雪の日
リリアは配達中、頬に当たった冷たいものに気がついて、空を見上げた。
「雪……?」
まだよく見えないが、今朝は特に寒かったから、雪が降ってきてもおかしくはなかった。
バナードお手製のマフラーと、シュナイダー夫妻からもらった指先の出る手袋(手紙を配るのに最適だ)、マイノ作の丈夫なブーツで完全防備のリリアだったが、もし本格的に降ってしまっては歩けない。
手紙の残りはあと少し。リリアは先を急いだ。
大通りを一本入ると、道はうっすら白くなって見える。
ちらほら降っていた雪の粒が大きくなり、吹きつける風も冷たくて顔が痛い。リリアは中の手紙が濡れないよう、かばんを前にぎゅっと抱えた。
「着いた……」
くまのパン屋の看板が近づいて、思わず笑みが浮かんだそのとき。
あっと思った時には、リリアの体は前に傾いていた。かばんのせいで、手を出すのが遅れる。
ふわりと、覚えのある感覚で押し戻され、そして。
ぼすっ。
「びっくりした……」
耳の後ろで声がした。
温かい。
「ば、バナードさん!?」
見慣れたエプロンが目の前だ。リリアは慌てて離れようとするが、腕はびくともしなかった。顔がどんどん熱くなっていくのがわかる。
「あの、すみません、えっと」
「間に合ってよかった。でも、なんでこんな雪の中、を……?」
バナードは腕の力を緩め、リリアの顔を見た。目が合うなり、肩を掴んでがばっと体を離す。
「っ!いらっしゃい!とりあえず中、入って」
「は、はい!」
早口で言ったバナードに促されて店に入ると、中は暖かかった。それなのに、急にひやりとしたように思えて、リリアは腕をさする。
「リリアさん、大丈夫?」
「あ、ごめんなさい、大丈夫です!助けてくれてありがとうございました」
「精霊たちが騒いでて、出てみたら風も結構強くてびっくりしたよ。大変だったね。今、拭くもの持ってくる」
バナードは言って、急いで店の奥に向かっていった。
「すみません、ありがとうございます。ついさっきまでは、そこまでひどくなかったんですけど」
リリアは深緑のマフラーを巻いたくまのぬいぐるみと目が合い、ようやくほっと息をついた。そして、辺りを見回す。
「精霊さんたちも、ありがとうございます」
きっと周りにいてくれているのだろう精霊たちにも、感謝を伝えた。コートとマフラーは少し濡れてしまったが、転んでいたらもっとひどかった。
うっかり思い出しそうになった先ほどのことは、無理やり頭から追い出した。
「はい、これで拭くといいよ」
「ありがとうございます」
バナードから受け取った布でコートを拭こうとすると、ひょいと取り上げられてしまった。
「コートとマフラーは、しばらくかけておけば乾くと思うよ。先に拭くのはこっち。」
頭に布をかぶせられ、ポンポンと撫でるように髪を拭われて、リリアは思わず下を向いた。鼓動が落ち着く暇がない。
「あの、配達に来ただけなのですぐ帰りますよ?」
「この雪の中歩くのは危ないよ。精霊が、もう少ししてから帰る方がいいって言ってる。お客さんも来ないだろうし、少しあったまって、 風が弱まってから帰ろう。送っていくよ」
「でも……」
「それに、ちょうどシチューを煮込んでたところなんだ。一緒に食べてもらえたら、嬉しい」
ね?と首を傾げるバナードに、リリアは今日も敢えなく陥落した。口を尖らせながら、渋々コートを脱ぐ。
「バナードさんは優し過ぎて、ちょっと心配になります」
「そんなことないよ」
コートとマフラーをさっと奪い去ってしまった大きな背中に視線を送りながら、リリアは胸をぎゅっと押さえた。
木製の皿からふわふわと湯気を立てているのは、大きめの肉がごろっと入ったブラウンシチュー。スライスされた小さめの黒パンが添えられている。
「あ。これ、この間クリームチーズを載せたパンですか?」
「うん、そうだよ。このパンは個性が強いけど日持ちするから、越してきてからこればっかりの日もあってさ。だんだん癖になってきちゃって、今では好物。シチューとも相性抜群だから、冷めないうちにどうぞ」
「はい、ありがとうございます、いただきます!」
カリっとした黒パンにシチューを纏わせ、一口に頬張った。香ばしさの後に来る穀物の酸味や粒の存在感を、シチューが包む。じっくりと煮込まれた肉は柔らかく、口の中で解けるようだ。スパイスの香りが鼻から抜けていく。
「おいしい……!パンはこの間よりしっかり焼いてあるんですね。それにこのシチュー!体が喜んでます……!バナードさん、これお店で出した方がいいのでは!?」
「あはは、喜んでもらえてよかった。まだあるから、たくさん食べて、温まって」
「やっぱり優し過ぎですよ、バナードさん」
「リリアさんの方が優しいと思うよ。みんなに親切にできるって、なかなかできないことだよ」
リリアはふと手を止めた。
「どうかした?」
「あ、いえ……」
バナードの穏やかな顔に、リリアは少し力が抜けた。
「……前に、お節介って言われたことがあって。こんな雪の日だったので、ちょっと思い出して」
