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負け犬のくせになまいきだ  作者: 石山 雄規
三章 シーラカンスにうってつけの日 Your turn.
32/59

30話「ストロベリー・フィールドは見に行っちゃいけないぜ」

「お疲れ。じゃあ帰ろっか」


 夏至から二ヶ月、家々の隙間から覗けるオレンジ色に、日が沈むのが早くなってきたことを意識させられる。帰り道、水泳バッグを背負い、それを壁との間に挟み込んで、楓が校門の前でもたれ掛かっていた。


「約束。したでしょ」


「あぁ。行こうか」


 入江純一に会わせて欲しいという頼みを、彼女はにべありと頷いた。


 彼女が先導して案内するが、足が短く歩くのが遅いので、結局並んで歩くことになった。昼からたっぷり練習した後なので、瞼がとろんと垂れ、シパシパと瞬きしている。


 彼女の家は、切り立った岬の側にあった。海が一面に覗ける、小綺麗な別荘みたいだった。


 玄関を抜け、リビングを覗くも彼はいなかった。その代わり、裏でさぁさぁと水の流れる音が聞こえてきた。多分シャワーだ。風呂でも入ってるんだろう。


「待つか」


「ダメだよ。兄ちゃん長風呂だから、夜になっちゃう!」


 そう叫んで彼女は浴槽の方へと勢いよく駆け出す。俺は後を追って付いていき、開けっ放しの脱衣場に入る。彼女は風呂場の戸もガラリと開けた。


「兄ちゃん、入るよ。入るからね!」


 彼の姿はシャワーカーテンに隠れていた。少し黄色っぽいベージュグレイの布地に、色の付いた雨が降り注ぎ模様を散らしたカーテンを、浴槽いっぱいに引いてあった。


「楓ちゃん、そういう台詞は入る前に言うもんだぜ?」


「一昨日言ったでしょ。兄ちゃんに会いたいって人がいるから連れてくるって」


「なんだって、なんて言った?」


「シャワー落とすよ。兄ちゃんに会いたがってる人、連れてきたの」


「あぁなんだ。覚えてるよ。今、もうここにいるの?」


 これじゃ埒が明かないと言わんばかりに楓は俺の方を見やり、喋るよう促す。


「お久しぶりです。異世界転生するって聞きました。本気ですか?」


 俺の言葉に、彼はなぜか馬鹿笑いした。


「ははは。お久しぶりって、顔も見てないのに。いやぁ、久しぶり誰かさん」


「今日調子いいね、兄ちゃん」


「いいよ。よすぎてむしろ最悪だな。実はさっきテレビを見てたんだ。国連で子ども――いいや、確か中学生とか高校生くらいだったから、子どもじゃあないかもしれないけど。彼女がスピーチしてて、名前はなんだったかな、短かったと思うんだけど。畜産物の出すカーボンフットプリントについてよく語ってたんだよ。知ってるだろ、地球温暖化。おい聴いてるかい、なぁ。とにかく、すっかり感動しちゃって、でもこれまでずっと牛とか豚とか食べてきたろ。悪いことしたなって思うと気が滅入っちゃうんだ。それに、彼女のことでもうんざりしてるんだ。どうしてこんな子ども――また言ったな、でも子どもなんだ、精神年齢って言葉には飽き飽きするけど、三つか四つくらいの、楓よりずっと年下みたいに映るんだから。純粋なんだな。ともかくその子をそこで見てるのが、同い年の子どもじゃなくて、歳の入った爺さんばかりなんだ。奴らはもっと鏡を見るべきだと思うね。大嫌いだ」


 俺はすっかり黙りこくって、彼の流暢で散乱した話を聞くだけだった。


 誰か、酷い人違いでもしたんじゃないかって気になって、楓の方に目をやる。彼女は戸の隅っこの窪みに入り込んで腰を下ろし、足を伸ばして眠たそうだった。俺の視線に気付き、


