20話「遅いよ」
順調な物事は淡々と進むものだ。三冠馬が五馬身離して悠々とゴールするように、大穴も大波乱も起こらない。波風立たずゆったりと、日は経過していく。
一日、また一日と印を付ける。空の模様は夏真っ盛りの入道雲とスカイブルー。海よりも明るく青い空の色は、日に焼けて赤く染まっていき、月が昇って沈んでいく。
晴れの日にドラマはない。波乱が起こるのは決まって、どしゃ降りの日だ。
*
大会前日、曇り空だった。海から吹く風が湿りを帯びて、昼にも関わらず目の前はどんよりとくすみ落ち込んでいる。日の退屈が降りてきたような天気だった。
実際、天気予報によると昼から雨が降るらしい。台風にまるでなりきれなかった熱帯低気圧が北上してきて、適度な風とそれなりの雨を伴って上陸する。
明日も控えるそんな日なのだから、当然水泳部は休養日である。ゆっくりと休み精神を集中させることこそ、大事な節目の直前には必要なことだ。それが正解だった。
「……………………」
だから、俺が今やろうとしていることは、全くの間違いなんだろう。
飛び込み台に腰掛けていると、錆びた鉄製の扉がキキィと鳴る。
「やぁ」
「……なんでいるの」
涼太だった。誰も来ないはずの日に、彼は水着を履いてプールを訪れていた。
「偶然、会えると思ってな」
「邪魔だから出てけよ。止めてもやるから」
そういう受け答えも全部、予想の範疇だ。
「止めないよ。ただ、一つだけ頼み事があるんだ」
「頼み?」
冷静に思考するならば、きっと、この行動は全くの無駄で、意味のないことだろう。
当時の俺と今の彼を重ね合わせて、自分でもよく分からない感傷に浸っている。
……いいや違う。言葉にしろ。誠実に。隠したい感情を曝け出せよ。
俺はただ、負けたくなかった。ガキにも。自分の取れなかった栄光を掻っ攫おうとする少年に嫉妬して、間違った感情を、好きな泳ぎで誤魔化そうと。
それはきっと、中途半端な遊びに過ぎないのだろう。
回り道の遠回りで、決して必要とは呼べない寄り道なのかもしれない。
だがどうも、俺は海に似ているらしい。
「俺とレースしてくれないか? 負けたら帰るよ」
海に似て、レーンの外れに大切なものが落っこちている。
「……腰壊してるんだろ」
「まぁな。楽に勝てるって思うだろ」
「つまらないレースはしたくない。」
……つれないなぁ。
ガキの時の俺みたいに、煽りに釣られてくれれば話は早いんだが。
そう確か、あのとき彼はこんな風に言ったはずだ。
「――泳ぎ方を教えてやるよ」
「……心が折れてもオレのせいにしないでくれな」
涼太は心底面倒くさそうに二の腕を伸ばし、柔軟運動を始める。
ただ、さっさと終わらせたい意識か、あまり時間をかけずにぱっぱと次に移る。
「ゆっくりでいいぞ」
「怖気づいた?」
「レースには観客が必要だろ。喝采を浴びるには」
少年の何言ってんだこいつ……みたいな視線を浴びながら、俺は再び扉が開くのを待つ。
そしてちょうどそのとき、一人の女の子がプールサイドにやって来た。
「…………」
楓だ。昨日呼んだ時間帯にちゃんと十五分遅れて来てくれている。ちゃんとな。
「会いたがってたろ?」
楓は夏と小学生に相応しい白のワンピースを着ていた。自分は真っ白だと主張するような白さである。少なくとも、有罪判決を受ける被告人には、似つかわしくない色だ。
彼女はぷっくらした一重まぶたで黙ったまま、そっと脇のベンチに座り込む。
涼太も無言のまま彼女の方に歩いていき、目の前で立ち止まる。
「伝言、コーチからちゃんと聞いた?」
「あの、その……ご、ごめんなさい」
「……? ちょっと、コーチ。四文字すら伝えられないの?」
「う、まで伝えないところまで完璧に伝言したぞ」
「ならなんで泣きそうなんだよ」
「そりゃお前が――」
――言いかけて、気付く。
俺は、少しだけ、いいや大分と、彼を捉え誤っていたのかもしれない。
天才、けれど陰の努力家。皮肉屋、けれど根は素直。
「あの馬鹿が変な伝え方したみたいだから、改めて言うよ」
どちらが彼の本当の姿なのか。それとも、どちらも彼自身を映したものなのか。
「――――プールの水抜いてくれて、ありがと」
たとえば彼女への感謝が、皮肉ではなく、心からのものだったとしたら――――
「……ありがと?」
