01 発端
深夜。日付が変わってからだいぶ経つはずだ。
社畜の俺は、今日もサービス残業を終えてフラフラになっていた。
「うちに帰れるだけマシか……」
一人トボトボと歩きながら、誰に言うともなくつぶやく。
風呂に入って寝る。それのみを考えながら、足を機械的に互い違いに動かす。
不意に、手の甲に傷みがはしった。
「痛ってぇ!」
何か鋭いもので突き刺されたらしい。
見ると、黒っぽい生き物が、手にしがみついている。
ネズミ? いや、羽があるからコウモリか?
ネズミもコウモリも、見ようによっては可愛いが、この状況では違う。
「うわっ! なんじゃこりゃ」
俺は悲鳴を上げて、大きく手を振りまわす。
びたん!
そいつは俺の手を離れ、歩道のアスファルトで跳ねる。
その勢いのまま車道にころがっていった。
ちょうど通りかかったトラックが、絶妙のタイミングでそいつを踏みつぶす。
道路には平べったいコウモリの死骸、トラックは何も気づかずに去って行った。
「うわぁ……」
コウモリにちょっと同情したが、やはり自分の身の方が大事だ。
手の甲を街灯にかざして見る。
小さな穴が二つ開いて血が流れている。
傷自体は大したことはなさそうだが、なんとも嫌な気分だ。
「ちくしょう、なんなんだよこれ……」
やっとうちに帰って来た。
鉄骨造り二階建てのアパート。
入居するのに保証人がいらないこと以外は、何もかも最悪の物件だ。
壁は薄いし、ゴキブリは出るし、住人はろくでもない奴ばかりだし。
「ともかく、風呂に入ろう」
傷の血はもう止まっていた。良く洗ってから、アルコールで消毒する。
スティーブンキングの『クージョ』がふと頭に浮かぶ。
狂犬病の発端がコウモリだったと思うが……。
とにかく眠くてたまらない、今は気にしないことにした。
越してきた当初からの万年床に滑り込むと、ストンと眠りに落ちてしまった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
あれから約五十年後。
実のところ、正確な年月は良く分からない。
発掘した新聞雑誌の記事とか、街の各部の劣化具合とか、車道の真ん中に生えている大木の育ち具合とか、いろいろな情報を総合して、そう結論付けたのだ。
数年ってことはないだろうし、千年以上ってこともないだろう、たぶん。
なにしろ見渡す限り、どこまで行っても廃墟、廃墟、廃墟。
文明の利器はほとんどが瓦礫の下にうずもれてしまっている。
掘り出したスマホも腕時計もどれもこれも動いていない。
天文学の知識があれば、太陽や星の動きから正確に分かったかもしれない。
しかし、平凡な一般人の俺には無理な相談だ。
ともかく、俺は相当に長いこと眠っていたらしい。
俺が眠っている間に、世界は『異界震』と呼ばれる災害に見舞われた。
それによって世界は壊滅的な打撃を受けたのだった。
異界震。
ある日、異世界とこの世界をつなぐトンネルがあちこちに出現した。
トンネル出現の際に超巨大な地震が起こり、世界は半壊した。
さらに悪いことに、そのトンネルから『妖魔』と呼ばれる異世界の危険生物が大発生したのだった。トンネルは一方通行であり、こちらからは侵入することも塞ぐこともできなかった。
各国はあらゆる手段を講じたが、結局、有効な手は何も打てなかったようだ。
この一連の凶事は、後に異界震災もしくは異界震と呼ばれることになった。
あくまでも、当時の新聞雑誌からの推測なので、俺は本当のことを知らない。
当時を知る人間にまだ出会ってないので、確認しようがないのだった。