10話「東京コンセント」
ちょっぴり感傷的になった俺は、ぼんやり散歩をすることにした。
夕映えの儚さを表現できる言葉を、俺は知らない。多分この世にはないのだろうと思う。
とても言葉に出来ない、空白を塗り潰していくような色をしていた。
『おじさんとおばさんに会ったら帰るからな』
『……うん。よろしくね』
泡のように浮かぶ思い出たちが、弾けてはまた膨らんでいく。
帰れないじゃねえか。このままじゃ。なんで帰って来たんだよ。
「あんにゃろ、隠しやがって……」
どいつもこいつも。俺に勝手な期待ばっかりして。俺を大層な嘘吐き者に仕立てやがる。
『夢を諦めるには、ちょうどいいじゃないですか』
『……知ってるか? 錦ってのは持ち帰るにはどうも、重いらしい』
あぁ知ってるよ。錦ってのは重苦しいんだ。ゴテゴテに着飾って、うんざりするくらい。
多分、確かに俺は、そういうものを置いていくためにこの島を出たんだから。
『帰るぞ。俺以外みんな心配してる』
『嫌です。帰りません。深見君は嘘吐きです』
どうでもいいことばかり素直になれない。
あぁ、そうだよ、俺だって心配だったよ。
言葉にすると、自分の想いを認めるしかなくなって、恥ずかしいんだ。
『アイスコーヒー代、420円』
言わなくちゃ、忘れちゃいけないことがあったんだ。
四年と半年、走馬灯にまで過る涙。忘れない。忘れられない。泣き顔ばかり憶えてる。
『ターンのコツ? さぁ、考えすぎなんじゃない?』
昔からターンは上手くいかない、切り替えが苦手なんだ。
『――――待ってるからね』
考えが泡のように浮かんでは弾けていく。沸々と湧いて、感傷の沼に引きずられる。
「…………」
…………あー、ぁー、アー。
俺は思いっきり胸いっぱいに息を吸って、目前に広がる海に向き直る。
そして力の限り、遠くまで響くよう大きく叫んだ。
「俺は! 泳ぐのが好きだ! 誰より速く泳ぎたい!! 今もそうだ!!」
大きく、ただ大きく呟く。
「まだ、全然物足りない! 不完全燃焼で腐ったままじゃ嫌だ!! 先頭を追うんじゃ満足できない! 周りに俺の背中を追わせたいんだ! 俺は! 俺の夢を諦められない!!」
俺の叫び声は反響することもなく、海以外に聞く人もなく潮騒に溶ける。
――これは、大きくも小さな叫びだ。自分だけに向けた、再確認のエールだ。
どれだけ恥ずかしくても、俺のスタート地点はここからだ。
ここから始めなくちゃ、俺はどこにも辿り着けない。
ゴールがどこにあるのか、どんなところなのか、どうやって行くかも分からないけれど。
それでも俺は次のレースに参加しなくちゃいけない。
でなければ置いていかれる。辛くても苦手でも痛くても逃げ出したくても、スタートを知らせるピストルは、今鳴った。
鳴ったんだ。鳴らしたんだ。俺が。自分で――――!
「うぉおおおおおおおおおおお!!!!」
大声を出してテンションの上がった俺は、勢いのまま海に飛び込む。ドーパミンでもドバドバ出てるのか、不思議と腰は痛まない。
久しぶりの海に、さらにテンションが上がり、俺は水飛沫を上げて泳ぎ始める。
――――最高だ!
