22話「ここにいると思うんだ」
いい匂いがした。柔らかくて甘い、ショートケーキみたいな匂い。
「飲みすぎだよ……大丈夫?」
「飲みすぎ?……そんなに飲んだかな、俺」
「顔真っ赤だよ。泪に怒られちゃう」
記憶の中で、俺はいつも目が回っていた。突っ込んだトラックに土砂降りの雨。ターンが上手くいかずに表彰台を見上げた。鬼ごっこ、俺は鬼だった。みんなを追って走っていた。
――――待ってるからね。約束だよ?
「出てってくれ」
「――うん」
明かりのない部屋で、彼女の表情はよく見えなかった。
「なぁ、今泉」
「うん」
「俺さ、もう、ここにいると思うんだ」
「ここがどこか、ちゃんと分かる?」
「……海の底。暗いし体が重たいし、息苦しい」
「もう寝ようね。明日はゆっくり起こすから」
俺はふと、深海でゆっくりと佇む、シーラカンスのことを思った。
ルイス・キャロルだった気がする。赤の女王仮説とか、そんな話だった。
それは別に、単なる進化論に関する説明の一つでしかない。
だとしたら。シーラカンスを思う。彼はどこに進んでいたんだろう。これからどこへ進むんだろう。何も変わることのない、永遠の底で眠っているだけの彼は。
「ずっと、ここから出られない気がするんだ。暗くて重くて息苦しくて……それがいつまでも続いて……ここにいると思うんだ。明日も明後日も、十年後もこうして」
「………………」
「置いてかないでくれ、千秋。ここにいると、息苦しくて……吐き気がする」
連れてってくれないか、シーラカンス。俺も、そこに行きたいんだ。
なぁ、なぁ。応えてくれよ。
「……ねぇ」
「……なに」
「ここが、嫌?」
「あぁ」
「どこか遠くに行きたいって、そう思う?」
「お前と、同じだよ」
「……うん、おんなじだね」
「…………飲んだのか?」
「あのね」
シーラカンスは、静かに笑って、俺への応えを囁く。
「あたしを連れてってよ……ここじゃないところに」