「うん。ありがとに、それ以外の意味なんてないだろ」
つまるところ彼もまた、京都では生きていけない人間だった。
彼の行動から思考を追うならば、それはおそらく『普通に、恵まれた環境で、当然の1位を取りたくない』に帰結する。それが天才の、普通でない何よりの証明だから。
そうだとしたら納得がいった。彼が求めているのが何より、逆境だったのなら。
そんな彼にとって、俺という存在はどう映ったことだろう。
全国出場経験のあるコーチ、そんな存在は、きっと普通でなく恵まれている。
そうでなくとも、腰に持病を抱えるような泳ぎ方のコーチから教わることがあるのか。
未だ小学生。将来があって、通過点に過ぎないと豪語する大会に、何を思うのか。
間違いなく、疑いなく。穿って人を捉えて、捻くれていたのは俺の方だ。
「……わ、ワッハッハ。礼ならば受け取ろう。くるしゅうない、見る目があるぞ」
最も実害を被ったはずの少年からの感謝に呆気にとられながらも、彼女はハッと気付き慌てて厨二病モードで取り繕う。どうも彼女にとって、この言葉遣いは照れ隠しなのかも。
「これからレースなんだ。観客として、見ててくれないか?」
「なんで……」
俺は黙ったまま楓を見つめる。彼女は悟ったように、薄く笑い答える。
「……分かったの?」
「分かったつもりには、なれたかな」
「……そっか」
空は曇っていて、白く柔らかい布のように辺りを包んでいる。
そんな微妙な気配を察したのか、涼太が俺に小声で「何の話?」と聞いてくる。
「黙って聞いてろ。女の話は黙って相槌打つのがベストだ」
「オレが聞きたいのは女の取り扱い方じゃないんだけど……」
「涼太君も、みんな兄ちゃんより遅いってこと。だから、引退するの」
だから。
他が遅いから、彼は引退する。そこにはどこか、傲慢と侮蔑の含みがあった。
あの人らしいと思った。肉体的な衰えや後進の育成なんかよりずっとしっくりきた。
でも。
「……だから。水泳も嫌いか」
「……みんな遅いよ」
本当に――――腹が立つ。
「涼太」
「ん?」
「始めようか」
「やっと帰る準備が整った?」
「いや、全然」
楓に合図だけ頼んで、俺たちは中央側の飛び込み台に向かい、ゆったりと足をかける。
久しぶりの飛び込み台から覗く風景は、ほんの少しだけくすんでいた。
淀んだ灰色で、生温かく湿っていて、強い風に波が立ち、ゆらゆらと揺れている。
けれど。プールの水だけは、透き通っていた。
「よく見とけ」
追い風は俺に吹いていた。それだけで、俺は充分熱くなれた。
きっと、この気持ちが冷めることはない。
「必死こいて先頭を追いかける、負け犬の後ろ姿を」
――――そしてスタートの掛け声が鳴った。
飛び込みは同時。音と重なるように勢いよく、踏み込み慣れた角度で着水する。
飛沫が舞って、水面に落ちる音は既に聞こえない。潜水し制限一杯まで水の隙間を滑り流れていく。腰はまだ痛まない。
浮上し、一瞬の合間に大きく息を吸って血液に酸素を取り込む。一瞬遅れて、隣からも水を跳ねる音が鳴り、その軽やかな音はすぐにザブザブと力強く、掻き分ける波に変わる。
やる気は充分らしい。前日の調整用の流しじゃない、俺に完璧に勝つ気でいる。
報いなくてはいけない。彼に。彼が俺に教えたように、追うべき背中を見せたように。今度は俺が、彼に背中を追わせなければならない。
そして俺は泳ぎ始める。自由形短距離――ターンは一度きりだ。
腕の振りは多少鈍ってはいたものの、怪我の影響もない。水を遥か後方へと追いやる際は出来るだけ遠く多く。宙を素早く通り水を潜り抜ける際は極限まで抵抗を減らしていく。
推進力を得て水中を駆け抜ける。痛まない。痛くない。
――――痛く、ない。
けれど俺は泳ぐ。小学生に教えた通りの基本に忠実なクロールで、可能な限り腰への負担を減らし、25mプール、クイックターンの姿勢に移行する。
怖かった。今も怖い。次の瞬間には腰が弱音と激痛を吐き出すんじゃないかと考えると、怖かった。
目が回りそうだ。一度きりの折り返し、前半部から後半部へのUターン。
ターンは苦手だった。また醜態を晒して、横から突っ込んできたダンプに跳ねられるんじゃないか。考えが泡のように浮かんでは弾け、目が回る。
――――ターンのコツ? さぁ、考えすぎなんじゃない?
