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負け犬のくせになまいきだ  作者: 石山 雄規
二章 負け犬のくせになまいきだ (Make up for) lost time.
22/59

20話「遅いよ」

 順調な物事は淡々と進むものだ。三冠馬が五馬身離して悠々とゴールするように、大穴も大波乱も起こらない。波風立たずゆったりと、日は経過していく。


 一日、また一日と印を付ける。空の模様は夏真っ盛りの入道雲とスカイブルー。海よりも明るく青い空の色は、日に焼けて赤く染まっていき、月が昇って沈んでいく。


 晴れの日にドラマはない。波乱が起こるのは決まって、どしゃ降りの日だ。



   *



 大会前日、曇り空だった。海から吹く風が湿りを帯びて、昼にも関わらず目の前はどんよりとくすみ落ち込んでいる。日の退屈が降りてきたような天気だった。


 実際、天気予報によると昼から雨が降るらしい。台風にまるでなりきれなかった熱帯低気圧が北上してきて、適度な風とそれなりの雨を伴って上陸する。


 明日も控えるそんな日なのだから、当然水泳部は休養日である。ゆっくりと休み精神を集中させることこそ、大事な節目の直前には必要なことだ。それが正解だった。


「……………………」


 だから、俺が今やろうとしていることは、全くの間違いなんだろう。


 飛び込み台に腰掛けていると、錆びた鉄製の扉がキキィと鳴る。


「やぁ」


「……なんでいるの」


 涼太だった。誰も来ないはずの日に、彼は水着を履いてプールを訪れていた。


「偶然、会えると思ってな」


「邪魔だから出てけよ。止めてもやるから」


 そういう受け答えも全部、予想の範疇だ。


「止めないよ。ただ、一つだけ頼み事があるんだ」


「頼み?」


 冷静に思考するならば、きっと、この行動は全くの無駄で、意味のないことだろう。


 当時の俺と今の彼を重ね合わせて、自分でもよく分からない感傷に浸っている。


 ……いいや違う。言葉にしろ。誠実に。隠したい感情を曝け出せよ。


 俺はただ、負けたくなかった。ガキにも。自分の取れなかった栄光を掻っ攫おうとする少年に嫉妬して、間違った感情を、好きな泳ぎで誤魔化そうと。


 それはきっと、中途半端な遊びに過ぎないのだろう。


 回り道の遠回りで、決して必要とは呼べない寄り道なのかもしれない。


 だがどうも、俺は海に似ているらしい。


「俺とレースしてくれないか? 負けたら帰るよ」


 海に似て、レーンの外れに大切なものが落っこちている。


「……腰壊してるんだろ」


「まぁな。楽に勝てるって思うだろ」


「つまらないレースはしたくない。」


 ……つれないなぁ。


 ガキの時の俺みたいに、煽りに釣られてくれれば話は早いんだが。


 そう確か、あのとき彼はこんな風に言ったはずだ。


「――泳ぎ方を教えてやるよ」


「……心が折れてもオレのせいにしないでくれな」


 涼太は心底面倒くさそうに二の腕を伸ばし、柔軟運動を始める。


 ただ、さっさと終わらせたい意識か、あまり時間をかけずにぱっぱと次に移る。


「ゆっくりでいいぞ」


「怖気づいた?」


「レースには観客が必要だろ。喝采を浴びるには」


 少年の何言ってんだこいつ……みたいな視線を浴びながら、俺は再び扉が開くのを待つ。


 そしてちょうどそのとき、一人の女の子がプールサイドにやって来た。


「…………」


 楓だ。昨日呼んだ時間帯にちゃんと十五分遅れて来てくれている。ちゃんとな。


「会いたがってたろ?」


 楓は夏と小学生に相応しい白のワンピースを着ていた。自分は真っ白だと主張するような白さである。少なくとも、有罪判決を受ける被告人には、似つかわしくない色だ。


 彼女はぷっくらした一重まぶたで黙ったまま、そっと脇のベンチに座り込む。


 涼太も無言のまま彼女の方に歩いていき、目の前で立ち止まる。


「伝言、コーチからちゃんと聞いた?」


「あの、その……ご、ごめんなさい」


「……? ちょっと、コーチ。四文字すら伝えられないの?」


「う、まで伝えないところまで完璧に伝言したぞ」


「ならなんで泣きそうなんだよ」


「そりゃお前が――」


 ――言いかけて、気付く。


 俺は、少しだけ、いいや大分と、彼を捉え誤っていたのかもしれない。


 天才、けれど陰の努力家。皮肉屋、けれど根は素直。


「あの馬鹿が変な伝え方したみたいだから、改めて言うよ」


 どちらが彼の本当の姿なのか。それとも、どちらも彼自身を映したものなのか。



