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黒の囲い 1

作者: ぜん

もうすぐその時がくる。

いや、まだその最後の時はこないかもしれない。

でも、もうきてしまうのだと思う。

いや、それはまだ先のことかもしれない。

考えてみればとても恐ろしくもあるし、これで僕は今までよりもわずかな幸せを手に入れられるのではないかと、期待している気持ちもある。真っ白な囲いに覆われた空間に逃げてきて、あれからどれ程時が流れたのだろうか。乾燥し、白くなってしまった左手で自分の髪の毛を触ってみると、確かにこの前に触れた時よりも伸びている実感はある。しかし、それは手に触れた髪の感触だけによる判断であって、この空間に空間と呼べる以外、物質は存在しない。自分を自分の目で確かめる方法は存在しないのである。

そして何よりも、「この前」というのは一体いつのことを指しているだろうか、僕にもわからない。

きっと、ここに逃げてくるまで存在していた世界には、時間という、誰もが共通に認識している基準が存在したはずであったが、この空間には、あの一秒一秒を刻む忌々しくて、正確な間隔で僕の精神を追いつめてくる不快な音はない。

唯一、時間の経過を僕に伝えてくるものがあるとしたら、それは少しずつ黒みを帯びて、

後にこの清潔な白色を闇に染めてしまうだろう可能性を秘めた、壁の変化だけである。


当初、僕がここに逃げてきたころには、このような落ち着かない闇の浸食などなかったはずだ。

あったのは、清潔な空間と、それが僕を包むことによって、僕のとても小さな心の中に生まれた安心感と根拠のない余裕だけだった。

ここにいれば恐ろしいことなど一つもない。そう確信したのだ。

しかし、なぜだろう。

いつの時からか、壁の隅に黒いカビのようなものが起きているのを見つけた。

最初は埃か、それとも僕の思っていた通り、カビなのか、だとしたら少し嫌だな、と軽く構えていた程度だった。


僕は広い白の中の小さな黒さえ存在を許すことができない性格だった。この空間に対して信頼を置けると確信したのも、囲いがそれぞれ垂直に接していて、決してほんのわずかな空気がここから漏れるような心配はない、と囲いを沿って確認したからなのであった。

常に完璧を求めていたことで、ここに逃げてくるまで安心したことなど一度もなかっただろう。


それからしばらく時が経った、と思う。やはりここには時間を正確に表す基準となるものがないので、僕の考えるに、時が経ってのことだ。

囲いの隅にはびこっていた、カビのような黒色が少し広がった。

黒色が広がったことを共有し、脳みそをくっつけてこの事実に関して考えるような仲間が昔にはいたような気がするが、今はもうここにはいない。ここにいるのは僕だけであって、信用できるのも、僕と僕を包んでいるこの囲いだけだ。いや、もしかしたら、彼らと時を過ごしていた時の僕も、すでに自分しか信用していなかったように思われる。


黒いカビのようなものが広がったように思われたとき、僕は脳みそが腐り始めているのではないかと感じた。ここに逃げてきてから、以前のように、何かに対して深刻に考えたりすることはなくなったし、そもそもその必要がここにきてからはなくなったからだ。脳みそが腐っているのは身体的な影響であることには違いないが、病は気から、というように、身体的な影響は精神的にも影響するものだと、これまで安心感に包まれたことでつい忘れてしまっていた彼らのうちの一人の言葉を引用しながら久々に思索した。

しかし、脳みそが腐っているという仮説は間違っていると、あっけなく僕がその黒みを帯びた部分に左手で触れたことで判明した。

事実、囲い以外に何もなかったのである。

白も黒も囲いを構成している一部であるということには変わりなく、それはこの囲いにとって当然であるかのように感じられた。むしろ白は黒の侵入を許容しているようにも思われた。

驚きはしなかった。代わりに呆れた。

安心感を今まで与え続けくれたこの囲いに対して突然の嫌悪感を抱くとともに、僕は裏切られた気持ちになった。「なんだ、お前もなのか」というふうに。

完璧を求めてきた僕の人生を皮肉るような態度であった。

考えすぎなのかもしれない。

いや、考えすぎなのだ。


何もしない時が流れた。しかし安心感を得られないまま何かをしていた時よりはよっぽどいい。

僕は僕の周りから向けられる視線を常に恐れていた。

目は口ほどに物を言う。全くその通りであった。

とはいっても、僕は周りから発せられるナイフのような言葉にも襲われ、鋭い切り傷だらけの醜い姿になっていた。

何とかして自分を守りたかった。

ある時、それはドロドロと粘り気を帯びた溶岩に下半身がほとんど埋もれかけていた時、ついに僕はその重圧に耐えることができず、文字通り、精神的に大規模な噴火をしてしまった。それは向こう見ずな噴火であったために、きっと優れた地学者でも予想できなかった事態だろうし、余程勤勉な気象予報士であったとしても、その後の災害を予測できる者などいなかったのではないだろうか。噴火とともに蒸発したのか、それとも細かく割れてどこか二度と戻ることのできないような遠くへ飛ばされてしまったのか、噴火後の僕には正気というものが失われていた。

それからの記憶が断片的になってしまっているのも、正しく生きようとする気力、社会に従順に生きようとする気力がそれ以上なかったことを証明しているようだ。噴火後には、必ずと言っていいほどその場の雲行きが怪しくなる。

この場合に関しても、例外ではなかった。

ふと、空の存在を長いこと忘れていたかのように上を見上げてみれば、雨が降りそうな灰色の重い雲が頭上にのしかかっていた。これからの天気予報を自分なりに予測した後は、僕がここからいち早く逃げ去るべきであることを悟った。

正気を失った足は疲れを知らなかった。

僕は走り続けた。

息が上がらなかったのも、大切なものを失っていたからなのだろうか。

しかし、当てもなく走り続けてしばらく経って、横目で追い越していく景色が一様に同じであることに気づいた。それも、森の中を走っていて、特徴のない木々を観ながら走っていたようではそう感じることもあるだろうが、右を見ても左を見ても、また前を見ても景色が真白であるのならば、疑うべき状況であるに違いない。足を止めて、後ろを振り返ってみると、もうそこには白い囲い以外、何もなかった。まるで僕が走っていたすぐ後ろでこの囲いは僕のことをつけてきていたかのように、手を伸ばせばその平中で触れることのできるほどの近さに、その囲いは存在していた。僕は、自分でも不思議なことに、この状況において不信感といったたぐいの感情を、一切呼び起こすことがなかった。代わりに安心感が生まれたのである。そして今までずっと息を止めていたかのように、安心した瞬間、急に息が上がり、今まで薬を使用していたかのように感じなかった倦怠感が僕を襲ってきて、ふらりとその場に崩れてしまった。囲いと出会うことはきっと必然的であったのだろう。四方がムラなく塞がれたとき、つまり、僕だけの空間が完成した時、幼いころ我が母に抱かれたときのようなその温かい安心感を懐かしく感じた。僕はその囲いに囲まれた状態で、今までの拘束から解き放たれたように、好きなだけ脳を休ませた。




自分の殻に閉じこもる、という言葉からインスピレーションを受け、描いた短編小説。

人間性の腐敗とその過程を描いた。



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