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負け犬のくせになまいきだ  作者: 石山 雄規
三章 シーラカンスにうってつけの日 Your turn.
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36話前編「なぁ頼むよ」

 その日……初夏の季節だったと思う。僕は泪抜きで、皆と遊ぶ約束をしていた。


 じゃんけんをして、僕はパーを出して、他の皆はチョキを出した。鬼は僕だ。


 他の皆が一斉に散らばり、僕から逃げ離れるように海に飛び込む。


 鬼ごっこなんてあんまりやらないから、僕は岩肌を向き、目を瞑って秒数を数える。


「――あの、あの」


 そんな呼びかけが隣からした。子供っぽく甲高い、聞き慣れない声だった。


 目を開けて見ると、僕の隣には二個分ほど背の低い、ちょこんとした女の子がいた。


 確か――千秋だ、今泉千秋。いつも泪の後ろや隣にいる、控えめな女の子だ。


「どうかした?」


「あのね、鬼ごっこはね、目、つむらなくていいんだよ」


 よく考えてみると、この子とは初めて話す。


 だから僕が最初に思ったのは、この子はちゃんと喋れるんだな、なんて失礼なことだった。


「そうなんだ、教えてくれてありがとう」


「タッチする?」


「しないよ。君じゃ追いつけないだろうし、僕も鬼ならゲームに混ざれるから」


「鬼ごっこ終わったら、話したいことあるの」


「うん」


「だから、待ってるね」


「分かった。見てろよ。きっとすぐ帰ってくるから」


 そう大言壮語を吐いて、僕は海岸線へと駆け出した。波打ち際をバシャバシャと跳ね除けて、慣れない海に浸かって、精一杯に泳ぎ、皆の方に追いつこうとする。


 置いていかれないように、がむしゃらに追いかけた。


 ……でも。


 それで鬼ごっこは終わりだった。


 頑張って、どんなに全力で泳いでも、僕は皆に追いつけなかった。夏至が近くて太陽が沈むのが遅かったから、夕方になる前には皆、すっかりうんざりして帰ってしまった。


 日が暮れるまで皆を探していた僕は、オレンジ色の海から上がり、一人で泣いた。


「おかえりなさい」 


 堤防に上がる階段に足をかけようとしたら、彼女がまだそこで待っていた。


 明るい栗毛をクルクル弄って、二本ラムネ瓶を持って僕が帰ってくるのを。


「……なんだよ、まだいたのかよ」


「約束だもん……目赤いよ? 平気?」


 彼女はそのうちの一本を僕に差し出して、僕は手に取る。


「あぁ……塩水が染みるんだよ。海って辛いんだ。だからさ、だから」


「うん」


「……君はさ、得意なことある?」


「え?」


「算数が他の皆より早いとか、給食をたくさん食べれるとか。なんでもいいから」


「あんまりないよ。身長もクラスで一番低いし、牛乳も嫌い」


「僕もないんだ。何やってもダメで、上手くいかない」


 初めて話す、自分より幼い女の子に言うようなことじゃ、多分なかった。


 そんなことは分かっていたけれど、でも、僕はもう、うんざりだった。


「走るのも泳ぐのも遅くって。今日みたいに皆に置いていかれて――いいや多分、今日だけじゃないんだ。スタートの合図をちゃんと聞いてなかったから、ずっと追いつけなくて……」


 だから――――だから。


 あぁ、そうだ。そうなんだ。


 何を求めてたのか。誰よりも速くなって、一番になって、何が欲しかったのか。



「――特別になりたかったんだ。皆と同じように……」



 俺は、泣きそうになりながら呟く。


 夢の中の千秋はそっと微笑み、そしてするすると空気に溶けて消えていく。水平線に日が沈むようにぼんやりと霧散して、太陽が落ち込んでいく。


 目をゴシゴシ擦りながら、遠く聞こえる蝉の鳴き声も聞こえずに、通りを駆けた。バラバラと音を立てて雨が降り始める。水泳パンツにシャツを羽織って、ラムネ瓶を胸に抱いて、石に躓いて転んで起き上がる。目の前には道が広がっていた。大通りに広がるエンドレスロードはどこまでも一本道で、後ろを振り返るとパラパラと小石が崩れる切り立った崖に変わっていた。


「なぁ、なぁ頼むよ」


 気が付けば、俺の周囲は海でいっぱいで、どこにも逃げることはできなかった。俺は祈るように空を仰いで、夜満点の星空を追う。一面に散らばるお星さまの輝きは美しくて、どれも特別に光って見えた。



