STORIA 49
僕は瞼の際から光る細い糸筋を流す。
自分でも意識していたのか分からない位に頬に微かな跡を残して。
彼女の消えてしまいそうな心や、何も出来ない自分に対して悔しさを抱いていた訳でもなく。
視線を何処に置く事もせずに、瞬き一つ失った色のない瞳で。
ただ立ち尽していた。
僕の掌に隠れていた呼び出しベルは音もなく彼女の寝台へと滑り落ちる。
出来ないよ。
僕には微かな可能性に望みを託す事なんて出来ない。
右京さんの指先が希望を棄てる事なく叫び続けていても。僕にはもう見届ける事しか出来ないんだ。
僕は今、心が何もない空白の世界に置かれているみたいな感じだった。
この心に染み付く自分以外の者を気遣う優しい心に独り、置き去りにされ理性と本音、二つの感情が見事に分かれる。
ここにあるのは人間としての本能だけ。
右京さんの体が僕の視界に反応してただ、そこに存在する物を息を調え見据えているだけだ。
何も考えず立ち尽して。足が疲れたなら僕は座るだろう。
目に映る無惨で可哀想な老人に流す涙もなく。
硝子の向こう、奥深い暗闇に悪酔いする。
ここに居る僕は何……?
自分の心が分からない。
想いの片隅に何を抱いているの。
そんなに冷たい心で。
心が行方を晦ます。
僕はもう考える事が面倒になっただけなのかも知れない。
だから無に返って子供の様に何も感じたくはない。
なのに僕の胸で聴こえるこの哭声は何。
胸の奥でギシギシと歪みの声を上げている。
それは右京さんの姿に向けられた僕の本能の音なのか。
悲しいのだろうか……、衰弱していくこんな老人の姿を見ている事が。
病室の少し開いた窓の奥から微かに湿った草の匂いがした。
見ると小さな雨粒が地表を叩き始めている。
彼女のそばを離れ、僕は敷かれたカーテンを大きく開け放った。
雨は徐々に降り足を速める。
僕は窓から顔を出し、上空から溢れる雲の涙を受け止めていた。
それは弱く儚い者の想いが姿を変えたかの様だった。
頬に掛かる雨は僕の涙を綺麗に洗い流してはくれるけれど、悲しい想いまでは注ぎ落としてはくれないんだね。
こんな風に地上から降り注ぐ雨粒を見ていると、とても不思議な感覚に陥る事がある。
自分の体の周りだけが繊細な何かで囲まれてしまった様なそんな感じだ。
何処へ進んでも水の囲いを切り裂く事が出来ない、僕にとって何故だかいたい程に孤独を感じる空間でもあった。
だけど眺める空の果てに滴が降りる、その原点は何処にあるんだろうかなんて降り始めの瞬間を探して見たくもなる。
過去にもそんな目で雨空を見上げていた事があったんだ。
だけど今夜の空気は僕には余りにも冷た過ぎて……。
動かぬ指先に僅かに彼女の呼吸だけが残る。
右京さん、あなたは今、何かを想っているのだろうか。
哀しいね……。
こんな夜は溢れ来る涙を止めもせず空を眺めているだけしか出来ないなんて。
廊下の片隅から小さな音を伴い誰かの気配が近付く。




