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負け犬のくせになまいきだ  作者: 石山 雄規
三章 シーラカンスにうってつけの日 Your turn.
31/59

29話「負けてもいいじゃん」

 奇跡的に、怪我が完璧に治り彼よりも速く泳げるようになればいいな、と思った。


 けれど奇跡はあまり起こらない。少なくとも今回の場合は欠片も存在しなかった。


『治った?』


『あぁ。今日からまた早起きだ』


『……なんで焦ってるの?』


『なにが、なんの話だよ。腰が良くなったから再開するって』


『泪から聞いてる。当分泳がせないでって』


『……このままじゃダメなんだよ、俺は』


『釣り、楽しくなかった?』


『頼むよ。お前しか頼れないんだ。俺は、勝たなきゃいけないんだ』


 今泉は俺の懇願に合意してくれた。妥協と呼ぶべきかも知れない。ポキンと折れた。


 その代わり彼女が取り出したのはストップウォッチだった。時間を区切り、越えた瞬間俺を自ら引きずり出して無理やり休ませる。その間、彼女はとりとめのない話をした。


 本当にくだらない日常会話ばかりで、俺への制限時間は絶対に厳守するくせして、彼女は何度もタイマーをセットし忘れた。数え切れないほど幾度も重ねて。俺だって理解する。


「タイムアップ! ほら、上がって上がって!」


 水から這い上がり、今泉の代わりにタイマーをバンと押して仰向けに寝転がる。


 薄く張った雲の隙間から太陽の光が射し込む。腰の痛みから目を背けるよう目を瞑る。


「……そうだ、今週の金曜日。寝屋子来るよね?」


「寝屋子?」


「あれぇ。そっか、深見くん高校から東京行っちゃったもんね」


 そんな調子で彼女がだらだらと寝屋子の説明をしてくれる。


 よると寝屋子とは、この島伝統の由緒ある風習らしい。第三金曜の夜、寝屋親と呼ばれる代表の家に各家庭の長男が寝泊まりし、漁やら祭りの段取りやらを教えるそうだ。


 俺がそんな古からの伝統を知らないのは、単に興味がなかっただけでなく、寝屋子に入るのは義務教育を終えてからという、やはり古からの伝統に沿った規則ゆえだろう。


 ならば一人娘である今泉には関係ないのではとも思うが、どうも彼女の家が寝屋親だそうだ。家も広く特に文句のない家庭環境、彼女も色々と大変らしい。


「先月は忙しかったから忘れてたけど、しばらくはこの島に残るわけでしょ。なんていうか、同窓会的な? まぁ、みんな上京するか異世界転生するかであんまりいないんだけどさ」


「居着く気はねぇぞ」


「助けてよぉ。男満載の一つ屋根の下に可憐に咲く一輪の花が、どーんな目で見られるか、分かるでしょ? いや、分かって! 分かりなさい! 分かった!?」


 鬼気迫る表情で迫られる。よく分かりました。


「…………はぁ」


 実際、彼女にも思うところあるのだろう。こんな狭苦しい島に十数年もいて、よく分からん風習に縛られ、進路に悩み、友人たちは次から次へと去っていく。


「……理由、入江純一?」


 そう尋ねられ、俺が肯定も否定もしないでいると、彼女は沈黙をそのまま受け止める。


「やっぱり。異世界転生だ」


「なんでお前が」


「楓ちゃん。あたしを引き留めた時みたいにお兄さんと遊んでるって」


 真上に昇る太陽からの視線に汗をかく。


「深見くんにお兄さんを止める意味ってあるの? 無理して泳いで、そこまでする意味」


「あの人が消える前に泳がないと、二度と勝てなくなる」


「負けてもいいじゃん。あたしには分かっちゃうもん。深見くんが頑張っても無駄だもん。止められないよ。本当に異世界行っちゃう人は、みんなそうだもん」


 手に持ったストップウォッチが停滞の終末を告げる。彼女はタイマーを俺の手のひらから奪い取り、けたたましく鳴る音を止めて、代わりにタオルを手渡す。「今日はもう終わり」


「泪は悪く言うけどさ、あたしはそんなに悪くないと思うよ、異世界転生」


「……自殺だぞ。知ってんのか」


「あたしから言わせれば、深見くんが東京に行くのと、異世界転生するのとなんて、そんなに変わらないよ。どっちみちこっちから見たら、もういなくて話せないのは同じなんだから」


「俺は帰ってきたろ」


「……結構嬉しかったよ。深見くんが戻ってきたときは」


 徐々に、焦りつつあった。物事が平坦なことにではなく、それに満足し始めている自分に。


 彼女の言葉に、納得しつつある自分に。


「頑張らないでいいよ、ほどほどで。あたしは……一緒にのんびりやれればいいからさ」

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