47話 裁定
夢を見たくて毛布に包まったのに、その日はどうにも寝付けなかった。
寝付けなかったのは、考え事ばかりしていたからだ。泪とした最後の約束では、深く考えるなと、馬鹿には答えなんて出やしないと言われたけれど。俺はずっと考えていた。
その結果がこれだ。頭は不明瞭に冴えて、窓の外はもう仄かな薄明かりが点いていた。
「………………」
結局、俺は毛布からノソノソと起き上がり、ミルクを飲み、サンダルを履いて、風通しのいい夜の終わり際をぼんやりと散歩することにした。夜方には小雨が降っていたけれど、今の時間帯にはすっかり晴れて、道路の窪みに小ぶりな水たまりが点々と捨てられている。
ただの散歩だ。
徐々に領域を広げていく曙色と、未だ夜の、澄んだ紫色の広空が、この狭い島を覆う。五時少し前、もうじき夜明け。島の外周から適当なルートをぐるりと見て回った。
右手に広がる浜辺は、昔見た風景そのままだった。さらさらとした小粒な黄砂に転び、口中じゃりじゃりした思い出。彼女は俺を見るや笑って海に放り投げた。口の中のじゃりじゃりはなくなった。それから砂の城を作った。途中で二人とも飽きて、どっちが豪快に崩せるか競い合った。彼女はジャンプして踏んづけたけど、俺はバケツに汲んだ海水をぶち撒けて。勝ったのはどっちだったか。覚えちゃいない。
山への入り口に立つ看板、裏側を覗くとサインが残っていた。俺と泪のだ。毎年身長も測ってたから、古臭い線が何本も入っていた。どうも線は小学生までで打ち止めしたらしい。
「……思い出は」
細長い山道を一歩ずつ上っていく間に、そっと俺だけの神様を確かめる。
辛くて泣きそうなときに寄り添ってくれて、可愛くて、家族にも恵まれていて。
彼女は俺に変わらないものをくれた。ずっと信じられるものを。雲の上から。
ひぐらしが鳴くまで頑張って、帰ったら聞けるおかえりに。立ち止まってばかりで置いていかれた俺の隣にいてくれて。特別じゃなかった俺を、君との特別な約束で。
君がいたから、ここまで泳ぎ続けられた。
でも。だから。
小さな水たまりを踏んづけて、頂上が見えてきて、また一歩と進む。
泣けない俺が抱えていたら、ダメだと思う。
だってさ。
石造りの階段を歩き切って、辿り着いたのは、島唯一の小さな神社だった。
剥げた鳥居を無遠慮に潜り、敷かれた白石を踏んづけて、無病息災の賽銭箱の前に立つ。
「なぁ、神様」
背が高くなって、水平線を少し遠くまで覗けるようになって、向こう側に何があるのか。
「本当は、どこにもいないんだろう?」
何もないんだ。嘘を嘘のまま飲み込めるよう、努力してたんだ。
神様は間違える。そして死んでいる。信じていた。でも、今は違う。
間違えないし、死んじゃいない。だって、元々いないんだから。
背が高くなったんだ。向こう側に何があるのか、見えるようになった。
こっち側と何一つ変わらない風景が広がってるって。
泣けなかった。君を想うと笑っちゃうんだ。
俺は――――
――――それでも、神様。一つだけ、お願いがあるんだ。
異世界なんていう、くだらない世界があるんだったら、叶ってもいいと思うんだ。
叶うんなら、これから毎日賽銭する。いいことだってする。人助けもしたんだ。上手くいかなかったこともたくさんあるけど、俺なりに、頑張るから。だから、お願いなんだ。
ただ一言だけ、聞いて欲しい言葉があるんだ。
聞いてくれるだけでいいんだ。
ただ……
「……約束守れなくて、ごめん」
「――――気にしないでいいよ」
そう、聞こえた。
あるはずがなかった。本当は神様なんていなくて、だから俺は、絶対に償いきれない罪を抱え続けて。そんな罪さえありはしなくて――償うことは出来なくて。
けれども。
その声は随分と子供らしくて、後ろ手の階段から語りかけていた。
振り返ると、ぽつりと、真っ白なワンピースを着た、楓がいた。
「大丈夫? 顔色悪いけど……」
楓はそう言って、賽銭箱の前にいる俺にトコトコ歩み寄ってくる。
…………子供の前だ。
「……ちょっと眠れなくてな。楓は、こんな時間にこんなところで、なにしてるんだ?」
「それが聞いてよ。先週寝坊してプリキュア見過ごしちゃったからね、今日こそはって早起きしたの。でもちょっぴりだけ早すぎちゃって。で、暇だからぶらぶら散歩」
秋の夜明け前はよく冷える。特に今日は前夜に雨が降ったのも重なり、寒さすらあった。
水たまりに裾を濡らし、薄暗い朝の湿っぽい風が足元をなぞる。
「悩み事でもあるの?」
「いや……もう解決したよ」
「そっか。じゃあそんなお疲れのあなたに、元気の出るお話をしてあげるね!」
「いや」
だが俺の断りなど意にも介さず、楓は楽しそうに微笑みいつものように、いつもの語りを、つい口ずさむ吟遊詩人みたく、暗唱していく。
「兄ちゃん――否。『無為の墓守』ジュンイチが、ラブドルガルド王国とメルヘヴン共和国との銀資源を巡る戦争、通称『雨戦争』の仲介役として各地を放浪する中で、銀を媒介にした錬成魔法では雨を降らせることが出来ないことを発見して、雨戦争を起こした張本人である第三国、ラウラ帝国の宰相であり別の異世界転生者ヒロを殺すために、痛みを伴う和解を申し出て共同戦線を張ろうとするも、最早暴徒と化した民衆を抑えつけることが出来ず、一人また一人と仲間が死んでいく光景に涙した瞬間、雨が降り始め、人々が血で血を洗い流す必要を失った話まではしたっけ?」