小さく身を屈め、壁を蹴り、淡々と、順序立てて、やるべきことをこなしていく。
水中で俯瞰する、ほぼ並走だった。むしろ僅かに負けていた。
残りは直線、ただ水を掻き泳ぐだけ――負け犬は無様に逃げ帰らなければならない。
いつもそうだ。誰かの背中を追っている。置いていかれないよう必死だった。
その場に留まるためには、全力で走り続けなければならない。そんな言葉を思い出す。
けれど、どれだけ走っても前に進めないなら、一度立ち止まってしまった人間は、どうすれば先頭に追いつけるんだろう。一度負けた人間は、どこまでも負け続けるんだろうか。
きっとそうなんだろう。歩いても走っても、立ち止まっても逆走しても。こんなクソみたいなレースを誰が望んだのか。誰も望まずとも、続いていく。
続くんだ。
「――――――!?」
――かつて人類にとって最も正統な泳法はブレスト――平泳ぎだった。
だが年月を経るにつれ、ルールの盲点をつく新たな泳ぎ方が生まれていく。背泳ぎやバタフライだ。それらは正統なはずのブレストとはかけ離れていながらも、速かった。
それらを種目別に分けることでブレストの正当性は保たれた。が、クロールという泳法の登場が全てを変えた。他の全ての泳法を遥かに超えるそれは、自由形という正統な競技からブレストを追放し、以降、最速を求める者にとっての正統を得た。
自由形とは名ばかりに、その競技内容がクロール以外を許さないのは他でもない、クロール以上に速く泳げる泳法が存在しないからだ。
――――2000年シドニーオリンピック。リレーは接戦だった。
ところがゴール直前、歴史が変わった。彼はクロール――両手で交互に水を掻き、両足を交互に上下運動させる泳法を超えた。自由形に本物の自由を取り戻したのだ。
そのレースで、マイケル・クリムは400mフリーリレー、自由形の世界記録を更新した。
彼が取った泳法は単純だ。片方ずつ水を蹴るより、両足の方が推進力を得られる。クリムが取ったのはまさしくそんなバタフライの足の動き、ドルフィンキックだった。
けれども、新たな自由形泳法は理論上最速と謳われながらも、長らく実践する選手は現れなかった。理由もまた単純で、過酷過ぎるからだ。
事実クリム自身でさえ、直前十数メートルを泳ぐので限界だった。背筋と腰への負担が極端に大きく、体力を極限まで削るその泳ぎは、あくまで机上の空論に忘れられていく。
入江純一が現れるまでは。
俺はずっと彼の背中を追い続けていた。彼を完成形に、ラムネ瓶の思い出を夢に見る。
まだ遠く及ばない。全距離をドルフィンで泳ぎ切る彼と違い、俺には負担に耐え切るだけの能力はなかった。腰は慢性的に痛み、ついにはダンプに轢かれてラインを超えた。
今の俺が泳ぎきれる距離は精々、ターンを終えた残り半分――今だけだ。
一呼吸で並び、
次の呼吸の間に抜き、
息を吸って後方へと追いやる。
こんなどうしようもない、もどかしさの積もるレースでも。たとえ周回遅れで、どれだけ頑張っても追いつけないと分かっていても。何をしても無駄だとしても。
レースは続く。続いて、そしていつか、終わりのないレースを降りるんだろう。
ギブアップを叫ぶことだけが、この誰も見ていないレースのゴールなんだから。
けれど。
俺は、負けたとしても、負け犬なりに抗っていたい。
続くのだとしたら―――まだ、終わらせない。
……なまいきかもしれないけどさ。
――――壁をタッチし、諸々を吐きかけの腰を落ち着かせる。
平静を取り戻して隣を見ると、ちょうど涼太がゴールしたところだった。
「……涼太」
「ねぇ今の泳ぎ」
「陸に上げてくれないか? もう腰が限界で」
ついでに楓も手を貸してくれて、俺は無事陸上に打ち上げられた。ピチピチ跳ねる余裕もなく、仰向けに倒れ込んでぐったりと息を吸う。疲れた。痛え。一週間じゃ無理があったな。
息も絶え絶えに寝そべりながら、心配そうに顔を覗く楓に言う。
「どうだ、負け犬も結構やるだろ」
弱者の反撃だ。一矢報いれてたらいいんだけど。
「……遅いよ」
けれど彼女は、やっぱりそう言った。
「遅いんだよ……」
彼女はなぜか泣いていた。ボロボロと涙を零して、俺の頬を濡らしていた。




