25話「毎日、今日が昨日になるのを待ってる」
今泉家からの帰り道、日はもうすっかり暮れて、ノスタルジックな夕焼けだった。
足元が薄暗かった。家々から射し込む茜がぼんやりと影を落としていて、俺は自分の影に傷でもつかないよう堤防に上り、腕でバランスを取って、これ以上影が落っこちないよう慎重に歩くことにした。
気温が落ち込む時間帯には、ひぐらしがよく鳴く。聞くと帰らなきゃいけない気分になる。東京にひぐらしはいなかった。だから夏の夕暮れ、思い出に振り返るのは自然なんだろう。
今泉の話によると、熱を失った海水は、暖まるのに時間がかかるらしい。
まだ、しばらく夏だけれど、夏より暑い季節はない。秋になって冬に移り、桜が散る頃でも、雨が降り止むまでは今日より暑くはならない。どのみち、時間はかかる。一年か二年か、あるいはもっと――指を折る。俺はこれから何度ひぐらしの鳴く声を聞くんだろう。
両手で数え切れなくなるんじゃないか。そう思って、俺は不意に耳をふさぐ。
「――――――ぇ」
「え?」
蝉の音と波のさざめきの裏から、微かに呼びかけられたような声がして手を離す。
「……だから。堤防で耳ふさいで、なにしてるのって」
砂浜側を覗き込んでみると、下で泪が買い物袋を抱えていた。サンダルにハーフパンツと非常にラフな格好。元々ファッションに拘る奴じゃないが。
「まだ帰りたくないんだよ。ひぐらしの鳴く頃が嫌いでね」
「そうかそうか。それで、リハビリの具合はどう?」
「謎の怪文書のおかげさまで、なんとかな」
「……そうかそうか」
そう言って軽く俯いた泪の表情は、ちょうど堤防の陰に隠れてよく見えなかった。
「まぁ、無理して泳いで腰痛再発したんだけど」
「そうかそう……は?」
「おかげさまでリハビリも初歩的な段階に逆戻りでさ。やっぱつれぇわ」
「…………へー」
「ちょっと待ってろ。今降りるから」
「へ?」
俺は大体三メートルくらいの高さの堤防から飛び降りて、綺麗に着地。
そしてその瞬間膝から崩れ落ち、土下座みたいな体勢へとスムーズに以降する。
痛え! しまった! せめて階段から降りるべきだった! 昔からの習慣が!
だが安心して欲しい。彼女はそんな俺にそっと手を差し伸べる。
そしてその手を胸ぐらまで伸ばし掴み取る。いやぁ、御年四度目かな。
「ほんと馬鹿! もっと自分を労りなさい!」
恐喝の距離感から言うセリフじゃねえ。
けれど今度は俺の腰の具合を鑑みたのか、そのまま砂浜に伏せるよう指示する。
「……ちょっと炎症起こしてる。激しい運動は厳禁って、日記に書いてなかった?」
「読めねぇんだよ。それにあのときは」
「なんで無理して泳いだの? 夢のために努力してるんじゃなかった?」
「そりゃあ……」
言いかけて、喉元で詰まる。結局、俺は何に勝ったのか。本当に勝ったのか。
実際、俺はその答えを知っている。
意味は、なかった。
だから今泉には声を掛けなかった。彼女が知れば、きっと呆れ顔で止めただろうから。
あのレースは感傷に過ぎなくて、誰かにとって価値はあっても、俺にはないのだと。
「深い意味はないな」
「はぁ」
「ないからだな。理由とか意味がないと泳げないってのに、なんかムカついた」
とはいえ、別にそんな信念を貫き通せたわけでもない。なんだかんだ、憧憬を重ね合わせ、自分でも意味があるように思い込んでいた気もする。
「……もし戻れても?」
結局、多分、俺は、なまいきなガキ共をギャフンと言わせて、勝ちたかった。
「あぁ、同じことするよ。して、腰壊す」
俺がそう言うと、彼女は何かを言いたげに唇を噛み、喉の詰まりでも取るみたく、大きく目を伏せるように頷いてから顔を上げ、普段どおりの吊り目で言う。
「後悔してないなら、よし! 頑張れ!」
「今頑張ったら炎症酷くなるんじゃ」
「頑張らないことを頑張れ! 休み続けろ! 家でごろごろして、寝続けるのだ!」
「退屈だぁ」
結局、今は無理して歩かない方がいいと車を呼ぶことになった。当然のようにおじさんは島を出てパチンコを打っていたので、一時間ほどこの場で待機する手筈と相なる。
