STORIA 42
あの頃に帰りたいのか、何を想っているのか……。
何かに心打たれる事がこんなに怖いなんて。
それでも僕は人として未だ何かを想い続けている。
頬に暖かな陽の光を感じた。
朝陽には人を迎え起こすという以外に、心を正気に戻す効果もあるのだという事にも気付く。
昨晩の感情が陽射しによって冷却されていく。
虚ろな瞳で体を起こすと、向かいで眠っている筈のお姉さんの姿はなかった。
視線を奥隣のベッドに移すと右京さんをじっと見守る彼女が目に映る。
「どうしたの」
「右京さんの様子が気になって。何だか呼吸の速さがいつもと違うみたいで……。さっき看護婦さんに来て貰ったけど、取り敢えずは大丈夫だからって……。でも……」
彼女は右京さんの手を取り心配そうに握り締めている。
僕はその様子を無駄な映像でも眺める様に見ていた。
「そんな事は看護婦に任せて置いた方がいいんじゃないの」
「そんな……、私はただ……。酷い、そんな言い方……」
彼女は今にも泣き出しそうな口調で言った。
「ごめん……」
確かに右京さんの容態はいつもと違う雰囲気が漂っていた様にも想う。
だけど想い過ごしかも知れない。
それに僕達は素人だから他人の痛みに必要以上に頭を悩ます事なんてないんだよ。
僕の昔の知り合いだった人なら迷わずこう言うね。
"他人を想い遣る暇があるなら自分の事でも考えてろ" ってさ。
ま、もっとも僕の場合、余所様に心を注ぎ込む程お人好しでもないけれど。
「うん、大丈夫みたいね。血圧も脈拍も正常よ」
右京さんの腕から測定器を外し看護婦は言った。
右京さんの呼吸はこの間とは打って変わって穏やかだった。
穏やかなんて好い言い方をしているだけの事だけど。
本当は嵐の前の静けさと言った方が正解かも知れない。
お姉さんは心做しか機嫌が良かった。
「この間はごめんね。不愉快にさせる様な事言って……」
「何でお姉さんが謝るの。僕の方が酷い事を言ったのに。ごめん」
僕がそう言うと彼女は首を振り優しく微笑む。
「でも右京さんの具合、確実に良くなって来てると想わない? きっとすぐに治るわ。佐倉君もそう想うでしょ?」
「そうだね……」
この間の様に彼女の瞳に涙を誘う言葉は禁句だと、敢えて冷めた発言は控えた。
何事もなく進む時の針に夕陽が一日の終わりを告げ始める。
病室も消灯の時刻を迎え僕は寝床に横になった。
お姉さんは最近よく、この時間帯になると歌を口遊む。
よく聴く小節だ。
小さな音で鳴り響くメロディーが暗闇の深く重たい空間に、はっきりと谺して僕の聴覚に忘れられない物として蓄積されていく。
夜更けに聴くこの音色は何処か僕の醜い感情を洗い流してくれている気さえして、痛み止めに口にした薬品がまるで魔法の眠り薬の様に変わり始める。
僕は奥深く瞼を閉じる事が出来ていたんだ。
何処か聴いた事のあるメロディーに安らぎさえ感じて。
「佐倉君、見て?」




