42話 嘔吐
泪が東京に出たその日の朝から、俺はリハビリに励みプールサイドに足を運ぶ。九月中旬ともなれば水温の冷たさも目立ってくる。現在は特例で認めてもらっているが、月末にはプール自体の利用も禁止されるのは間違いない。
とはいえ、今しばらくは腰の調子から見ても陸でのトレーニングが中心なのだ。そこまで焦る必要はない。泪の話によると、そもそも半年ほどは水に入る必要などないらしいのだ。もちろん、ある程度の勘を忘れない程度に浴びるくらいはあってもいい。
それでもしばらくプールに入れなくなることを考えると、今のうちに目一杯満喫しておきたい感情は否定できない。
そういうわけで朝六時にプールサイドへと繋がる扉の鍵を開けようとして、気付く。
「……また涼太か」
開けっ放しの扉を潜り辿り着く。けれど、いたのは陰の努力家ではなかった。
「…………おはよ。今日もいい天気だね」
千秋だった。体育座りに目を俯かせて、どことなくしょんぼりして映る。
……いや、よく来れたなこの女。並の人種なら身を引くぞ。
「……泪と東京旅行じゃなかったのか?」
「断った。行きたくないもん」
泪からの強引な誘いを断るとは、意志はよっぽど固いらしい。
「泪と一緒にいるくらいなら、深見くんといたいの」
「お前はそれでいいのかよ」
「……リハビリするんでしょ。手伝うよ」
そう言って彼女は立ち上がり、楓から写したノートを取り出し、リハビリの準備を進める。
軽い柔軟運動、痛まないよう背中を押される。顔の見えない距離感に、俺は言う。
「俺さ」
彼女の押す手がピタリと止まる。
「告白したよ」
「…………そっか」
彼女に対して、色々と考え方はあると思う。抱えきれる人には限りがあると、誠実を貫くのものそうだし、俺の大切な人にとって大切な人を、自分も大切にしようと思ったり、単にウザいから止めてくれと突き放したり、難しいことからは距離を置いても、俺以外に状況を変えられないと積極的に話すのも。
でも、正解はどれだろうとは考えなかった。そんなもの、ありそうになかったから。
風のない日だった。夏の終わった朝方は、揺らぎのない波面と雲間から射し込む陽の光に当てられ、静か過ぎる静寂を漂わせる。
「ねぇ、なんでだと思う?」
「なにが」
「どうしてさ、あたしが好きになる人はみんな、ダメでクズで、どうしようもないんだろう」
「……………………」
「なんでかな? なんで……分かってても、分かっても、もっと好きになっちゃうのは」
言葉に詰まると黙り込んでしまうのは、悪い癖だ。間違いはある。
それでも考えてしまう。レッテルを貼って、人を簡単な言葉で纏め上げる。
彼女がどうしてここにいるのか。
「ごめんね。悪口たくさん言っちゃって」
「気にしてないよ。全部事実だし」
「…………ごめんね」
――思うに、彼女は何も考えてはいないんだろう。そして酷く、自己中心的に捉えている。
彼女は俺のことを好きだと言ったが、今になって思う。それは間違いだ。
思うんだ。幸せを願えない相手を、その感情を、誰が好きと呼べるのかって。
親友への劣等感を叫び、それでも近付いてくれた幼馴染を拒絶して――エゴ丸出しだ。
自分のことだけを想って、恋に恋し、相手をまるで見やしない。
「今でも、思ってるの。今がずっと続けばいいのにって」
「………………」
そして、そのことに自分でも気付いていない。
「泪とはしばらく会いたくないの。しばらくでいいの。今は面と向かって話せないけど。きっと、時間が経てば、忘れられると思うから」
俺はそんな奴が嫌いだった。思い当たるから。思い出してしまうから。
イライラした。叫びたくなる。怒鳴り散らして、どっか行けと言いたくなった。
だって、今の彼女はまるで、俺みたいだったから。
自分の都合で相手を振り回して、そのくせどこか被害者ぶって――好きだからの一言で全部丸く収めようとしている。
本当に……気持ち悪い。
「……俺たち、もう話さない方がいいと思う」
「…………分かった」
好きな人が好きな人を、好きになれない心理なんざ、邦楽で腐るほど歌われてる。
所詮、その程度のことなのだ。今回はちょっとばかり、その相手が親友ってだけで、俺達の関係性は元々、ロクに話したこともない幼馴染の友達でしかない。元に戻るだけだ。
この奇妙な関係性も、居心地のよかった停滞も、もう終わり。
千秋は俺がストップウォッチを押し水に飛び込むのを見届けて、その場を後にした。
俺の方も、残り少ない水浴び期間を思う存分堪能し、始業のチャイムが鳴るまでリハビリを続ける。最後に、思いっきり潜って体中が浮く感覚を味わい、息いっぱいに吸う。
――――泪が帰ってきたら、最初に何を言おう。何をしよう。
こんな俺を離さないでいてくれた彼女に、どうやって幸せを運べばいいか。
たくさん話そう。失くした時間を取り戻すよう、楽しいこともくだらないことも全部。一緒にいよう。どこかへ、どこにでも。離れた分だけ近くにいよう。約束も守るんだ。一日一日を頑張って、隣にいて恥ずかしくないような男になるんだ。
それと、毎日好きだって言おうと思う。言えなかっただけ、重ねて伝えたい。
俺に泳ぐ意味を、生きる意味をくれて、ありがとうって。
「――もしもし」
プールを上がると、電話が鳴った。ジリジリと、蝉みたいな声で。
夏の終わり――ひぐらしの鳴く声は聴こえない。
おかえりを報せる声はもう、鳴きはしない。静寂を保ち、無関心な沈黙が広がる。
どこまでも、広く、分厚く。
「…………泪が?」
その日は、風のない日だった。