「いつもこんな感じだよ」と語る。


「いつもって」


「とりあえず、私が生まれて物心付いた頃から」


 参った。本気でどうかしそうだった。根底からガラガラ崩れそうな気分だ。


 どうも外面はいいらしい。普段は嘘ばっかりの適当ぶっこいてるって、ちくしょう。


 彼は張ったお湯を手ですくい、顔にちゃぷんと浴びせる。それから思い出したと言わんばかりに、低くあーと前置きし、話を戻す。


「異世界転生だっけ。するよ。暇なんだ、いつも一位だからな。いいかげん飽きてきた」


「だから異世界転生ですか?」


「退屈はしなさそうな世界だろ。昔から結構好きだったんだよ」


「嘘吐け。勝ち逃げするつもりだろ」


 洗面台の鏡が湯気で曇っていた。夏場にお湯の煙が重なって、居心地の悪い湿度だ。ポリエステル製の安いシャツは汗も吸わず、バブルガムキャンディみたいにべとつく。


「アンタは他人と張り合うのが怖くなったんだ。それで最幸の日を探してる。違う?」


「勘違いしてるよ。随分な誤解だ。でもまるで俺のファンみたいだ。悪いけどサインは断ってるんだな、字が汚いのがコンプレックスなんだよ、悪いね」


 彼は換気扇を回してくれないかと遠くの友人に電話するみたく話す。重ねて悪いんだけど、バスルームは一人しか入れたくないんだと。「狭くて余計暑くなるだろうし、自分以外の誰かと同じ空間にいるのが好きじゃないんだ。正直プールも汚くて苦手でさ」それから、


「むしろ逆だよ。U字磁石のS極とN極が並び合うのに触れ合わないくらいには。正反対だね。張り合うのが怖いんじゃなくて、張り合いそうなのが嫌なんだ。一位を取って称賛されるのは好きだし歓迎するけど、だからって許されるべきじゃあないんだよ。楓、タオルを取ってくれないか。そろそろ出たいんだ。もう小一時間も入ってる」


「もう出てよ。私、眠たい」


「何だって?」


「眠たいの。兄ちゃんの話聞いてると、眠たくなっちゃう」


「そりゃ大変結構だ。子供はよく眠らないとよくないよ。でもお願いだから、あと二つか三つ話を聞いてもらいたいんだ。いや一つ、数秒、一秒だけ待ってくれ。タオルを取ってよ」


「なにさ」


「君が子どもの頃――今はすっかり大人になっちゃったけど、絵本を読み聞かせたこと憶えてるかい? 百万回生きた猫だ。よく憶えてる?」


「憶えてないよ。だって子どもの頃の話だもん」


「そうかい。俺は昨日のことみたいに憶えてるけど、猫を見せるとすぐ目を閉じたんだ。退屈だったのかなって心配でね。でも寝付かせるには退屈な、サルトルとかブッツァーティが適任なのかも。どう思う?」


 なぜか俺に話を振られて、適当に返事をする。


「一度も読んだことないかな」


 水泳バッグを枕代わりに、彼女はすっかり目を閉まっていた。すーすーと小さく息をする音が聞こえる。カーテン越しの彼はそれに気付かず構わず会話を続ける。


「よく眠れる話だと思うんだ。いやね、半年前、世界選手権でリヴァプールに行ったんだけど、ジョンレノンの出身地ってことをつい思い出したから、ストロベリー・フィールドを訪れたんだな。孤児院が再建されて障害者支援の施設になったってニュースを見て」


「ビートルズなら知ってるよ」


「俺も知ってる。でもそれが問題なんだ。皆ストロベリー・フィールドのために、せこせこわんさか、足を運んでたんだよ。俺、気持ち悪くなっちゃって、赤色の門も一目も見れずで」


「人に囲まれるなんて慣れてるだろ」


「自分だけがジョンレノンを好きだと思ってたんだ。でも違ってさ。急に恥ずかしくなった。いや、ちょっと違うかなぁ。惨めって言うか、悲しくなったんだな。誰も彼も、俺だってストロベリー・フィールドが見たくて――そういうのが嫌になって、でも、俺とおんなじようにげんなりして帰ってく奴らもいて――おい聴いてるかい、楓ちゃん。リヴァプールに行くことがあってもさ、ストロベリー・フィールドは見に行っちゃいけないぜ。偶然通りかかるんなら構わないけど。何にもないんだそこには。なんにも」


 楓はよく寝てたから、返事しなかった。俺も返事をしなかったから、彼は代わりにお湯を跳ねて足を伸ばし排水溝の蓋を開いて、面倒な書類に住所を書くときみたいな調子で言う。


「タオル取ってくれよ。あともう一つ。いい加減出てってくれないか? 一時間も浸かってさっぱりしたいんだよ。俺のことまるっきりふやかしたいんじゃなかったらさ」


 俺はカーテン越しにプラスチックの輪を吊り下げたバーの上を滑らせるよう、タオルを放り込む。彼の言葉を拝借しもう一秒だけ待ってもらおうか黙って考えて、止めにした。


「楓のこと、ベッドに運んでやってくれよ」


「あぁ、なに、もう眠っちゃったか。分かった、分かったよ」


 それだけ聞いて、俺はバスルーム前の脱衣所から出ていき、靴を履く。玄関を抜けて、日が完全に暮れ落ちた帰り道、そう言えば、彼は明日いなくなるのかもしれないと思う。


 思いながら徐々に、昼の暑さを忘れるくらい、夏でも夜は冷えるなと思った。

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