3 不遇公女と逃亡中の王太子①
暫くの間、アリシアは絨毯の上でへたり込んでいた。
「あ、声……?」
目を伏せていたアリシアは再び前を向く。丁度、目線の先にある禁止区域の方から文句を垂れ流すヴィヴィの声が聞こえてきた。
「ちょっと離しなさいよ~! あなたの持ち場の上司に、直接文句を言ってあげるんだから~!」
ヴィヴィの怒声と共にやって来た男性は、手足をバタバタと動かして暴れているヴィヴィを軽々と担いでいた。
その男性は細身で長身。肩まである髪を一纏めに結び、執事服のような品の良い黒色の上下服を着こなしている。上着の下には色付きベストとなめらかな素材の白シャツ。首元のリボンには、裏生地と同じくすんだ赤色が使われていたが、甘ったるい感じはしない。男性の容貌から滲み出る聡明さがそれを打ち消して、程よくバランスを取っている。
また見た目では分かりにくいが、ヴィヴィを担いでいる男性はその上品な洋装の下に鍛えた身体を隠していた。
アリシアはその男性をじっと見つめると、「執事ではなく、格式の高い人物で文武に長けている」と見立てたが、そんなことはお構いなしにヴィヴィは暴れている。
男性はアリシアと目が合うとふわりと笑い、その直後、ヴィヴィを荷物のように放り投げて赤い絨毯の上に転がした。両親に愛されて乱暴に扱われたことがなかったヴィヴィは、ショックを受けて、沈黙している。
男性は何も言わずにヴィヴィを見下ろしていたが、アリシアが目を離した隙に姿を消していた。
「ヴィヴィ、大丈夫?」
「…………」
「ヴィヴィ?」
「……だ、大丈夫な訳ないじゃない。最悪よ、私を荷物みたいに扱って……。しかも、大事な髪飾りをどこかに落としちゃったじゃない」
アリシアの胸がざわついた。ヴィヴィの顔は今、欲しがる時と同じ顔をしているのだ。
「ねぇ、お姉様。私のことを想うなら、立ち入り禁止区域まで足を運んで、髪飾りを探してきてくれないかしら?」
「でも、それは……」
「挽回する良いチャンスだと思うのよね。危険を冒してまで私の髪飾りを探してくれたら、お父様もお母様も、零性遺伝子持ちのお姉様を認めてくれるわ。何も成せないお荷物長女じゃなかったって」
「…………ッ!」
ヴィヴィのその言葉に、さすがのアリシアも「馬鹿にしないで」と泣きたくなったが、ぐっと言葉を飲み込んだ。
「……分かったわ。青いリボンが付いたバレッタを探せばいいのね」
「そうよ、お母様から貰った誕生日プレゼントなの。手作りの、ね……」
余計な説明まで付け足してくれたヴィヴィだが、その挑発には乗らず、アリシアは逃げるようにして立ち入り禁止区域に入っていった。なるべく廊下の端を静かに歩く。角を曲がる時は人がいないか確認しながら進み、目を駆使して探した。しかし、目立つはずの青いバレッタはどこにも落ちていない。
もう少し奥まで行くことにしたアリシアの前に、分かれ道が現れる。それを見たアリシアは、右に曲がるか左に曲がるか、暫し頭を悩ませた。
「ええっと……」
「……探しもの?」
「ええ、バレッタを落として、ひゃあ! んぐぅ……」
驚いて変な声が出たが、後ろから伸びてきた手に口を塞がれる。藻掻きながら振り返ると、そこにはアリシアと同い歳くらいの、育ちが良さそうな男の子がいた。
黄金に色付いた小麦畑のような金髪に、澄んだ海のように碧い瞳を持つ男の子だ。小説に書かれている「王子さま」の特徴にそっくりで、衣装は控えめだが、立ち姿は様になっている。
男の子の身なりを見て、アリシアは上級貴族の令息だと確信した。悪戯っぽく笑うその子はアリシアの様子を見ると手を離し、ジェスチャー付きで「シー」と言う。アリシアは首を縦にこくこくと振った。
「ありがとう。僕は今、ある人に追われていて、見つかると厄介なんだ」
「あの、私が言うのも変だけど、ここは立ち入り禁止区域なのよ。危ないわ」
「それは大丈夫。それより、僕も一緒に探しものを探そうか?」
「え、いいの? ありがとう」
アリシアが同い歳くらいの子供と話をするのは、久し振りだった。友達だった伯爵家のレイチェルと幼馴染だった侯爵家のグレイは、アリシアと親しい同い歳の子供だったが、ヴィヴィが彼らに嘘を吹聴したために誤解が生じ、仲が壊れてしまったのだ。
