29話「負けてもいいじゃん」
奇跡的に、怪我が完璧に治り彼よりも速く泳げるようになればいいな、と思った。
けれど奇跡はあまり起こらない。少なくとも今回の場合は欠片も存在しなかった。
『治った?』
『あぁ。今日からまた早起きだ』
『……なんで焦ってるの?』
『なにが、なんの話だよ。腰が良くなったから再開するって』
『泪から聞いてる。当分泳がせないでって』
『……このままじゃダメなんだよ、俺は』
『釣り、楽しくなかった?』
『頼むよ。お前しか頼れないんだ。俺は、勝たなきゃいけないんだ』
今泉は俺の懇願に合意してくれた。妥協と呼ぶべきかも知れない。ポキンと折れた。
その代わり彼女が取り出したのはストップウォッチだった。時間を区切り、越えた瞬間俺を自ら引きずり出して無理やり休ませる。その間、彼女はとりとめのない話をした。
本当にくだらない日常会話ばかりで、俺への制限時間は絶対に厳守するくせして、彼女は何度もタイマーをセットし忘れた。数え切れないほど幾度も重ねて。俺だって理解する。
「タイムアップ! ほら、上がって上がって!」
水から這い上がり、今泉の代わりにタイマーをバンと押して仰向けに寝転がる。
薄く張った雲の隙間から太陽の光が射し込む。腰の痛みから目を背けるよう目を瞑る。
「……そうだ、今週の金曜日。寝屋子来るよね?」
「寝屋子?」
「あれぇ。そっか、深見くん高校から東京行っちゃったもんね」
そんな調子で彼女がだらだらと寝屋子の説明をしてくれる。
よると寝屋子とは、この島伝統の由緒ある風習らしい。第三金曜の夜、寝屋親と呼ばれる代表の家に各家庭の長男が寝泊まりし、漁やら祭りの段取りやらを教えるそうだ。
俺がそんな古からの伝統を知らないのは、単に興味がなかっただけでなく、寝屋子に入るのは義務教育を終えてからという、やはり古からの伝統に沿った規則ゆえだろう。
ならば一人娘である今泉には関係ないのではとも思うが、どうも彼女の家が寝屋親だそうだ。家も広く特に文句のない家庭環境、彼女も色々と大変らしい。
「先月は忙しかったから忘れてたけど、しばらくはこの島に残るわけでしょ。なんていうか、同窓会的な? まぁ、みんな上京するか異世界転生するかであんまりいないんだけどさ」
「居着く気はねぇぞ」
「助けてよぉ。男満載の一つ屋根の下に可憐に咲く一輪の花が、どーんな目で見られるか、分かるでしょ? いや、分かって! 分かりなさい! 分かった!?」
鬼気迫る表情で迫られる。よく分かりました。
「…………はぁ」
実際、彼女にも思うところあるのだろう。こんな狭苦しい島に十数年もいて、よく分からん風習に縛られ、進路に悩み、友人たちは次から次へと去っていく。
「……理由、入江純一?」
そう尋ねられ、俺が肯定も否定もしないでいると、彼女は沈黙をそのまま受け止める。
「やっぱり。異世界転生だ」
「なんでお前が」
「楓ちゃん。あたしを引き留めた時みたいにお兄さんと遊んでるって」
真上に昇る太陽からの視線に汗をかく。
「深見くんにお兄さんを止める意味ってあるの? 無理して泳いで、そこまでする意味」
「あの人が消える前に泳がないと、二度と勝てなくなる」
「負けてもいいじゃん。あたしには分かっちゃうもん。深見くんが頑張っても無駄だもん。止められないよ。本当に異世界行っちゃう人は、みんなそうだもん」
手に持ったストップウォッチが停滞の終末を告げる。彼女はタイマーを俺の手のひらから奪い取り、けたたましく鳴る音を止めて、代わりにタオルを手渡す。「今日はもう終わり」
「泪は悪く言うけどさ、あたしはそんなに悪くないと思うよ、異世界転生」
「……自殺だぞ。知ってんのか」
「あたしから言わせれば、深見くんが東京に行くのと、異世界転生するのとなんて、そんなに変わらないよ。どっちみちこっちから見たら、もういなくて話せないのは同じなんだから」
「俺は帰ってきたろ」
「……結構嬉しかったよ。深見くんが戻ってきたときは」
徐々に、焦りつつあった。物事が平坦なことにではなく、それに満足し始めている自分に。
彼女の言葉に、納得しつつある自分に。
「頑張らないでいいよ、ほどほどで。あたしは……一緒にのんびりやれればいいからさ」




