STORIA 74
今は未だ描きたい物に出逢った訳でも、自分が本当に表現したい物が何なのかも、確かな形として生まれてはいないけれど。
確りと手にした筆をただ離したくはなかった。
そして今は徐々に、本当に僅かではあったけれど、深い想いを込めた心で用紙に色を露にし始めていたんだ。
風が頬の際辺りで緩やかにカーブを描き優しく通り過ぎていく、そんな時には妙に落ち着いた気持ちでいられた。
接点の薄れた母の姿が心に現れる事は余りなく、彼女の面影に苦しむ自分さえ朧げに褪せ始めている。
彼女から受けた過去の傷は引き摺り起こしてまで考えない様に、心を固く閉ざしていた。
僕は時折、心に亡くなった右京さんの姿を呼び戻す。
褪せて行く命に願いを託す事も為せなくなった現実に、その目が見ていた物は何だったのだろうか、と彼女の目に替わって感じてみたいと想う事がある。
あの人には澄み渡る空の碧さでさえ、灰の様に薄暗く重みを感じる物であったに違いない。
死を認識した老体が目にする物は、綺麗な景色にさえも憎しみを抱いてしまう物だろう。
暖かい空気も彼女の躰を蝕む毒の一部分にしか過ぎなくなって、普段は優しさだけを含む存在物が敵か味方かも分からずにあの人はただ、天から差し降ろされる道標を待っていたんだ。
僕はそっと瞼を閉じて、命の途絶えた右京さんの傷みを自分なりに感じ取ろうとしていた。
姿を失った老婆の、今も何処かで宿る魄が持つ瞳に僕の心を預けてみる。
死んだ人の魄なんて何処にも存在しない。
きっと探しても見付かる訳もない物なんだ。
それにそういう物をすぐ信じる宗教団体なんてのも大嫌いだ。
だけどあの人の"死" を記憶が眼の辺りにする度に、僕は自分の取るべき判断が原因で身近な誰かが消え逝く瞬間を目にした事実から逃れていたくて、右京さんの心だけは今も何処かで動き続けている……、なんて独り信じてみたくもなるんだ。
目を開くと瞼を降ろす前と変わらない空の色が光を誘い、僕の瞳の奥を射し照らす。
他人の心を感じ取ろうだなんて、簡単に出来る物じゃなかった。
だけど明日、もし僕があなたの様に僅かな命しか残されていないのだと告知されたなら……。
その意味の深さを、深刻さを躰全身で感じてみようとする。
右京さんの傷みを遠い感覚で他人の苦しみとして無理に受け止めるまでもなく、傷みは自然とこの体内に流れ込んで来る。
僕にも一度だけ、彼女が抱く傷みに近い物を味わった事があるのだから。
事故でこの躰が数メートル程弾き飛ばされた直前の、肌も震え上がる様な感情を想い出してみる。
怖くて、血で染まる見慣れない風景に目を逸らしたくても視線一つ動かす事が出来ず、死を初めて近くに感じた僕が見た哀しい色は真っ赤に埋め尽された形状のもの。
悲しみをふと色によって露にしようとした時、どれ程心を動かし突飛な発想を生み出そうとしても、苦しむ程に僕の心は表面で考え抜こうとするだけ。