「そっか……人に親切にされて助かったと思うかどうかは、受け取る人にもよるよね」
「あ、本人には感謝されたので、すごく気にしてるわけじゃないんです。けど、たまにふと思い出すんですよね」
* * *
パン屋で働いていたころ、突然の雪にお客が途切れたときだった。リリアより少し年下の――10歳を過ぎたくらいだろうか――男の子が店の軒先に佇んでいるのに気がついて、声をかけたことがあった。
広場で人と会う約束をしていたが、雪がひどくなったのでここまで来たという。困っているようだったので、少しの間店にいてもらった。その後小降りになったのを見計らって、薄着の彼にショールを貸して帰したことがあった。
その後すぐに、彼より少し幼く見える女の子が勢いよく入って来た。そしてリリアを視界に入れるや否や、キッと睨みつけたのだった。
「余計なことしないでよね!お節介!」
あまりのことに、かろうじて「いらっしゃいませ」と言ったのを覚えている。
* * *
「近くに住んでいた彼女が彼を見かけて、声をかけようとしていたのに、私が先を越してしまったみたいで」
「なるほど」
「後から気がついたんですけど、あの子は彼のことが、好きだったんですよね……その後は、無事に仲良くなれたみたいで、一緒にお店にも来てくれたのでほっとしました」
「うまくいってよかった」
バナードもほっとしたようだったが、リリアは苦笑いだ。
「はい。彼女は長い間目を合わせてくれませんでしたけど」
「うん……そっか」
「そのあと、色々考えてもみたんですけど。やっぱり困ってる人がいたら放っておけないし、声かけちゃうんです」
「うん」
「これはもう性分というか、なかなか変えられないんですよね」
「……少なくとも」
バナードはリリアの顔を覗き込んだ。
「俺はリリアさんの親切に救われた一人だから、そのままでいてほしいなと思うよ」
「そうですか?」
「うん。人生が変わった。本当に感謝してる」
随分と大袈裟な言い方に、リリアはうろたえる。
「そ、れは、よかったです……?でも私、そんなに大したことしてないですよね?」
「そんなことないよ」
「え?」
にこにこと笑みを浮かべるバナードからそれ以上の言葉はない。前にも似たやりとりをしたなと思いつつ、リリアはなんだかいたたまれなくなって、冷めないうちにと料理を食べ進めることにした。
「ん?」
食後のコーヒーを飲んでいると、バナードは突然カップを置いて立ち上がった。
「どうしたんですか?」
窓から外を見たバナードは、明るく言った。
「雪、小降りになったよ。風も止んだみたい」
「わあ、よかった」
「片付けはいいから、今のうちに出ようか」
「いつもすみません。お言葉に甘えて……あ!手紙!」
リリアは慌ててかばんから手紙を出し、バナードに手渡した。
「ごめんなさい、遅くなりました」
「いつもありがとう。はい、コート」
「ありがとうございます。助かりました」
「うん」
外へ出ると、先ほどより空は少し明るく、雪がふわふわと舞っていてきれいだった。
「本当に風が止みましたね。さすが、精霊さん」
「そうだね」
さくさくと音がする。
足跡の間隔が同じだと気がついて、リリアはくすぐったいような気持ちになった。
今なら、わかる気がした。
リリアは、あの少女の表情が気になっていた。赤い顔を思い切り歪ませて、両手をぎゅっと握りしめていた彼女は、怒っているような、泣きたいような目をしていた。
もしも、バナードの人生を変えるほどのお節介を、他の誰かがしてしまったとしたら。
リリアは胸がきゅっとなった。
と。
「危ない!」
腕を掴まれた。
「大丈夫?」
「……あ、ありがとうございます」
見上げると、バナードが心配そうにしている。
「ごめんなさい、気をつけます」
「ううん」
再び歩き出したところで、リリアはぎゅっと自らの手を握り、立ち止まった。
「あの!バナードさん!」
「ん?」
「袖に、掴まらせてもらってもいいですか?」
「……」
長い足が止まった。黙ってしまったバナードの顔を覗き込もうとするが、背の高い彼の表情はリリアからはうかがえない。
「バナードさん……?」
バナードはようやくはっとして、リリアに向き直った。顔が赤い。
「あ、ごめん!大丈夫!だけど……それだとさっきみたいなとき困るから、よかったら、こっちはどうかな」
視線を彷徨わせながら、差し出された大きな手。
迷ったのは一瞬だった。
「では……」
手を乗せると握り込まれて、とくりと鼓動が跳ねた。
繋いだ手の指先が温かい。リリアは生まれて初めて、こんな雪の日に、手袋をしなければよかったと思った。
お読みいただき、ありがとうございました。
完結としていましたが、二人のその後のお話が浮かんできたので、続きを書いてみることにしました。
なんとか雪の季節に間に合いました。
話数は長くならないと思いますが、のんびり更新する予定です。気長にお付き合いいただければ幸いです。
(バナードの台詞が抜けていたので、修正しました。申し訳ありません。少し待てば風が弱まることは精霊が教えてくれていました)