ワイ・ズィーです」と、俺は彼女にグラスを差し出した。
静香さんは、グラスを手に取り、一口飲んだ。その瞬間、彼女の目に何か決断のようなものが見えた。
「梅村さん…あなたに伝えたいことがあるんです」と彼女は静かに言ったが、その声には冷たさが混じっていた。
「何ですか?」俺は慎重に応じた。
静香さんは、グラスを置き、ゆっくりとカバンから何かを取り出した。それは小さなナイフだった。彼女の手は、そのナイフをしっかりと握りしめていた。
「あなた…どうして、私の気持ちに気づいてくれなかったの?」彼女の声が震えている。静かな怒りと悲しみが混じっていた。
「静香さん…」俺は何とか彼女を落ち着かせようとしたが、その瞬間、彼女は一気にナイフを振り下ろした。
刃が俺の腹に深く突き刺さる感覚があった。痛みが全身を駆け巡り、息が詰まった。俺はゆっくりと後ろに倒れ込みながら、静香さんの表情を見た。彼女の目には涙が浮かんでいた。
「ごめんなさい…ごめんなさい…」静香さんは何度も繰り返しながら、その場に崩れ落ちた。
店内は静まり返り、ナベ君のピアノも止まった。ティナが叫び声をあげ、駆け寄ってくるのが見えたが、俺の意識は次第に遠のいていった。
カウンターに置かれたエックス・ワイ・ズィーのグラスが、どこか不吉な輝きを放ちながら、静かに揺れていた。
第7話:「エッグ・ノッグと奇跡の夜」
冷たい風が新宿の街を吹き抜ける夜、俺、梅村は「Umemura's」のカウンターに立っていた。奇跡的に生還した…というのが適切な表現だろう。あの日、静香さんのナイフが俺を貫いた瞬間、自分の人生が終わったと思った。だが、奇跡的に命を取り留め、こうしてまたカクテルを作る日々に戻ってきた。
店内は静かで、ナベ君のピアノが優しく響いている。だが、今夜はどこか違う。いつもの落ち着きとは異なり、再びこの場所に立てたことへの感謝が心に満ちていた。
扉が開き、ティナが駆け込んできた。彼女の顔は驚きと安堵が入り混じり、目には涙が光っていた。
「梅村さん…!本当に…本当に無事だったんですね!」ティナは涙をぬぐいながら、俺の前に立っていた。彼女の小さな手が、震えるように俺の袖を掴んでいる。
「おかげさまでね、ティナ。しぶとく生き残ったよ」俺は軽く笑ってみせたが、彼女の目にはまだ不安が残っているようだった。
「本当に…もう二度とこんなことが起こらないでほしいです」ティナは、感極まったように俺を見つめた。「梅村さんがいなくなったら…私…」
その言葉の続きを聞く前に、俺は彼女をそっと抱きしめた。「大丈夫だよ、ティナ。俺はここにいる。そして、これからもこのバーで君と一緒に働く」
ティナは俺の腕の中で小さく頷き、涙を流しながら微笑んだ。
「ありがとう…梅村さん、本当に…」
少しの間、俺たちはそのまま静かに立ち尽くしていたが、やがてティナが顔を上げた。「今日は…特別なカクテルを作りませんか?」
「特別なカクテル?」俺は彼女の言葉に興味を引かれた。
ティナは微笑みながら、少しはにかんだように言った。「エッグ・ノッグを作りましょう。温かくて優しい気持ちになれる、冬の定番カクテルです。梅村さんの生還を祝って…そして、これからの新しいスタートに乾杯しましょう」
「エッグ・ノッグか…いい提案だな」俺は、ティナの提案に賛同しながら、早速材料を揃えた。エッグ・ノッグは、ミルク、クリーム、卵、砂糖、そしてラムやブランデーを混ぜ合わせて作る、冬の定番カクテルだ。その温かさと濃厚な甘さが、寒い夜に心を温めてくれる。
俺は静かにエッグ・ノッグを作り始めた。卵を割り、ミルクとクリームを合わせ、ラムを少しだけ注ぐ。シナモンを軽く振りかけて、ティナに笑顔で差し出した。
「お待たせしました、ティナ。これが俺たちのエッグ・ノッグだ」
ティナはそのカクテルを受け取り、じっとその温かい液体を見つめた。「梅村さん…これからもずっと一緒に働いてくれますか?」
「もちろんだよ、ティナ」と俺は微笑んで答えた。「君と一緒に、このバーを続けていこう」
ティナは満足げに頷き、エッグ・ノッグを一口飲んだ。その瞬間、彼女の顔に柔らかな笑みが広がり、店内に温かい空気が満ちていくのを感じた。
「これからも、よろしくお願いしますね、梅村さん」と、ティナは静かに言った。
「こちらこそ、よろしくな、ティナ」俺は微笑んで答えた。
夜は更けていくが、「Umemura's」の中には、二人の新しいスタートを祝う温かい気持ちが満ちていた。ナベ君のピアノが、穏やかなメロディを奏でながら、その夜を優しく包み込んでいた。




