16話「俺は、物覚えが悪い」
「………………千秋は?」
「……スマホ置いて行きやがったな」
三十分ほど休憩を挟んだ後、ようやく冷静を取り戻した俺たちは、そういえば今泉が謎の失踪をしていることに気付いた。
しばらく園内を探し歩いたが、それなりに広く、夏休みで人もいるため、目のつくところには見当たらない。
「一人で逃げ帰ったか?」
「財布がないから出られないでしょ。迷子センターで放送してもらう?」
「いや、あれ以上恥を上塗りするのはな」
「構わないって。毒皿よ、自分で言ってたじゃない」
というわけで園内放送をかけてもらった。答志島からお越しの今泉千秋ちゃんを呼ぶ。
しかしけれども、彼女は一向に待ち合わせの観覧車前にはやって来なかった。
「どうしたのかな」
「まさか徒歩で帰ってるんじゃ……」
そう思いかけて、気付く。
出られないんだ。俺と泪が二人で待っているから。俺たちが仲直りするまで。
だがさっきまでに比べれば、少しではあるが距離は縮まりつつある。遊園地というテンションがそうさせてくれてるし、子供の頃のように気軽に話せもする。
……今しかないな。
「……観覧車、乗らないか?」
「観覧車ぁ? あんた、さっきの後で、よく高いところ、馬鹿ぁ?」
「ゆっくり回るし、上から見れば見つかるかもしれないだろ」
「…………分かった」
彼女が先行して乗り込み、ドサリと奥側の席を占領した。俺は黙ってその目の前に座る。
ゴンドラは地上を離れて浮上する。緑の生い茂った木々を悠々と追い越し、開けた景色は広がる水平線に並び立つ。回転する狭い個室は紛れもなく、二人きりの空間だった。
真夏の日中に照らされた車内は冷房が効いてなお、少し暑い。
「千秋、無理してると思わない?」
俺が切り出すより早く、彼女が話題を持ちかける。安全な車内だが、全面外が見える作りはやはり怖いようで、取手の部分をギュッと握っていた。
「でも、まだ一ヶ月も経ってないし。無理ないか」
「三浦比呂か」
「特に今日は空回ってる感じ。思い出の場所だったりするのかな」
そりゃ、俺と泪の仲を取り持つという任務に就いてるからだが、言える由もない。
「そうか? 俺には違いがよく分からんけど」
「そっか。あんたは普段の千秋を知らないんだった」
「四年帰ってないからな。あいつも昔は……」
「だから、知らないでしょ」
「……いたぞ」
話を逸らすように下を指差す。彼女は園内の裏側にあるベンチに座り込み、じっと観覧車を眺めているようだった。ゴンドラは時計回りにゴールデンタイムを示す頃合い。
「やっぱりさ、好きな人がいなくなるのって、すごく寂しいことなのかな」
「好きな奴が消えて嬉しがるやつはいねぇよ」
「変だよね。それとも、わたしとアンタを仲直りさせるために気を遣ってるから?」
……率先してゴンドラに乗り込んでくれるわけだ。
あぁ、言わなくちゃいけないことがあるんだ。そこから始めないといけないんだ。
「…………覚えてることが一つあるよ」
実直に、忘れていない記憶があった。細かな部分はさっぱりだが、確かに、俺にとって重要だったはずの、あまり遠すぎやしない、たぶん最後の思い出。
そう、最後だ。それ以来、中学卒業を折に四年間、俺はこの島に帰って来なかった。
それはとてもおかしな結果だ。上京して寮に入り、名門校で部活動に明け暮れたとしても、365日一切を練習には費やさない。帰省する。実際、うちの高校も盆と正月は休みだった。
けれど俺は盆も正月も帰らなかった。帰らず一人泳いでいた。随分な親不孝者である。
それと、俺は殆ど利用しないが、現代にはスマホという便利グッズが存在する。遠く離れていても電話やラインで繋がれる優れものだ。泪との思い出は中学卒業が最後。
それだけは、はっきりと覚えていた。そのために泳ぎ続けていたようにも思える。
そのことを思う度に、ただ胸が痛んだ。理解できない罪悪感が重たくのしかかった。
俺は帰りたくなかった。大事な幼馴染で唯一の親友、夏目泪に会いたくなかった。
そして俺は、島を出て上京する前日に、彼女にそのことを話していた。
とても無遠慮に、二度と顔を見たくないと。清々する。あぁ、嫌いだと。
そう言った。
「俺たち、喧嘩中だったな」
彼女も、俺と同じ言葉を吐いたことも覚えてる。大っ嫌いだと大声で叫ばれた。
「……なんでそうなったか、覚えてる?」
けれども。
