26話「異世界『転生』」
一日が、窒素や二酸化炭素のように平然と通り抜けていく。空気中にあることさえ気付かれない成分みたいに、確かに吸っているはずなのに、いつの間にか吐いている。それらの重要性に気付くのは多分、火事になったときくらいだった。
誰かの家でも燃えればいいなと、そんなくだらないことを考える程度には暇だった。
日々を今泉と釣りなんかして過ごした。魚は釣れない。待つだけだ。汗をかく。
水泳部の活動の方も、使い古した鍵盤みたく伸び切っていた。全国大会という大きな目標を通り過ぎ、次の大会は春ということもあって、いまいち熱気のない気温だった。
「昨日は水族館行ったよ。一昨日は一緒にプリキュア見たし、おととといはお寿司食べた!」
今や水泳部員の一人である楓は、練習後、共犯関係にある俺を呼び止め、日々を報告する。
彼女は俺との約束通り、たくさん遊んでいた。
「そりゃよかった。なによりだ」
「明日は兄ちゃんの奢りで焼き肉なの。他人の金で食う肉はきっと美味しいよ」
関係性を深め未練を残させる――芸はないが、それは極めて妥当で穏当な結論に思えた。
「兄ちゃんもこっち来てから遊んでくれるようになったし。入江家、順調です!」
例えば、好きな人でも出来れば異世界なんて行こうとは思わないだろうし、こっちの世界で楽しいことでも見つければ、しばらく後回そうと考えるきっかけになるはずだ。
「だから、これで兄ちゃんも満足だよね」
だから、俺はどうしても不安だった。彼がこの世界に満足してしまわないかと。
今、彼女がやっていることが全て、裏目の、よくない方向に転がる坂道だとしたら――好きな人と手を繋いでゴールし、やり残したことを一つずつ消化して――彼の目的が退屈しのぎでないとすれば、むしろ退屈は歓迎すべき状態なのかもしれない、と。
「……あぁ、そうだな」
だからと言って、俺になにが出来る? 二度と会えなくなるかもしれない兄と、これまで忙しく嫌うだけだった兄から距離を置き、誰も幸せにしないでくれと少女に頼む?
世の中そんなもんだと斜に構えて浸れるほど若くもなければ、諦めきれず別の道を模索するほど馬鹿でもない。でも受け入れて心構えを整えるほど信仰深くもなく、何もかも嫌だと投げ出して逆走するほど夢見れない。だって、目の前に広がっているのは崖なんだから。
ないない尽くしだ。立ち尽くして傍観するのが関の山だ。
……しょせんは他人の人生だ。俺には何の関係もない。
そう思うのはとても簡単なことだった。実際、何も間違っちゃいない。三浦比呂が異世界転生したとき一瞬でも悲しんだか? いいや。俺はただ、そうかと思っただけだ。俺が心配したのは彼よりも今泉の方で、そのときですら、俺はやはり傍観者だった。
入江純一がいなくなったからなんだ? 何が変わる? 楓は悲しむかもしれない。世間は三面記事のネタにするかな。競泳界は至宝を失い嘆くだろうし、俺は目標を失う。
けれど嘆きはしない気がする。あるのはきっと落胆だ。超えるべき壁を永遠に超えられなくなれば、俺は多分、喜びはしないが、悲しみもしないだろうと思う。
壁が残り続けるだけだ。残念ではあるが、彼の残影を追い求める道だってある。
「それでね、明後日は」
「なぁ」
幸せを求める権利は誰にだってある。彼女と、彼の幸せが今の延長線上にあるのなら、部外者が出しゃばってどうこうする問題じゃあない。俺がすべきことは何もない。
「なーに?」
…………でも。
そんな結論は嫌だった。嫌気が差した。誰かじゃなく、俺には耐えられなかった。
太陽の眩しさに目が眩んだんだ。夏の熱気に、不燃焼気味な退屈を燃やして欲しかった。
だから俺は、気付かないフリをしていたことに目を向ける。
彼を引き留めるに値するだけの理由を。俺がすべきことを見つけるだけの動機を。
異世界『転生』。
「会わせてくれないか? お前の兄ちゃんに」
生まれ変わるには、死ななくてはいけないことに。