「――――プールの水抜いてくれて、ありがと」



 たとえば彼女への感謝が、皮肉ではなく、心からのものだったとしたら――――


「……ありがと?」


「うん。ありがとに、それ以外の意味なんてないだろ」


 つまるところ彼もまた、京都では生きていけない人間だった。


 彼の行動から思考を追うならば、それはおそらく『普通に、恵まれた環境で、当然の1位を取りたくない』に帰結する。それが天才の、普通でない何よりの証明だから。


 そうだとしたら納得がいった。彼が求めているのが何より、逆境だったのなら。


 そんな彼にとって、俺という存在はどう映ったことだろう。


 全国出場経験のあるコーチ、そんな存在は、きっと普通でなく恵まれている。


 そうでなくとも、腰に持病を抱えるような泳ぎ方のコーチから教わることがあるのか。


 未だ小学生。将来があって、通過点に過ぎないと豪語する大会に、何を思うのか。


 間違いなく、疑いなく。穿って人を捉えて、捻くれていたのは俺の方だ。


「……わ、ワッハッハ。礼ならば受け取ろう。くるしゅうない、見る目があるぞ」


 最も実害を被ったはずの少年からの感謝に呆気にとられながらも、彼女はハッと気付き慌てて厨二病モードで取り繕う。どうも彼女にとって、この言葉遣いは照れ隠しなのかも。


「これからレースなんだ。観客として、見ててくれないか?」


「なんで……」


 俺は黙ったまま楓を見つめる。彼女は悟ったように、薄く笑い答える。


「……分かったの?」


「分かったつもりには、なれたかな」


「……そっか」


 空は曇っていて、白く柔らかい布のように辺りを包んでいる。


 そんな微妙な気配を察したのか、涼太が俺に小声で「何の話?」と聞いてくる。


「黙って聞いてろ。女の話は黙って相槌打つのがベストだ」


「オレが聞きたいのは女の取り扱い方じゃないんだけど……」


「涼太君も、みんな兄ちゃんより遅いってこと。だから、引退するの」


 だから。


 他が遅いから、彼は引退する。そこにはどこか、傲慢と侮蔑の含みがあった。


 あの人らしいと思った。肉体的な衰えや後進の育成なんかよりずっとしっくりきた。


 でも。


「……だから。水泳も嫌いか」


「……みんな遅いよ」


 本当に――――腹が立つ。


「涼太」


「ん?」


「始めようか」


「やっと帰る準備が整った?」


「いや、全然」


 楓に合図だけ頼んで、俺たちは中央側の飛び込み台に向かい、ゆったりと足をかける。


 久しぶりの飛び込み台から覗く風景は、ほんの少しだけくすんでいた。


 淀んだ灰色で、生温かく湿っていて、強い風に波が立ち、ゆらゆらと揺れている。


 けれど。プールの水だけは、透き通っていた。


「よく見とけ」


 追い風は俺に吹いていた。それだけで、俺は充分熱くなれた。


 きっと、この気持ちが冷めることはない。


「必死こいて先頭を追いかける、負け犬の後ろ姿を」


 ――――そしてスタートの掛け声が鳴った。


 飛び込みは同時。音と重なるように勢いよく、踏み込み慣れた角度で着水する。


 飛沫が舞って、水面に落ちる音は既に聞こえない。潜水し制限一杯まで水の隙間を滑り流れていく。腰はまだ痛まない。


 浮上し、一瞬の合間に大きく息を吸って血液に酸素を取り込む。一瞬遅れて、隣からも水を跳ねる音が鳴り、その軽やかな音はすぐにザブザブと力強く、掻き分ける波に変わる。


 やる気は充分らしい。前日の調整用の流しじゃない、俺に完璧に勝つ気でいる。


 報いなくてはいけない。彼に。彼が俺に教えたように、追うべき背中を見せたように。今度は俺が、彼に背中を追わせなければならない。


 そして俺は泳ぎ始める。自由形短距離――ターンは一度きりだ。


 腕の振りは多少鈍ってはいたものの、怪我の影響もない。水を遥か後方へと追いやる際は出来るだけ遠く多く。宙を素早く通り水を潜り抜ける際は極限まで抵抗を減らしていく。


 推進力を得て水中を駆け抜ける。痛まない。痛くない。


 ――――痛く、ない。


 けれど俺は泳ぐ。小学生に教えた通りの基本に忠実なクロールで、可能な限り腰への負担を減らし、25mプール、クイックターンの姿勢に移行する。


 怖かった。今も怖い。次の瞬間には腰が弱音と激痛を吐き出すんじゃないかと考えると、怖かった。


 目が回りそうだ。一度きりの折り返し、前半部から後半部へのUターン。


 ターンは苦手だった。また醜態を晒して、横から突っ込んできたダンプに跳ねられるんじゃないか。考えが泡のように浮かんでは弾け、目が回る。


 ――――ターンのコツ? さぁ、考えすぎなんじゃない?