凄く、肌に感じた湿度まで覚えている、鮮明な記憶のはずなのに。どういうわけか、肝心の部分がすっぽりと抜け落ちていた。何を言って何を言われたかは思い出せるのに、なぜそうなったのか――ベタを忘れた背景みたく真っ白だった。過程がない。結論だけ。
――――どうして、思い出せないんだろう。
「……一番にならないと、いけなかったんだ」
そんな気がした。多分俺は、誰より速く泳ぐために、彼女を切り捨てたんだろう。
彼女は俺にとって、とても大切で、重たくて、だから、邪魔だったから。
「……ねぇ」
気付けばゴンドラはとっくに最上階を通り過ぎていた。後は降りていくだけ。
「……なに」
「これから、どうするの?」
難題だ。これからだと。
「そうだな、今泉と合流して、気分転換にメリーゴランドでも」
しかし彼女が問いかけているのはそういう具体的なことじゃなく、もう少し漠然とした、曖昧な先の、近くて遠い将来のようだった。
「ずっと小学生のコーチなんてやってられないでしょ。また、東京行くの?」
「……俺は今の俺ができることをやるだけ――」
言うと、彼女は俺をじっと睨みつける。
――多分、嫌われてる理由は一つじゃないんだろう。
現実的に考えて、遅かれ早かれそうなるだろう。就職でも復学でもして、島を出ていく。
小学生に教えるためのリハビリに、どれくらいの意味があるだろうか。
誰かのためにはなるだろう。なら、俺のためにはなるんだろうか。
「負け犬じゃなくて、駝鳥ね。駝鳥症候群って知ってる?」
「は?」
「駝鳥はね、危険が迫ると、逃げずに頭だけ地面に隠すの」
一度はそのために他を捨てるほど夢を追っていた人間が。怪我をしても泳ぐことを諦めきれず、けれどエゴ丸出しにもなれず。中途半端な俺が、彼女の目にどう映るか。
それはきっと、ダメなんだろう。異世界にだって行けてしまうくらい諦めて映る。
「そうやって嫌なことから目を逸して、自分は大丈夫だって安心するの――本当はすぐ目の前に自分を食べちゃう猛獣がいても」
その時、彼女の口調に、あの時の思い出が重なったような気がした。
あの日、同じようなことを言われた気がする。
「昔と何にも変わってない。現実逃避してないで、さっさと行ったら?」
でも、意味が分からない。昔と変わらない? 今は分かるさ。関係ないガキのお守りに励んで、リハビリのためだとデートして。言い訳ばっかりだ。
それでも、昔の俺は違うはずだ。お前が嫌いだと叫んだあの日の俺は、目を背けてなんかいない。一番になるって目的のために、四年間一度たりとも帰らず練習漬けだったんだから。
俺は変わったんだよ。なぁ、変わっちまったんだ。
夢見てたはずなのに、今じゃ何を見てるんだか。
「今はっきりした」
「なによ」
「俺、やっぱりお前のことが嫌いだ」
なにも見ちゃいない。見たいとも思っていない。ピストルは既に鳴ったのに。
スタートとターンは苦手だ。いつも上手くいかない。
「遊んでる場合じゃなかったよ。俺が目指してるのは、一番だからな」
観覧車がちょうど一周し終え、扉が開く。
俺が言い放ち帰ろうとするのを、泪が後ろから声をかける。
「なんで?」
「……決まってるだろ」
どうしてそんな夢を持ったかなんてもう覚えちゃいない。覚えているのは、沈んでいく重苦しい感情と、開放されたかった向こう岸への憧憬。
そして、それらが今なお残ることだけ。
「俺は、物覚えが悪い!」
そう言い残して、俺はゴンドラを飛び降りて、ヅカヅカ遊園地の出口まで突き進む。
なんのためにここまで来たのかも忘れて、俺はもう一つの理由にぶち当たる。
泪の言った約束――彼女が待つ理由。一番になろうとしたのはなぜだったか。
「――ちょっと、深見くん!」
鳥羽行きのバス停前で呼び止められ、振り返ると今泉がいた。
汗ダクダクに走ってきたらしく、息を切らしフラフラと近寄ってきて、ビンタされる。
「なに勝手に解散して一人で帰ってるの!」
「……お前には感謝してる。でも、今日みたいに中途半端な遊びが原因なんだ」
「意味分かんない。好きなんでしょ?」
その不意の言葉に、俺はズキリと胸が痛む。
好きなんだろうか。今の俺は本当に、面と向かって楽しめているんだろうか。
「俺にも、よく分からないや」
「…………よく分からないのに告白してるの?」
「……誰に?」
「だから、泪に。付き合ってって」
「だから。リハビリ付き合ってって」
「……もう一回説明してもらえる? 一から順を追って、ちゃんと」




