37話 喪失
正直、顔も名前もよく、覚えていなかった。記憶には、高い声だけが耳に響いたことだけ。
『あれ……久しぶり。どうしたの、こんなところで』
二年ぶりの中学での再開。二歳分の差が俺たちにはあって、けれど思春期の二年は存外に大きくて。プールサイドで座り込む彼女を一目見て、ちょうど日が昇り始めて光を射す。
『お久しぶりです深見、先輩……毎朝こんなに早く?』
『あぁ。俺には夢がある! 一番になって、泪にギャフンと言わせてやるんだ』
『……その泪は、来ないんですね。マネージャーなのに』
『顔見たくないから、わざわざ五時起きで泳いでるんだよ。あー、清々するね』
『そっか……そっか。先輩!』
『ん?』
『あたしも、水泳部のマネージャーになろうと思うんです。夢を追う人の、応援がしたくて』
『先輩! 見てくださいタイム! ベスト更新してますよ!』
『……たかだかコンマ3秒だろ。城戸のベストタイムより遅い』
『喜ぶべきところですよ、ここは! 千里の道も一歩から! いぇいハイターッチ……』
『もう一本泳ごう。今の調子を体に叩き込んでおきたい』
『……先輩って』
『なに』
『笑わないんですね。なんだかとっても、息辛そうに泳ぐんだなぁって、思って』
『……? 肺活量には自信あるぜ? 呼吸を減らせばその分泳ぎに専念できるし』
『そうじゃなくて、その……ね、根暗なんですよ、先輩は! 陰キャですよ、陰キャ!』
『あぁ?』
『とにかく! ハイタッチしてくれるまで、タイムは計りません! はい、いぇーい』
『……いぇーい』
『どうした? 暗い顔して』
『……相談があるんです。ちょっとだけ、思い悩むことがあって』
『いいけど。俺に話すより、壁に打ち明けたほうがマシだと思うぜ?』
『好きな人がいるんです』
『お、おぉ……』
『でも、あたしの好きな人には好きな人がいて。その人のことを、好きになれないんです』
『えぇと、要は恋敵だろ。別に嫌いでいいんじゃないの』
『…………昔は、違ったんです。好きな人が好きな人を、あたしも好きになれました』
『……よく分からないけど、俺でよかったら協力するぜ?』
『ほ、本当ですか?』
『あぁ。それで結局さ、誰なの?』
『そ、それはですね――――』
『――――柊吾! アンタ今日日直でしょ。なに悠々とサボって談話してんのよ』
『げ。いいや、お前マネージャーだろ、俺の負担を軽減しようと率先して代わるくらいの気概はないのかよ。今泉を見習え、毎朝五時起きでいちごミルク飲みながら付き合ってくれて』
『いいから日直。っていうか、五時起きって。隠れて何やってんの』
『今のなし! 今泉、悪いな。また後で話聞くからさ。じゃ!』
『あ…………』
けれども結局、彼女が話の続きをしてくれることは、ついぞなかった。
毎日の早朝トレーニングには泪が顔を見せるようになり、入れ替わるよう次第に、千秋は塩素の香るプールサイドを訪れなくなっていった。伴って、互いに話す機会は減っていき、大会が終わる頃には確か、彼女はマネージャーを辞めていた。
そんなありふれた青春の一幕に、今になって思う。
もしもを。