 小さく身を屈め、壁を蹴り、淡々と、順序立てて、やるべきことをこなしていく。


 水中で俯瞰する、ほぼ並走だった。むしろ僅かに負けていた。


 残りは直線、ただ水を掻き泳ぐだけ――負け犬は無様に逃げ帰らなければならない。


 いつもそうだ。誰かの背中を追っている。置いていかれないよう必死だった。


 その場に留まるためには、全力で走り続けなければならない。そんな言葉を思い出す。


 けれど、どれだけ走っても前に進めないなら、一度立ち止まってしまった人間は、どうすれば先頭に追いつけるんだろう。一度負けた人間は、どこまでも負け続けるんだろうか。


 きっとそうなんだろう。歩いても走っても、立ち止まっても逆走しても。こんなクソみたいなレースを誰が望んだのか。誰も望まずとも、続いていく。


 続くんだ。


「――――――!?」


 ――かつて人類にとって最も正統な泳法はブレスト――平泳ぎだった。


 だが年月を経るにつれ、ルールの盲点をつく新たな泳ぎ方が生まれていく。背泳ぎやバタフライだ。それらは正統なはずのブレストとはかけ離れていながらも、速かった。


 それらを種目別に分けることでブレストの正当性は保たれた。が、クロールという泳法の登場が全てを変えた。他の全ての泳法を遥かに超えるそれは、自由形という正統な競技からブレストを追放し、以降、最速を求める者にとっての正統を得た。


 自由形とは名ばかりに、その競技内容がクロール以外を許さないのは他でもない、クロール以上に速く泳げる泳法が存在しないからだ。


 ――――2000年シドニーオリンピック。リレーは接戦だった。


 ところがゴール直前、歴史が変わった。彼はクロール――両手で交互に水を掻き、両足を交互に上下運動させる泳法を超えた。自由形に本物の自由を取り戻したのだ。


 そのレースで、マイケル・クリムは400mフリーリレー、自由形の世界記録を更新した。


 彼が取った泳法は単純だ。片方ずつ水を蹴るより、両足の方が推進力を得られる。クリムが取ったのはまさしくそんなバタフライの足の動き、ドルフィンキックだった。


 けれども、新たな自由形泳法は理論上最速と謳われながらも、長らく実践する選手は現れなかった。理由もまた単純で、過酷過ぎるからだ。


 事実クリム自身でさえ、直前十数メートルを泳ぐので限界だった。背筋と腰への負担が極端に大きく、体力を極限まで削るその泳ぎは、あくまで机上の空論に忘れられていく。



 入江純一が現れるまでは。



 俺はずっと彼の背中を追い続けていた。彼を完成形に、ラムネ瓶の思い出を夢に見る。


 まだ遠く及ばない。全距離をドルフィンで泳ぎ切る彼と違い、俺には負担に耐え切るだけの能力はなかった。腰は慢性的に痛み、ついにはダンプに轢かれてラインを超えた。


 今の俺が泳ぎきれる距離は精々、ターンを終えた残り半分――今だけだ。



 一呼吸で並び、


 次の呼吸の間に抜き、


 息を吸って後方へと追いやる。



 こんなどうしようもない、もどかしさの積もるレースでも。たとえ周回遅れで、どれだけ頑張っても追いつけないと分かっていても。何をしても無駄だとしても。


 レースは続く。続いて、そしていつか、終わりのないレースを降りるんだろう。


 ギブアップを叫ぶことだけが、この誰も見ていないレースのゴールなんだから。


 けれど。


 俺は、負けたとしても、負け犬なりに抗っていたい。


 続くのだとしたら―――まだ、終わらせない。


 ……なまいきかもしれないけどさ。




 ――――壁をタッチし、諸々を吐きかけの腰を落ち着かせる。


 平静を取り戻して隣を見ると、ちょうど涼太がゴールしたところだった。


「……涼太」


「ねぇ今の泳ぎ」


「陸に上げてくれないか? もう腰が限界で」


 ついでに楓も手を貸してくれて、俺は無事陸上に打ち上げられた。ピチピチ跳ねる余裕もなく、仰向けに倒れ込んでぐったりと息を吸う。疲れた。痛え。一週間じゃ無理があったな。


 息も絶え絶えに寝そべりながら、心配そうに顔を覗く楓に言う。


「どうだ、負け犬も結構やるだろ」


 弱者の反撃だ。一矢報いれてたらいいんだけど。


「……遅いよ」


 けれど彼女は、やっぱりそう言った。


「遅いんだよ……」


 彼女はなぜか泣いていた。ボロボロと涙を零して、俺の頬を濡らしていた。

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