「俺も連れってくれよ! お願いだよ、俺を置いていかないでくれ!」



 けれど星の輝きは遠く、決して手の届かないところにあった。そこに行くことは絶対に叶わない夢物語で、俺は空を見上げるのを止めて、ゆっくりと目の前の崖を直視する。


 今にも落っこちそうな崖の先端には、俺の大事な幼馴染――泪が座っていた。


 彼女はこちらを振り向いて、俺に向かってそっと指を突きつける。


「あんたがやろうとしてることは、そういうことなの。他にもたくさん見えてる道を全部路傍の側溝に蹴っ飛ばして、空の綺麗なお星様を追うのに夢中で、下が崖だって気付いてない」


 崖はとても高く切り立っていて、どこまでも深く暗く、底さえ見えない。


「下を見たら思ったより崖が高くて、怖くなった?」


 ひぐらしの鳴く声がうるさく聴こえた。嫌なんだ、まだ帰りたくないんだ。


「それの何が悪いんだよ! そうやって前に進んで来れたんじゃないか! 楽しいことやって、そればっかりやって――同じじゃないか! これまでも……これからも」


 けれど俺は知っていた。よく分かっていた。


 何も悪くない。この世界に悪いことなんて一欠片もありはしない。


 手には水色のラムネ瓶があった。振り被りコンクリートに叩きつける。ひぐらしがまた鳴いた。飛び散った破片はキラキラと輝きとても綺麗で、でも絶対に触れられやしない。


 全部、幻想だ。


「そうやって、大切なものを一つずつ捨てていくの?」


「重たいんだ。引き摺って走るには、走らなきゃ、置いていかれるんだ」


 好きだの嫌いだの、勝ち負けだの、そういうのはもう、うんざりだ。


 俺の憧れていた、信じていたものだって、今はもう消えた幻想でしかない。


 特別なんだ、俺は。退屈な奴らとは違うんだ。異世界なんて嘘を嘘のまま信じられない。


 ないんだろう? この世界には、心から信じられる何かなんて。


 だったら俺は、ここでいいんだ。


「もう、疲れたんだよ……」


「……そっか」


 夢の中の彼女は、すくりと立ち上がって、俺の方に歩み寄ってくる。


 そして俺の胸ぐらを掴み取る。


 とても弱く優しく、顔を隠すようにして。


 今は続かない。永遠なんてこの世界にはなくて、変わっていくばかり。


 崖の向こう側には水平線が広がっていた。沈んでいく夕日と波が静けさを噛む。


 顔を俯けたまま彼女は、ぽつりと呟く。


「待ってくれる人がいても?」


 ――――あぁ、そうか。


 彼女は俺の手を取り、崖の前まで連れて行く。


「待ってるからね。約束だよ?」


 そして、俺の背中を押した。


 何十何百何千メートルもありそうな崖に突き出されて、俺は落下していく。


 海が徐々に近づく。眼前には大迫力の水の砂漠が広がっていた。


 そして着水する。ドボンと大きな音を立てて、痛みはなく、ゴボゴボと息ができないまま、深く海の底へと沈んでいく。泡は弾けては飛び、ここがどこかも分からないまま、俺とは逆の方向へと浮かんでいく。


 ゆっくりと、音もなく静かに、沈んでいく。


 沈んで、暗い、光の届かない深海まで辿り着いた。


 ここがどこか、自分の手がちゃんとあるのか、何を考えているかも不明瞭な、輝きとは遠くかけ離れた、目の前一面を塗り潰す黒。循環する深層海流。夢の終着点。光は遠く、遠い。

その闇の深淵には、一匹の魚がいた。


 その魚はじっとして動かず、ただ眠ったように海底の泥に蹲っていた。


 ――――ここで、いいかい?


 彼が、そんな言葉を言ったような気がした。


 彼の目は光を見る機能も退化して黒く濁っていた。煤けた瞳で俺をじっと見つめていた。


 俺はずっと、夢を見ていた。今だって見ているんだ。


 彼女は言っていた。夢を追う人間が好きだと。それはきっと、眩しいからだ。


 その輝きを見続け向かっていれば、俺たちはとりあえず前に進める。


 でも、多分。


 俺は輝いてなんかいなかった。太古の昔から彼のように、深海の闇に溶け込んでいた。


 自分が何をしているのかを考えないようにして、闇の中を無我夢中で泳いでいた。


 いいかげん、気付く頃だ。


 前に進むには、気付かないフリをして、道化を演じ、微かな光を求めるしかないんだと。



 ――――何にもないんだそこには。なんにも。



 彼の言葉を思い出す。ストロベリー・フィールドになにがあるのか。


 ……あぁ。


 首を小さく振って、背を向ける。


 浮き上がる泡に、遠く、光の射す方へと泳ぎ始めた。


 ぐんぐんと浮上して、重苦しい水圧も軽くなって、いつか、水面に顔を出し呼吸する。


 息苦しい深海から抜け出して、俺は眩しい太陽に照らされる。


 大きく息を吸って――――




 その光は、カーテンの隙間から溢れ射す、真っ白な朝日だった。

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