「……ぐひぃん!……ふぐぅ……」
当然そんなのは一瞬のことで、腰はすぐさま悲鳴を上げる。あ、痛い。と気付きテンションの下がった俺は、なるべく腰に負担のかからない横泳ぎで岸辺まで戻る。
ずぶ濡れになった服を捻って水を搾っていると、不意に声をかけられた。
「なーにやってるの?」
俺はその声が誰かをよく覚えていた。数えるほどしか聞かない高い声、なぁ今泉。
「見りゃ分かるだろ。泳いでたんだよ」
「しばらくは泳げないんじゃなかったの?」
「そう、しばらくだ。もうじゃない。事実、俺はいま一瞬でも泳げた」
「……馬鹿みたい」
今泉はそう呟いて笑い、転がってる薄い石を拾い上げ、海に向かって不法投棄する。
…………っていうか、ちょっと待て。
「……さっきの聞いてたか?」
「さっきのって? 未成年の主張のこと? 泳ぐのが好きとか、知ってるって」
「あー! だ、誰にも言うなよ。マジで、絶対に言うなよ!?」
「それフリだよね?」
「いちごミルク買ってやるからさぁ!!」
おしるこになっちゃうなぁと楽しげに笑い、彼女は小さく小指を立てる。爪は綺麗に整えられて、スラリと伸びる。栗毛は夕日の朱と混じって鮮やかなオレンジ色に輝いていた。
「二人だけの秘密だね」
「……そういや泪は?」
「着替え取りに戻ったの。月曜から学校あるし勘弁してって言ったのに、全然話聞かないで予定入れられて。明日からしばらく京都旅行。まぁ、付き合うしかないじゃん?」
有言実行、実力行使。本当に信頼できる女だ。
「一人で旅行しても楽しくないしね」
「もう病は治ったか?」
俺が訊ねると、彼女はもう一つ、平たい石で水切りをして、明るい調子に言葉を並べる。
「恋煩いは、熱しやすく冷めやすいものなのです」
「よく分からんけど、よかったよ」
「深見くんには分からないよ。鈍いし、馬鹿だし。逆だもん」
「なにが逆なんだ?」
「ほら、馬鹿だし鈍い」
彼女は海を指さして、中学生の頃に地理で聞いたような話を口にする。
「いまの時間帯は、ちょうど夕凪。陸と海の寒暖差で陸風と海風が逆転する、折り返しの境界線なのです。陸に比べて、海は暖まりにくいけど、一度暖まったらそれが続く」
確かに彼女の言う通り、風はほとんど吹いていない。知らなかった。
「深見くんは、海みたい」
詩的な響きだった。笑っていいものか迷ったが、風が吹かないから止めておく。
「そうか?」
「そうだよ。いつもフラフラしてて、でもそこにいる感じ」
なんだそれと作り笑いを浮かべながら、俺は、彼女に伝えるべきことを思い出す。
それはもしかすると、もう必要のないことなのかもしれない。むしろ余計なお節介で、すっかり割り切った彼女からすると、耳にしたくない話なのかも。
「……彼氏さんに会ったよ。多分、お前と別れた夜に」
俺が言うと、彼女は海にやった目を少しだけ俯け、海岸線をぼんやり見つめる。
「……なんて言ってた?」
「下手くそな曲、歌ってたよ。本当に下手くそだった」
あんまり下手くそで耳塞いでたのに。だからかな、逆に印象に残っちまったんだ。
Fコードも押さえられず、すげー単純なコード進行で、あぁよく覚えてる。
ちょうど――そう、ちょうどこんな感じの歌だった。
俺はコードを押さえる真似をして、あの日聴いた失恋ソングを再現する。
「――お聴きください。昨日寝ずに考えました。曲名は――東京コンセント」
その歌は、紛れもなく彼の渾身の一曲だったのだろう。
そうでなければ、こんなダサくて意味の分からないタイトルはつけない。
エアギターと口でジャカジャカと、馬鹿みたいに空を切って歌い出す。
夏の曲だ。音楽なんて全く知らないが、妙にキャッチーで明るいコード進行から始まる。
爽やかで吹き抜ける風を感じさせるような、そしてどこか、そんな夏を諦めているような。
バブルの弾けた90年代ドラマさながらの、切なさの漂う、そんな夏の終わりのポップス。
歌詞は、本当に才能のない人間にしか書けない、くだらない全力投球だ。
ありふれまくって逆に珍しいくらいの、ありふれたフレーズの連発。
陳腐な「君がいなければ光れない僕は東京のWindow Light」に。
繰り返される「そう思っていたのは僕だけだった」
「変わらない京王線からの街並み」と「これ以上僕と君の間の関係性は延ばせない」
歌詞の半分くらい、僕と君で構成されている。
「お互いを繋ぐ絆というコードは、二人でなきゃ押さえられない」
それは実際、僕と君の二人だけの歌なんだろう。たった一人に向けたラブソングなのだ。
「君のところに帰って充電したい。君だけが夢追う僕の――コンセント」
――俺は下手くそな充電期間を歌い上げ、彼女は黙って聴き通す。
黄昏刻は終わり、藍色が茜色を追いやって夜が始まる。
彼女の栗毛は少しずつ落ち着いた色合いを取り戻して、気温差に海風が吹き抜ける。肩より長い髪はふわりと舞い、左目尻の泣きぼくろを隠すようになびき流れていく。
隠れていても、夜がどれだけ暗くても分かる。
「ほんと……下手な歌…………」
海は何も語らない。そこにあって、白い模様を波間に浮かべて、ただ聞いている。
とても静かに、とめどなく溢れる涙を、緩やかに寄せては返す、波の音の隙間に溶け込ませて、永遠のあり方を奏でるように流れていく。揺蕩う月を海に映して。




