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負け犬のくせになまいきだ  作者: 石山 雄規
三章 シーラカンスにうってつけの日 Your turn.
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36話後編「だから、ここじゃ」

「…………」


「あ、おはよう。いい朝だね」


 シパシパする瞼を開けて隣に振り返る。千秋は朝食の準備をしてくれていたみたいで、ちょうど淹れたて熱々のコーヒーに端のほうがちょっぴり焦げたトースト、近くのコンビニまで走って買ってきただろうサラダと、小ぶりなリンゴを剥いている最中だった。


 ロクに使われてないフルーツナイフの背を指に当てて、慣れた手付きで真っ赤なリンゴをクルクル回して、彼女は楽しそうに言う。


「今日はどこ行こっか。ダラダラするのも悪くないけど、外に出るのもいいからさ」


 可愛らしいウサギを作り、丁寧に皿に盛って、キッチンからこちら側に彼女が来る。


「……ね、そう思うでしょ?」


 彼女の表情はどこか、ぎこちなかった。マグカップに指をかけて。


「……帰ろう、もう」


 俺は言う。


 千秋はしばらく黙っていた。黙ったまま、その言葉の意味を聞いていた。


「あたしは嫌だよ。帰りたくない。だからここに来たんじゃん」


「帰るんだ」


「……嫌だよ」


 彼女は声を震わせて、甲高い声で叫ぶ。晩夏のひぐらしより響く声で。


「あの島にいたくなかったんでしょ。息苦しくて吐き気がして、出たかったんでしょ? ならいいじゃん、ここで、東京で。きっと――きっと……いい時間が過ごせると思うよ?」


 彼女の言う通り、ここには何でもあった。あの狭苦しい、息の詰まる島なんかよりずっと広くて、くだらない柵もなくて、きっと、正しい選択と将来が待っているんだろう。


 でも。


 夢が破れても、憧れていたゴールが消え失せても。目の前に高い崖が待ち構えていても。


「待ってる奴がいるんだ。俺のことを、あの島で」


 俺は千秋の言った言葉を思い出す。夢を追ってる人が好きだと、彼女は言っていた。


 だとしたら、彼のように諦めて、逃げ帰ったなら、彼女の隣にはいられない。


 ここで帰らなきゃ、俺はどこにも行けなくなる。誰の隣にもいられない。


 いや、本当はそうじゃないんだろう。嘘を吐いた。都合のいい言い訳に煙を巻いている。


「……あたしがいるから、ここで、いいじゃんか」


 言葉にするのが怖いなんて、卑怯でダメで、なまいきにも程がある。


 だって。



「――泪が好きなんだ。だから、ここじゃダメなんだ」



 約束したんだ。迎えに行くって。



「……そっか、そっか。分かったよ」


 笑っていた。でも笑顔じゃない。睨みつける瞳はちっとも笑ってなくて、俺を見つめる。


「深見くんは、ズルいよ。卑怯者だ。姑息で最低の嘘吐きで、ゴミみたいなダメ人間」


 コーヒーが揺れていた。湯気が徐々に収まっていく。彼女の語尾はドンドン強くなって、終いには手を離して、テーブルに叩きつけるように身を乗り出す。


「だったらなんで、なんで一緒に東京なんか来たの。すぐ断って、泪のところにでも何でも行けばよかったじゃん! 中途半端に期待させて、キスまでして――待ってる奴がいる? あたしだって待ったんだよ!? 引き伸ばしてギリギリまでいい気になって――あたしには分かるよ。深見くんは、全然優しくない。だって、あたしはただの遊び相手だもんね。毎日朝早くに起きて、リハビリに付き合って――泪なんかよりずっと一緒にいて、頑張っても……昔のことじゃん、約束なんて」


「…………」


「なんで、あたしじゃダメなの……」


 呪いみたいだと思った。ほんの一言にしがみついて、一生彼女に縛られている。


 俺の夢の正体が、こんな真っ黒に滲んでいるなんて。


 情けなくて、言えやしない。


「……連れていけなくて、ごめん」


 俺が呟くと、彼女はガタンと立ち上がり手元にあったコーヒー入りマグカップを掴んで振り被る。被りかけて、ちょっぴり溢れて手にかかり、熱かったのか一度テーブルに置いて、冷静に思い直してカップを持ち直し、ズカズカとキッチンの方に走って、コーヒーを捨てて冷水を汲み、戻ってくるやいなや、思いっきり俺の顔に水をぶち撒ける。


「嫌い! 大っ嫌い!!」


 そう叫んで千秋はバッグに荷物を詰め込んで家を飛び出る。


 テーブルに残った水浸しな二人分の朝食。湿気った食パンを口にする。


 水に濡れたパンは不味かった。


「………………」


 結局、二人分の朝食を一人で食べきり、リンゴを齧りながら、俺は帰り支度をした。




   *




 鈍行に揺られて東京を出た。席は埋まっていて、窓の外の風景を眺めながら帰った。帰るだけですっかり日が暮れて、連絡船の最終便に乗った。一日ぶりの海、どこか懐かしく、けれど寂れて何もないところ。風が吹いていた。潮を含んだ海から吹き抜ける涼しい風だった。


 港に着き船を降りると、泪が腕を組んで仁王立ちで待っていた。


 泪は明らかに怒っていた。擬音にしてプンプンカンカンだった。


 しばらく目が合って、向かい合ったままじっとお互いを見つめ合い、彼女が口を割る。


「――――おかえり」


「……ただいま」

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