10 呪いの命名
「……もう、朝?」
柔らかな朝陽が射し込み始めると、鳥たちの囀りが聞こえる。いつもと同じ「陽の光」と「音」で目覚めるアリシアだったが、朝の読書や散歩に興じるために支度を手早く終わらせることはしなかった。
今日のアリシアは素晴らしい朝の風景を目の前にしても、重い瞼を擦り欠伸を一つしただけだ。その後、アリシアは窓の外ではなく床を見る。とても公女の部屋とは思えないほどの散らかり様で、足の踏み場がない凄惨たる光景が広がっていた。
アリシアは頬を抓り、気を抜くと閉じていく意識を何とか繋ぎ止めた。その顔はどんより暗く、朝陽を浴びても紅玉の眼は濁った水のように輝きがない。原因は熟睡できなかったことにあるが、それは散らかった部屋――ひいては昨夜の出来事に起因していた。
昨夜、ヴィヴィと別れたアリシアは入学手続き書を握り締め、リーサの部屋から私室へと走って戻った。その間、異常なことは何も起きていない。アリシアは呪いの影響を感じることなく、無事部屋に辿り着いたのだ。
『私生活には少し支障が出るけど、死ぬ訳ではないし、呪いに慣れれば普通に暮らせるわ』
部屋に戻ったアリシアは、そんなヴィヴィの言葉を思い出す。
信じるには早計かもしれないが、ヴィヴィの言っていたことは本当かもしれないと思い始めていた。しかし死に至る呪いでなければ、どんな呪いなのか。それについては全く想像ができなかったが、少し支障が出るくらいなら問題ないと、簡単に受け止めようとしていた。
そうして不安を頭の隅に追いやると、眠気に襲われて瞼が重くなった。入学手続き書を書くのは明日にしようと机の上に置き、大きなベッドに身体を投げ出す。すぐに浅い眠りについたが、そのまま深い眠りに誘われようとしていたアリシアの瞳は、再び大きな音と共に見開いてしまった。
(鈍い音……。もしかして、何かが落ちたのかしら……?)
不吉な予感を抱きながらも、アリシアはそっと上半身を起こす。すると、ベッドの上から絵画らしき影を確認できた。しかし疲れていたアリシアは、それをそのままにして再び眠りについてしまったのだ。
「……ああ、確かに酷い夜だったわ。あの後も、私は何度か物音で起こされて……」
寝不足の理由と部屋が散らかった原因をはっきり思い出したアリシアは、眩さに目を細めながらも散らかった部屋全体をもう一度見た。床には絵画の他にアリシアが大事にしている小物も落ちていたが、大事な入学手続き書は机の上ではなくなぜかシャンデリアの上に引っかかっている。
「まさかこれが、呪い……?」
アリシアは首を傾げた。呪いの類には詳しくないが、思い描いていた呪いと現実の差があまりにもかけ離れていて、すんなり飲み込めない。しかしその事象を「偶然の重なり」と呼ぶには無理がある。どう見ても不自然だったからだ。
昨夜のアリシアは物音に慣れるまで眠ることができず、断続的に部屋の物が落ちる不自然な事象に苛立ちを募らせていた。身体が敏感に反応して、覚ましたくない目を何度か開けたのだ。やがては睡眠欲求の方が勝ち次第に気にならないようになったが、眠る直前、アリシアは確かにこれは呪いだと思った。
この絶妙な嫌がらこそ、呪い以外の何ものでもないと。
アリシアは傾げていた首を仕方なく元に戻す。
「まだ信じられないけれど、受け止めないと……。このような呪いもあるのだと……」
呪いの呼び名に困ったアリシアは、『無限ハプニングを起こす呪い』と勝手に命名した。いつまで続くか分からないハプニングから「無限」と付けたが、得体の知れない事象に名前が付くとアリシアはどこかホッとした気持ちになった。
命名するとハプニングの対処方法が見えてくる。ヴィヴィたちに対抗する戦略も立てやすくなった。
「私の秘め事、つまり『無限ハプニングを起こす呪い』持ちだということを他者に知られたら、前例に倣い、私は婚約を破棄されてしまう……」
辿るかもしれない運命を言葉にしてみると、ふと疑問が湧いた。
(……うん? 昨日もおかしいと思ったけれど、わざわざ呪いをかけなくても私は零性遺伝子を持っている。この事実だけで『不釣り合い』だとされ、婚約を破棄できそうなのに。念には念をいれたということかしら……。いずれにしても両親もヴィヴィも私を婚約者にしたくないのね)
アリシアは手をぎゅっと握り締めた。
ルイスとは疎遠で今のアリシアは名ばかりの婚約者だが、少しばかりの情はある。約2年前の出会いを想えば、未だに心が温かくなるアリシアなのだ。たとえルイスがドライな関係をアリシアに望んでいたとしても、それを理由にあの出会いが最低なものだったと書き換えられることはない。
そのためアリシアはルイスの望むままに、この身を任せたいと思っていた。しかしそうはさせてくれない邪魔者がいるのも事実だ。
もし婚約が破棄されるとしたら、どこかのタイミングでヴィヴィや両親がアリシアの呪いを周りに暴露した時。あるいは、アリシア自身が呪いを隠しきれなかった時だ。あとは言わずもがな、前例に倣い、最終的に王家から「婚約を破棄する」と判断が下される。
それまでは、婚約者の座を自らヴィヴィに譲ることはしたくない、現状が「一線」を超える日までは、諦めたくない――そんな想いがアリシアの胸から零れ落ちた。今まで色々な感情を押し殺してきたつもりだが、この気持ちだけは心の器に溜まり、やっと今、溢れるほどに流れ出したのだ。
(私のやるべきことは二つ。いつ婚約破棄されもいいように、将来の選択肢を増やすこと。それと、その日が来るまで呪いを隠し通すこと……)
半年後に控える入学を見据えてそう決意すると、タイミングよく棚から陶磁器製のアンティークドールが落ちた。お気に入りの物だったが派手な音を立てて、まるで未来を示唆するように綺麗に割れていた。