砂に伏せたまま彼女に目をやる。泪は海をぼんやりと見つめていた。彼女の横顔を覗くのは随分久しぶりな気がする。短い黒髪が夕凪に吹かれてふわりたなびく。
けれど、どうしてか懐かしさはなかった。哀愁とは違う感情が喉元まで上ってくる。
視線の先を追うと、夕空との境目が曖昧な水平線だけが広がっていた。
光の絨毯に白く泡立った波が、張り詰めた潮を超えて浜辺に打ち寄せ、一羽の鳥がすれすれに海を掠める。大きく一度だけはばたき、遠く雲へ飛び去っていく。
「……なぁ」
「どうかした?」
「お前も、退屈か?」
俺が聞くと、彼女は複雑に色の混じった水平線から目を外し、俺の方をじっと見つめる。
「いまは、全然」
「じゃあ明日は」
「多分、楽しいかな」
「十年後」
「そんな先のこと分からないって」
「いやな」
「千秋がいるんだから、退屈はしないでしょ」
「飽きは来ないな」
しばらく沈黙が続いた。波が夕暮れの静けさを噛む。くだらないことを聞いたかな。
「……たまにね、今がずっと続けばいいのにって、思うの」
「なんだよ、俺が帰って来なくて寂しかったか」
「うん」
彼女は立ち上がりうーんと伸びをして、言葉を続ける。
「でも今は続かない。きっと永遠なんてこの世界にはなくて、変わってくばっかり」
だったら、と彼女は語る。
「せめて今をたくさん味わいたいの。十年後に思い出せないくらい、たくさんね」
俺の幼馴染は、こほんと咳払いをして場を整える。
「とりあえず、今月はプールに入るの、一切禁止ね」
「海は?」
「海も。アンタ、水に入ると我慢できないでしょ。絶対厳守だかんね」
「なら、その間は?」
「しばらくは安静に。明日病院行ってコルセット付けてもらって、痛め止め忘れず飲むこと。お医者さんの言うことちゃんと聞いてよ? ネガティブなことは聞き流していいけど」
「いいのかよ……」
それから一人でも出来るマッサージやらを聞いて、そんなこんなの押し問答を繰り返している間に太陽が沈んでいって、堤防側からクラクションの音が二回鳴った。おじさんだ。
「分かった? ちゃんと覚えた? 柊吾の頭、鶏並だから心配しちゃうわ」
「心配だったら毎日押しかけてくれてもいいんだぞ?」
けれど、彼女は、納得できる気もするが、俺の手伝いを拒否している。
そんな彼女が間接的でも秘伝のノートを渡してくれて、こうして指導してくれているだけでも、俺には大分不思議だった。
彼女の中でどんな心境の変化があったのか、それとも何も変わっていないのか。
「……今が続けばいいって、思う。でも、それが嫌なのもあるの」
その気持ちは、そんな矛盾した感情には、よく身に覚えがある。
「後ろ向きなんだと思うの。毎日、今日が昨日になるのを待ってる」
それは多分、彼女にとって最も耐え難い生き方に思えた。
「でもね、そうなるのを決めたのはわたしだから。それくらいは抱えたいの」
「泪、俺」
「約束忘れたんなら、それでいいの。柊吾は前だけ見てればそれで」
どちらも間違っているんだろう。片方だけでは足りないのだ。
だから彼女はこちら側の島で、向こう側の世界なんて認めずに、ただ待っている。
「行こっか。立てる?」
そう、久しぶりの微笑みを浮かべて、彼女はそっと手を差し伸べてくれる。
俺は彼女の手を掴み取り、ゆっくりと体を起こ――
せず、砂に足を踏み外して倒れ込んだ。
だが今回は場所がよかったらしい。腰が全然痛まない。
なぜか、なぜって……なぜだろうな。嫌な予感がする。すごく、嫌な予感だ。
俺は恐る恐る顔を上げていく。瞑った目も慎重にゆっくりと開いていく。
ドクン、ドクンと、音が聞こえた。波のさざめきとは全く違う、柔らかくて、でも激しい。
なんとか起き上がろうと手前に腕を落として手をつく。
ふにゅん。
そんな感じだった。俺はようやく事の全貌を把握する。
「な、な、な」
なーんだ。ただ転んだ拍子に泪に抱きついて胸がクッションになり、その上顔を埋めて、起き上がろうとしたときにもみもみと彼女の胸部を揉んでしまっただけじゃないか。
「なーんだ。ハッハッハ」
「どうした柊吾。その頬、日焼けか?」
「いや……男の勲章だよ」
それから数日、俺が苦しんだのは腰なんかより頬の痛みだったことは言うまでもない。




