STORIA 68
こんな風に楽な現実を躰ごと実感してしまうと、やっぱり僕はこのままで良かったのかなとも想う。
今はもう、楽な道を進む事しか想い浮かばない。
この信じ難い下落した道を打破する方法なんて考えたくもない。
もう暫くの間は自分を見詰め直す期間だとでも託けて、世間から目を閉ざしていたいから。
それに僕が働かなければ、世話になる相手にも要らぬ迷惑を懸けずにも済む。
僕が誰に出逢う事も求めず独り心も開かず、言葉も吐かずに塞ぎ込んでいれば哀しみにも辛さにも縛り付けられずに生きて行けた筈だったんだ。
何も知らずに限のなく広いこの土地に、小さな呼吸だけを操って。
認めて貰いたいとか願おうとする心なんて、想い起こさない方が利口なのかも知れないね。
だってそれだけで口論が生じたり、その人との関係が捩れる引金になったりするのだから。
相対する人物が一人存在するだけで。
何方かが感情を抑えていれば、経験しなくてもいい筈の哀しみを事前に避ける事だって出来る。
それを僕がすればいいんだ。
僕が全てから自分を押え込んでしまえばそれで良かったのかな。
伝えられないもどかしさがどんなに悲しくて淋しい事か分かっている僕だけれど、そんな自分だからこそ我慢する事にも慣れていた。
それでも感情を持つ生き物である僕には、母や蘭に願う想いを結局は抑制出来ず、自分が人としてここに居る事さえも煩わしい物に想えて仕方がなかったんだ。
辛い人間関係に触れる事もなくて母の冷酷な心からも解放された現実は、待ち望んでいた穏やかな日々を取り戻せたと言っても過言ではないだろう。
何処から映しても平穏な生活像、見た目にはね。
だけどその心に得る物は、薄暗く淋しい現実ばかり。
安らぎと閑けさを手に入れた僕は、有無言わず孤独という引き換え札を受け取らなければならなかった。
それを承知で人の心を受け入れない自分を認めていた。
自分が働き掛ける事がなければ当然、情報を知る術も知らない。
心を閉ざす事を選んだ僕は想いの外、失う物の大きさの意味を知った。
こんな風に決められた範囲内だけで何処か心も定まらず、無音の状態に時を重ねていると時間という物が存在しているのかさえも分からなくなる。
僕を包む空気に心が麻痺しながら、音のない呼吸に自身の感覚だけを確かめていた。
母はもうずっと、僕を突き放したかの様に言葉一つ投げ掛けて来ない。
だけど彼女の視線は今まで以上に冷え切った物だった。
三度の食事も相変わらずの物で、僕の為に手料理が用意されているという事は決してなく、華一輪飾られていない食卓には愛情とは程遠い光景が溢れている。
テーブルには母からの無言の伝え事。
そこには二枚の紙切れが置かれているだけだ。
僕と彼女の会話を省く為に差し出された物。
温かい想いだけが、何処かに削ぎ落とされてしまった紙幣。
それで好きな食事を済ませろという意味が含まれていた。
食事の時間が訪れる度に、彼女は自分の財布から適当な額を抜き取り、テーブルの上に差し置く。