それが原因で、アリシアは新しい友達を作らない。
ただアリシアは、友達だった2人を諦めた訳ではなかった。本当は2人とまた以前のように話がしたいと思っているのだ。しかし、2人と仲を修復しようとしても必ずヴィヴィの邪魔が入り、誤解を解くことはできなかった。
言葉巧みに人心を掌握するヴィヴィの手法は、鮮やかだ。やはりヴィヴィは、両親の優秀な遺伝子を継いでいるのだと思い知らされる。自分が無力になったように感じ、アリシアはその度に落ち込んだ。
そのような事情を抱えるからこそ、アリシアはルイスに会えて嬉しかった。まだ友達でも何でもないが、同い歳くらいの子供と話せることがこんなにも胸をときめかせることだったなんて、新発見だと思ったくらいに。
「自己紹介が遅れてしまったけど……。私はメロディアス公爵家の長女、アリシアです。年齢は12歳だけどもうじき13歳になるわ。あなたは?」
「僕は……逃亡中のルイス。13歳だ」
「と、逃亡中?」
アリシアの顔が青々としてきたので、ルイスは言い直した。
「そういう意味じゃない。ただ、勉強が嫌でその……逃げているだけだ」
「……どうして?」
「え、どうしてってそんなの決まっているじゃないか。毎日休みなく勉強して、政治や語学に魔法学、礼儀作法やダンスを学ぶ。食事中だって気が休まらない。だから逃げ出した。アリシアも貴族なら、逃げ出したくなる日くらいあるだろう?」
「……羨ましい。逃亡中のルイスは、皆に期待されているのね」
「え、期待……?」
アリシアの言葉に、ルイスは酷く衝撃を受けたような顔をしていた。今までそのような言葉をかけてくれる人間がいなかったのか、まるで信じられないものを見るような視線まで寄越してくる。
黙ってしまったルイスの代わりに、アリシアは自分の気持ちを話し始めた。
「……私は勉強が好きよ。何もない私でも、頑張れば道が開けると夢を見られるから。脆弱で短命で取り柄もない私は、将来何も成せない。だから、知識くらいは頭に詰め込まないといけないと思っているわ。肝心な時に、迷わないように。でも……」
気丈に話していたアリシアの瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。
「どれだけ頑張っても、何も変わらない気がして……。ルイスに意見する資格なんて、ないのに……」
流した涙にアリシア自身が一番驚いていた。
今日初めて会ったルイスの前で、みっともなく泣くなんて思わなかったのだ。慌てて涙を止めようとしても、止められない。それが余計にアリシアの不安を煽り、結果わぁんわぁん泣き喚いてしまった。
意外だったのは、取り乱すアリシアの様子を見てもルイスが動揺する素振りを見せなかったこと。
「ごめん、アリシア。僕こそ無神経だった。公爵家なら教育に熱心だろうし、僕のことを理解してくれると安直に考えてしまった。僕はいつか人の上に立つ人間なのに、言葉はよく考えて使いなさいって父上に言われていたのに……。ごめん」
ルイスは力強く拳を握り締めて俯いた。悔しそうな表情を湛えるルイスの姿は、涙で滲むアリシアの瞳に朧気に映る。しかし、自身の泣き声のせいでルイスの言葉は聞こえなかった。「ごめん」という言葉を除いては。
アリシアはしゃくり上げながらも、今の気持ちをルイスに伝える。
「謝ら、ないで。ひっく、ひっ……。ルイスは、悪くない」
「……ほら、アリシア。これで涙を拭いて」
ルイスが取り出したのは、素朴で不釣り合いな刺しゅう入りのハンカチだった。滲む目を擦りながらも、それを見たアリシアは、「素敵なハンカチだから、汚せないわ」と遠慮する。しかし、ルイスは構わず、丁寧にアリシアの顔を拭いた。
アリシアの人生の中で、こんなにも優しく接してもらえたのは、初めてのこと。その優しさに感極まり、アリシアはまたボタボタと涙を流す。狼狽えるルイスに、「これは嬉し泣きのせいよ」と伝えたかったが、そのタイミングは逸してしまった。