「多分聞いたかな……」
「……退屈だった? ならね、とっておきの話をしてあげる!」
そう言うや否や、彼女はそっと静かに目を閉じて、体の前で両手を握った。
祈るように。
そして何やらぶつぶつと小声で何かを呟いたかと思うと、突然目を見開き、バッと大きく手を広げて、なんとも罰当たりにも祭壇の上までジャンプして上り、堂々と立ちだす。
それから――
「――――フッフッフ。控えおろう! 我こそは魔の才を誇る異世界よりの異邦人、アシュリー・クラン・フランベジュール・エラーブルド! 神に選ばれ魔に属し、授けられし異邦の力によってこのくだらぬ世界に舞い降りた、運命の代行者である。わっはっは!」
懐かしくて、黒歴史で。そして入江純一が異世界転生して以降、一度たりとも顔を見せなかったアシュリーを。彼女は何となしにやってくれた。
その意味を、分からないわけがないだろう。彼女がどれだけ異世界転生を好きで、入江純一を嫌っていて――そういう全部が逆だと分かって――俺には分かる。
「我は、なんと、なんとだ! 神様と話せて、異世界との通信が出来るのだ。それもこれも全ては神より授けられし異邦の力と、我の生まれ持っての天賦の才ゆえ……お賽銭さえ払うのなら、汝にも神託を下すこともやぶさかではない!」
そしてアシュリーは、かつて聞いたような、そんなことを言った。
もちろん、そんなのは全部、彼女が一人で考えただけの妄想だ。
だから、別に、何かを期待したわけじゃないんだ。別に何も。
「…………神様と話せるんならさ」
ただ、彼女の優しさに報いられるように、俺はほんの些細な願い事を呟いた。
「話したい奴がいるんだけど……頼めるかな?」
彼女は何も知らない。約束も、俺の願う相手が本当は神様で、泪だと言うことも。
「どんな人なの?」
俺はぶっきらぼうに、ありのままを語ることにした。
ただ、思い浮かぶことを呟いていく。
「……そいつはさ、人と会う度に胸ぐら掴んでくるような女でさ、いつも俺を見るなりデカい声で威嚇してくるんだ。猫の目でシャァって」
何回胸ぐらを掴まれたかな。数え切れないくらい掴まれたな。何度も泣かされた。
「吊り上がった猫目が可愛くてさ。目だけじゃなくて、顔も振る舞いも全部可愛くて。でも私服がどうしようもないくらいダサいんだ。本当にダサくって。そいつを見ると笑っちゃうんだよ。きっと楓も笑えると思うよ。笑えるんだ。この前会ったときなんて、傑作でさ」
本当に短い、たった二週間の再開に想いを馳せて。もう帰らない。彼女は二度と。
「全然笑わない奴なんだよ。いつも怒ったような顔で……そういうの全部俺のせいなんだけど。でもこないださ、笑ってたんだよ。それが、何にだと思う? プールサイドだから、水着の方がいいじゃないかって助言したんだよ。そしたら恥ずかしいって。だから俺は言ったんだよ。何を今さら、風呂も一緒に入ってお前の裸なんざ見慣れてるって。そしたら彼女、カンカンに怒ってさ。でも、プンプンになりながら、笑ってた。最近、よく笑うんだ」
でも、それも終わりにしよう。
「……泣いてるとき、いつもそばで一緒に泣いてくれたんだ。俺が帰ると、おかえりって、笑ってくれて。滅多に笑わないんだ。ずっと、長い間、笑わせてやれなくて……」
泣いてばかりだった俺が、やっと泣かずにいられている。
俺が泣くと、君も泣いてしまうから。
「だからせめて、幸せにやってくれてたら……それだけでよくて」
だから、もう。
俺の語りを聞き終えると、楓はそっかと頷き、やってみるねと賽銭箱の前に立ち直る。
それからうーんと唸り、聞き慣れない呪文的な言葉の羅列を唱えていく。
そして。
「駄目」
彼女は晴れやかに笑って言った。
「神様の声が聞こえるんだろ?」
俺の言葉に、彼女は屈託なく、こう返す。
「きっと、いい人だったんだよ」
――ダメ人間だけが行けるところ。未練がなくて、ここじゃないどこかを望む負け犬が、最後の最後に辿り着く夢の終着点。異世界転生。ありはしない。
分かっていた。分かっていたんだ。
彼女は神様で、けれど神様なんていなくて。だから天国なんてのも、ありはしない。
背が高くなったんだ。彼岸の向こう側にあるものは、何も変わらない風景で。現実で。
約束は、もう守れやしない。もう、迎えには行けないんだから。
「それで、それと好きな人とか大切な人がいたんだね」
俺は会いたかった。もう一度だけでいいから、生まれ変わっても彼女に会って、これまでしてきた約束の積み上げた涙の分まで、幸せを運びたかった。隣で、ずっと笑いたかった。
「……あなたも、そうだったの?」
涙が、一粒溢れた。それから二つ三つと重なって、大粒の涙が頬を伝う。
一本の線になって流れていく塩の粒は、ぽたりと落っこちて、足元の水たまりに跳ね返る。
何度も何度も繰り返すように、水たまりは雨模様に波紋を広げ続け、さざめきを揺らす。
潮の匂いがした。雨上がりの波打ち際に、真っ白な泡が一つ浮かび、また消える。
「違うよ……違うんだ……」
俺はその日、彼女が亡くなったことに、もう決して叶わない憧憬に――泣いた。




