34話「あなたのこと、憶えてるよ」
通りでゲリラライブをしているバンドを見かけた。千秋はこういうのに目がないらしく、ハンカチを振る彼女をぼぉっと眺めて曲を聴く。割と正統派なロックバンドだった。一曲終えて、箸休めにと誰でも知ってるバンドのマイナーなカバーを弾き語る。
しばらくして雲行きが怪しくなって、雨が降り始めた。強烈なにわか雨。どしゃ降りにライブは解散し、立ち止まっていた通行人も蜂の巣を突いたみたく走り散らばる。白っぽい線がアスファルトを黒く染めて、水が爆ぜる匂いが漂う。
軒並みは文字通りいっぱいで、俺たちは裏路地に逃げ込み庇を貸してくれそうな店先を探しほっつき走る。通り雨ならそのまま通り過ぎてくれないかとも期待したが、このスコールは割と都会派らしく、東京の大通りを散々と満喫していらっしゃった。
結局水たまりを踏み抜くほど走って、すっかりシャッターの下りた小さな個人商店先前に不時着する。折りたたみ傘くらい持ってくればよかった。下着までずぶ濡れだ。
「マニアが2000GTでも洗ったかな」
横を見ると彼女は、シャッターに背中を張り付けてなるべく雨を遠ざけようとしていた。
「なにそれ」
「マーフィーの法則。雨乞いには洗車がいいらしい」
バターを塗ったトースト面が必ず落ちる理由は、実を言うとカーペットの値段ではなくテーブルの高さに関係しているらしいが、起こりうることは――とりわけ悪いことは必ず起こる。映画に登場する物騒な銃が必ず発砲するのと同じだ。余地があれば、雨は降る。
「迷惑な法則だね」
水たまりを淡々と打つ雨はまだ止みそうにない。明かりの乏しい裏路地はめっきり落ち込んでいて、時間的にはとっくにシャワーを浴びてゴロゴロする時間帯だった。
「……そう言えば、泊まる場所考えてなかったね」
安いホテルでも探せばいいんだろうが、この豪雨に歩き回るのは随分と馬鹿馬鹿しい。夏でも夜になれば気温も下がるし、乾くのを待っていたら風邪でも引きそうだ。
どしゃ降りのゲリラ豪雨。しばらく黙って眺めて、思い出し、口にする。
「うち来るか?」
「うち?」
「月末に引き払うから、まだ残ってんだ」
「……戻るつもりだったの?」
「引越し業者が捕まらなかっただけだよ」
なにそれと彼女は笑って言う。
「運がいいね」
*
学生マンションの六階角部屋、鍵は全部紐で括っていたから助かった。電気もガスも水も引っ越しの折に必要になりそうで止めなかったのが幸いした。無駄な出費ではあるが。
……嘘だ。ここを出払えば、戻れなくなる気がした。残しておけば、また帰ってこれるんじゃないかって。選択肢は多いほうがいい。
「お、お邪魔しま~す」
区内にしては存外広いこの部屋は、元々二部屋あった昭和黎明期の建造物を、壁をぶち抜いて一つに纏めて表面だけ整えた結果らしい。おかげで窓が二面あって、冬に過ごしたことはないが、きっと寒くなるんだろうと思う。
先にバスタブにお湯だけ張って、千秋をバスルームに。俺は濡れた服やらを脱いで吊るし、ダンボールから紅茶を取り出して温める。それからソファに腰掛けた。
窓の外からは、まだざぁざぁと雨音が聞こえてくる。
ケトルがパチリと音を鳴らし、簡易な紅茶を飲みながら、少しだけ思う。
これまでと、これからを。
どうして。医者から散々止めろと言われながら、無謀なリハビリのために時間を費やしているんだろう、とか――俺は本当に競泳に拘っているんだろうか、とか――現実的に将来のことを見据えるなら、秋から大学に戻って、苦手な勉強を努力するべきだろう、とか――色々と考えたくなくて、考えないようにしていたことを。
俺の夢を追う時間は終わったのか? 多分、そうだ。起こりうることはきっと起こる。
二つに分かれた心の声が大きく喚き散らす。
――どっちを落としていく?
そしてもう一人の声が小さく、か細い声で囁く。
――どっちでもいいさと。
そんな笑い声が、雨の裏で聞こえた気がした。
「上がったよ……どうしたの、電気も点けないで」
「……いや、腰が痛くてさ」
「一日中歩いたもんね、ごめんね気が付かなくて。あ、お背中流しましょうか?」
「勘弁。シャワーだけ浴びるから」
言った通りシャワーだけ軽く浴びて、さっさと上がる。
彼女は自前のパジャマに着替えて、マグカップに淹れた紅茶を啜りながら、ドライヤーを探そうとダンボールを開けては閉じてを繰り返している最中だった。
そんな時、彼女は一番底のダンボールを開けて、その中身を俺に見せびらかす。
それは、俺のこれまでだった。
「凄いね。トロフィーにメダルに、賞状! いっぱいあるね」
少し色褪せた二位の賞状、錆びてきた銅色のメダル、小さな大会の小さなトロフィー。
「別に、こんなもんが欲しかったわけじゃない」
「じゃあ、なにが欲しかったの?」
その問いかけに、息が詰まる。
「……なんだろうな。忘れたよ。物覚え、悪いから」
「……そっか」
彼女はコップの底に残った紅茶を飲み干して、疲れたからもう寝よっかと言った。部屋にはベッドとソファ、優しい彼女は俺にベッドを譲ってくれた。代わりに一枚しかない毛布を彼女にかけて、電気を落とす。
目を瞑る。雨はそろそろ通り過ぎていったみたいで、軒から雫が垂れて水溜りに跳ねる音が微かに聞こえる。角が削られた丸い音。沈んだ雨よりもはっきり聞こえる彼女の息。
寝返りを打つ。壁に額をくっつけると、少しだけひんやりした。
「静かだね……」
「……あぁ」
「あたしはね」
彼女の声は、意外と高いんだなと思った。けれど、記憶の中の彼女の声とは少し違う。
俺の記憶によれば今泉千秋は、非常に物静かで大人しい、目に入れても痛くない女の子だ。
今思えば、あれはきっと、いい思い出なんかじゃなかったんだろう。
嫌なことは忘れて、好きなことだけやってれば、それでよかった。
目を背けて、耳を塞いで――そうやって生きてきたんだから。
「あなたのこと、憶えてるよ」
だからきっと、嫌な思い出だ。
彼女の方に顔をやろうともう一度寝転がろうとして、つっかえた。頭がこつんと当たる。
目を開けると、枕の端っこ、すぐ目の前に彼女がいた。
近くて、額がくっつく距離。
彼女の額は温かかった。硬い壁なんかよりずっと優しくて、可愛かった。
「……返事。明日の朝聞かせてね。今日はもう眠いから……だから」
彼女はそっと目を瞑って、口を噤み。
そっと唇が触れ合う感触がした。
「おやすみなさい」




