45話 空砲
火が上がって、その日の帰り道、浜に寄った。小さく丘になったところを見下ろした。黄色い小石と白緑の明日葉に覆われて、斜線にぼけた青が浮き上がる。近付くと、澄んだ水の中に大粒の貝殻が沈んでいた。拾い上げて光にかざすとキラキラ光った。
静か過ぎる気がした。喧騒の数が一つずつこの世界から消えていってる気がした。最近雨が降らない。もっと土砂降って、地面がボロボロになるまで騒げばいいのにと思う。
でも晴れていた。大したことでもないと言いたげに、西陽は貝殻を輝かせる。
「………………」
ふと、小学生の頃、宮城先生から聞いた相似の計算を思い出す。
水平線までの距離は背の高さで変わるらしい。海岸線に立つなら、当時の俺で大体4キロメートル。今だと……もう一つ分奥まで覗けている。大人になって物を見る高さが変わるほど、子供の頃より遠く広い世界を――あぁ、物の見方が変わるらしかった。
確かにそうだ。ただ、そうでもない。目線が上がるほど、世界は狭くなる。
今よりずっと背の低かった頃、水平線の向こう側は遠く、真っ平らに続いていた。今は違う。背伸びしなくても近く陸地が見えて、たくさんの明かりで打ち止まっている。
ずっと、向こう側に何があるのかを見たがったのに、今じゃ座り込んで見ないでいる。
「…………あー、ぁー、アー」
息を吸う。口いっぱいに頬張って、それから全力で叫ぶ。
「俺は! 泳ぐのが好きだ!!」
ピストルを鳴らさないといけないと思った。足りていないのはその音だと思ったから。
「俺は夢を諦められない!……約束したんだ」
けれど、ここが本当に俺の新しいスタート地点になるのか、よく分からなかった。
「泪と……だから! 俺はこれからも泳ぐんだ! だから……だから」
だって、俺が言いたかったのはそんなことじゃなかったから。
俺の呟きは反響することもなく、無関心な沈黙の渦に飲まれる。ただの音、響かない。
今しがた鳴らしたしょぼいピストルに突き飛ばされるように、なんとか海に飛び込んだ。二、三度潜り、沖合の岩辺まで泳ぎ、そのまま浮かんで空を仰ぐ。腰はあまり痛くない。
発見があった。こんな時でも、泳ぐのは楽しい。
皮肉じゃない。本当に楽しかった。
そう気付けば、なんだかこれまで自分がしてきたことが随分と馬鹿らしく思えた。泳ぎ続けることに理由を積み上げないと、疲れたら立ち止まってしまうとばかり思っていたのに。俺は多分、そんな色々なんてなくても、泳いでいられた。
自然と笑い声が漏れた。笑うともっと楽しくなった。周りも静かじゃなくなった。
なんて、滑稽なんだろう。
浜辺に戻ると、一人の女性を見かけた。
彼女は黙ってこちらを見つめていて、石ころを海へと放り投げる。
「馬鹿みたい」
右目尻の泣きぼくろは、真っ赤に滲んでいた。
「なぁ」
「話さないんじゃなかったの?」
「話さないことを決めないか? お互い、言いたくないこと」
「……ねぇ」
「なに」
「よく笑えるね。楽しそうに泳いで」
「………………」
「あたしは言いたいこといっぱいあるよ。泪のこと」
「いいよ」
「お願いが叶ったの。泪なんていなくなっちゃえばいいのにって」
「いいって」
「だからさ、あたしも深見くんみたいに笑わないといけないんだ。ざまぁみろって。あたしの勝ちだって。深見くんの隣にいるのはあたしなんだって」
「やめろよ!」
「……深見くんなんて大っ嫌い」
去り際に、同じ浜辺で弾いたエアギターをふと思い出した。
君がいなきゃ光れない。そう思っていたのは自分だけ。
君の隣に帰りたかった。おかえりが聞きたい。でも、関係性は延び切っていた。
――黄昏刻が終わり、藍色は茜色を追いやって夜が始まる。
「本当に……」
陳腐な歌に隠すように、俺は一人、語らない海に向かって呟く。
海には様々が浮かんでいた。黄色い月に白い泡。くだらない思い出を噛みしだく波のさざめきが微かに音を響かせるのに、自分が思ったより上手く嘘を吐けるんだと知った。
誰も、自分にも聴こえやしない、新しいレースのスタート合図。
本当に言いたかった、ただ一言を。
ギブアップを。
――――それでも。俺は泳ぐのを止めなかった。認めたくなかったから。
彼女が死んで笑える自分に、開放感に、自由に胸がすいた気がすることを。
認めないために、俺は約束を守ろうと思った。償い続けないといけないと思った。
それを認めた瞬間、きっと俺は、この世界のどこにも、居場所がなくなる気がしたから。




