STORIA 84
先日、描きに行った帰りに僕はまた新しい気に入りの場所を見付けていた。
この間は哀しい色が生み出す作品に心を捕われ懸命に描いていたけれど、折角存在する暖かみのある色をもっと生かして表現してもみたい。
清んだ虚空の遥か下方に位置する地上を、足早に駆けて行く。
樹木が作り成すリーフロード。
葉身の透き間から零れる陽射しはこの躰を穏やかな世界へと誘いに来る。
自身の中に見えた優しい空間。
ゆとりの兆しだ。
この並木を抜けると目指す物に出逢える。
僕にとって描く時間は幸福の至り。
だけど、こんな風に描写の舞台となる地へ足を走らせる瞬間も好きだ。
体内に宿る目的意識に、今この時だけは杞憂や昏迷といった物は見え隠れしない。
母の余波に想い煩う自身の姿さえも、沈み消えて。
鮮やかさを残す、吹き寄せられた葉が覚束なげな感情を解き放し、僕の心意に眠る創作意欲を掻き立ててくれる。
七曲がりの傾斜を急ぐと、この躰よりも素早い速度で羽ばたく燕の逆落としを目にする。
高台へと上がり、僕は風の音吐に応える様に呼気を緩めた。
選んだ光景は至妙その物だった。
見渡す限りの壮麗な景観。
傾げたこの視軸の行方を追う様に、空を泳ぐ風が一足速く水面へと降り急ぐ。
仄かに感じ受けた魚影の水鏡に創作に逸る想いを抑えながら、足下に画材一式を降ろした。
絵筆を染める間は急がずに確実な方がいい。
描きたい物は決まっている。
僕は口を緘したまま、描写の対象となる物を見据えていた。
今はただ陽が生み出す、素直な景色が届けてくれる世界を描き続けていたい。
以前の様に瞳の奥に潜んだ心が哀しみを映し現す情景でもなくて。
あるがままの姿で。
蘭、君の事も信じていられる様に。
視線の先には空の碧。
僅かな望みを残している。
凜とした表情の中に清んだ彼方の色。
人の心も空も結局は同じだ。
どれ程、暗雲に覆われた未来をも潰すかの様な気配の漂う、先の見えない暗褐色が世界を呑み込んでいたとしても、類似した状況なんて長続きしやしないんだ。
分かり切っていた筈なのに……こんな事。
日常の中、当然の事の様に認識していた。
"人生に於いて苦しみと幸福は均等"
"闇の先には光が必ず控えている"
"明けない夜はない" 、何分の慰み言葉。
それでも行くべき道の足下を阻まれた途端、こんな時程、使い古された言葉の意味の深さを知る事はないのだと想ったんだ。
僅かな希望が存在するなら、ただそれが嬉しくて。
望みという真実がこの心にとって唯一の支えで。
僕の視線上を泳ぐ淡く途切れそうな光。
強く、その表情を露にしていた姿は、流れ着いた幾つもの雲によって今にも隠されてしまいそうだ。
暖かな陽射しが零れ落ちては、大気に浮かぶ粒子の影に吸い込まれていく。
二つの顔が交錯する。
この躰に届く温もりは何処か頼りない物なのに、確かにその役目を果たしてくれている。
絶望へと陥ってしまった時、胸中に眠る仄かな希望の色はこんな空の碧さに近いのかも知れない。




