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負け犬のくせになまいきだ  作者: 石山 雄規
三章 シーラカンスにうってつけの日 Your turn.
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32話「何百万回やっても同じだよ」

金曜日、よく晴れた昼時のことだった。燦々と照りつける太陽が眩しくて、目を瞑りたくなる暑さだった。海から吹く風は涼しくて、白色の波が穏やかに揺れていた。


 いい天気だったから、俺は家を出てのんびりと散歩をしていた。海辺を通りかかって、そこで泳ぐ彼を見かけて、声をかけた。


「いい天気ですね」


 彼は海から出ず、太陽を仰ぎ水に浮かんだまま話す。


「あぁ。うってつけの日だ」


 俺は海岸線の波打ち際に足を踏み入れて、出来るだけ近くまで歩く。


「これ以上ないくらい?」


「日和だよ。バナナフィッシュ知ってるか?」


「知らねぇ」


「俺は知ってる。他の奴も、まぁ、大体の奴は知ってる。型にはまってるんだな」


「知らねぇって言ってんだろ」


 俺には彼の考えてることなんて、さっぱり分からない。知る由もない。


 他人だ。他人の思ってることなんて、核心の更に内側なんて、覗けるはずがない。


 だから結局のところ、俺がやれることなんてのは、俺が思うことだけだった。


「自殺なんてしたら、それこそ負け犬だ。エゴだよ。アンタの嫌いな自己満足だ」


「誰だって同じこと繰り返してる。どっちみち同じさ。窮屈な世界にいつまでも囚われてる。でもな、そんなのは実のところ、大したことじゃない。世界はそういう風に廻ってるってだけなんだ。現実なんてのは、エゴが生んだまやかしに過ぎないのさ。この世界には俺がいて、でも本当は――本当のところ俺なんてどこにもいなくて世界――世界なんて、あるものなんて一つもないんだけど――この世界には何もないんだよ。悲しむのも楽しいのも怒るのも、全部。次に進むだけだ」


 入江純一はそんな意味不明なことばかり口にする。理想? とっくに乖離してるさ。今目の前にいる彼は、ラムネ瓶を叩きつけて、バラバラに割ってる最中なんだから。


 彼はぷかぷか浮かびながら、笑い調子に空の一点を見つめながら話す。


「誰も彼もが仮面を被ってる。常識って喜劇に踊らされることを強要されて――あぁ、すっかりうんざりなんだ。この社会は、狂ってるんだよ。分かるか、間違いだらけなんだ」


「へぇ」


「異世界はいいところだよ。俺の望んでることが叶うところだ。きっと静かで、穏やかな場所だと思うんだ。何一つ欠けることなく、そことここが同じにある」


「クソ面白くないね」


 俺は言葉を重ねて、口調を荒げて唾を飛ばす。


「アンタのやってることは、言葉遊びだ。全部子供の遊戯だよ。しりとりやるのと変わらない。ママの言った言葉を意味も分かんねぇで復唱して喜んでる、ガキ以下だ」


 ほんの少しだけだけれども、彼の言わんとすることは、分かった気になった。


 そしてそれらは、自己矛盾を繰り返していて、葛藤し――共感さえあった。


 彼もまた罪を犯し、狭い檻の中に入れられて、出ることを、赦されることを望んでいる。


 でも。


 ふざけるなと思った。

 

「自殺を肯定するような思想は根本で間違えてるよ。アンタは、間違ってる」


 やるのは、何かを、何でも、やれるのは。今、ここにいる俺だけなんだから。


「勘違いするなよ。異世界転生は自殺じゃない。ただ、生まれ変わるだけだ」


「何百万回やっても同じだよ! アンタ分かってんのかよ、分かってねぇだろうが!」


 なぁ、見下したような目を俺に向けるなよ。吐き気がするんだ。寒気がする。


 そして彼が言う。


「お前にもそのうち分かる日がくるさ」


 そのとき、俺の内部で何かが裂けた。大口を開けて怒鳴り散らし、怒りに任せて慄く。


「俺はあんたの背中をずっと追ってたのに。それじゃ、それじゃまるで、逃げるみたいだ!」


 それと同時に、妙に冷めきっていく自分も感じる。


 一切が赦される感覚だった。このクソみたいな死刑囚にだって、誰にだって特権があった。誰もが牢獄に囲われて処刑される。彼も俺も。


 いいさ、出りゃいいさ。もっと広い檻を探せばいい。


 そんな諦観を、上塗りするように叫ぶ。喉が痛んで掠れた声で、届くように。


「確かに異世界転生だって楽勝だろうさ。あぁ。だって、アンタ負け犬だ! アンタは俺に負けるんだ。ここに残り続ける俺に何にも言い返せないで。羨ましいだろ。僻んでるんだろ。これから上り調子で生き続ける俺が! なぁ、なぁ!」


 なぁ、アンタのせいで、俺の人生めちゃくちゃだ。アンタの背中を追ってたら、いつの間にか戻れないところに来ちまったんだ。今さら降りれないんだよ、どこにも進めないんだ。


「アンタは! 俺に負けるんだよ!」


 なぁ、聞いてんのかよ。頼むから、負けないでくれよ。


 俺に抜かれて背中を拝むまで、アンタは先頭を泳がなくちゃいけないんだよ。


 アンタは……俺の憧れなんだから。


 直接面と向かって見る彼は、思い出の姿のままだった。ラムネ瓶の憧れのまま、ビー玉みたいな透き通った目をしてる。古臭い子供みたいな目をして、彼は俺を黙って眺める。


 黙って、微笑んでいた。


「――じゃあな、深見」


 彼はそう俺の名と別れを告げて、とぽんと水に潜る。


 ドルフィンに水飛沫が舞って、水面に波紋を浮かべて、広がり消えていく。


 駆けて海に飛び込み彼を追う。


 けれど、海の塩は目に痛く、底はどんどん暗くなって、先なんてほとんど見えなかった。


 彼の後ろ姿はどこにも見えなくて、俺は腰の痛みに息を吸う。浜辺で待った。太陽が真上から西に沈んで、水平線の向こう側に落ち込んでいき、海面に映り色を変える。


 鮮やかに、空白は夜の黒に埋め尽くされていく。


 ――――諦めはきっと、必要なことだった。


 絶望的な無関心に。失望を拭い去るために。現実を見つめるために。


 分かれ道に一つずつ大切な物を落とし、振り返らずさよならを告げる。


 それが正しくなくても、何が正しいのかなんて分からないから。


 諦観は祈りだ。切り捨てた落とし物に、俺は祈る。


 結局、彼が再び、息を吸いに浮かぶことはなかった。




   *




 その日の夜、寝屋子に参加して、酒を飲んだ。


 飲んだくれて、いつの間にか、夜も更ける。


 彼女の部屋は甘い、ショートケーキのような匂いがした。


 明朝、日が昇る前にふたり家を出て、船に乗り電車に乗った。出来るだけ広い檻を探して。

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