46話 約束
朝起きて、歯を磨き、靴紐を結んで家を出る度に、どこか違和感を覚える。
晩夏は音もなく通り過ぎていって、今では後ろで周回遅れに次の年を待っている。秋の風景は全てが緩やかで、高積雲の流れも、西陽の照りも、低い波のさざめきも――街路に点々と並ぶ紅葉が黄色に染まるのも、全てが区切りなく、緩んでいる。
十月に入り、プールでのリハビリはほどなく一つの区切りを見せた。
「コーチ、最近よく笑うね」
「悪いか?」
「まぁ、気持ち悪いよ。酔っ払ってる?」
酒は以来飲んでいない。血流の関係で体に悪いし、自分に必要だとは思わなかった。
最近、本を読んでいる。何でも、手に取った本には目を通した。
特に、異世界転生に関する小説を読み漁った。殆どはくだらないけれど、暇つぶしには丁度よかった。なぜって、よく出来た小説は想像と現実の境界を曖昧にしてしまう。でもこれは違う。すぐに誰でも妄想だと分かる。何も現実でない。のめり込まない。
だからよかった。俺にはやることがあるから。読みすぎると嫌になるのもいい。コツがある。嘘を嘘のまま飲み込むんだ。積極的に自分を騙し込むと段々、自分が離れていく感覚が味わえる。後ろ側にもう一人自分がいるような感じで、それを操れる。
でも、何も現実じゃないんだ。ぼやけた境界を知らずに乗り越えるのとは違う、明瞭に浮かび上がるラインを自分の意志で踏んづけて、その線上から零れ落ちないよう慎重に歩く。
そうすると、あの沈黙を忘れられるんだ。
「おかえり」
時折、彼女の声が聞こえた気がする。でもそんなことありえないから、すぐに耳をふさぐ。
……別に。ただ最近よく、昔のことを思い出すってだけなんだ。
彼女との約束が俺の背中を押してくれて――その度に、どこか変な気分になる。
目的地が決まって向かうだけなのに、それ自体が何か、間違っているような。
何か。俺にとって、泪はなんなのか、とか。
そんなことを考える。おかしな考えに思えるけど、俺にとっては割と深刻な問題だった。
だって、約束だ。俺が今大事に抱えて神様みたいに崇めているのは、彼女とした、もう絶対に叶うことのない、ガキの頃のちっぽけな約束で。それ以外に永遠なんてありはしなくて。
実のところ、彼女自身は死んでいて、俺にとってそれほど大事じゃないんだから。
彼女が死ぬまではそんなこと考える必要がなかった。泪と約束は完全にイコールだった。今は違う。重なっていた二つが別れ道で引き裂かれて、片一方だけを俺が持っている。
そうなんだ。俺にとっての問題は、どうして俺が持っているのは約束の方で、落っことしたのは泪なんだろうってことだった。逆なんじゃないかって。
「無理ないよ。だって、彼女は死んだんだから」
声はそう呟く。その通りだと思う。死者は引きずり回せない。
でも納得は出来なかった。
間違ってるのはむしろ俺の方で、落っことしたなら、こっちから迎えに行かないのかって。
そんな単純な疑問が駆け巡って、馬鹿らしくなる。
俺には未だ、やらなきゃならないことが眼前に広がっている。
「なら成し遂げたら? そんな日は来ないって思ってる?」
声は言う。
「それとも、分かってる?」
分かっていた。だからきっと、俺は彼女を道端に捨てて、こっちを選んだんだろう。
今なら、異世界だって簡単に行けるだろうな。あぁ、楽勝だ。
「………………」
泪にとって、約束は幸せなことだったんだろうかと、思う。
違ったんだろう。約束は、彼女を優勝のトロフィーに飾り立てる呪いだ。
立ち止まり置いていかれることを受け入れ、停滞に意味を見出す。
きっと俺は、約束をしたあの日、あの瞬間に――俺は彼女を彼岸の先に追放した。
俺が今見ているのは死んだ彼女じゃなく、あの日のままの神様なんだから。
幸福を願う気持ちを好きと呼ぶのなら、間違っているのはそこなんだ。
あぁ。そうだ。
そうなんだ。
俺は彼女を見てなんかいない。
考え続けて、悩んで。出た答えは、クソだった。
「………………」
そんなクソ野郎が思う。
彼女はどこに行くんだろう。
駄目人間でもなければ、未練も残す彼女はどこへ、向かうんだろうか。




