初登校
外へ出ると、青々とした草木、風で舞い散る桜の花に、目を奪われ、自然と足がとまってしまった。
今日から、この道を通うのか。なんだか、わくわくしてきたっ。
両手を胸の前で組み、まっすぐ腕を伸ばして、そのまま上へと持って行き、大きく伸びをする。それから、胸いっぱい空気を吸い込み、春の香りを満喫。
このまま、何時間もここにいれそうな気がするよっ。
……って、いかん、いかん。学校に向かわないと。まだ、マンションから、十メートルも進んでない。
とりあえず、足を動かさなくてはっ。
歩き始めて五分後、ドクン、ドクンと激しい心臓音。
あれ? 中学時代、バスケットをやっていたから、この程度の運動じゃ、心臓への負担は、ないに等しいはずだけど?
何故だろう? うっすらと汗もにじみ出る。
今日は暑いけど、夏というわけでもないし。
何なのだろう? このドキドキは?
わくわくがドキドキに変わったのだろうか?
いや、違う。そういう感情じゃない。
あるいは、ちさ姉への恋が今この瞬間に芽生えたとか?
いやいや、ちさ姉への愛は私が生まれた時から持っているし。
んー、なんだろう?
考えながら両腕を組み、二の腕をつかむ。
ん? 両腕を組んで、二の腕をつかむ?
……はっ、私、今、両手に何も持ってないじゃん。
いわゆる、手ぶらじゃん。
この汗は冷や汗のあぶら汗だったの?
もー、入学式早々なにやってんの? 私っ。
中学三年の時は、置き勉だったから、全然違和感なかったよっ。
はやくかばんを取りに行かないとっ。
来た道をダッシュで戻る。
家の周辺に着くと、私のかばんを持ったちさ姉と、マドが歩いていた。
マドは、私を視認すると、いやらしい笑みを向けてくる。
息を切らして走った私にちさ姉が大丈夫ですか? と聞いてきた気もしたが、それに答える余裕もない。
ちさ姉は首をかしげながら、ぽつりと何かを呟く。
「――場――ってないはずですが――でしょうか?」
よくは聞き取れなかったが、今は、遅刻しないことが先決だっ。
かばんをちさ姉から受け取り、学校に向かって走り出した。
走る――走る――ただひたすらに――メロスのように――
いい感じに体も温まったっ。もっと、スピードをあげよう。
……と、思った刹那、ずきん。
足下に痛みを感じる。まさか、ひねったか?
……いや、違う。これは、足裏の痛みだっ。
どういうことだ?
冷静に痛みの原因を探り出す。
そうかっ。ローファーだ。この履物、靴底が薄いから、スピードを上げると、着地の時のエネルギーが、直に伝わってくるんだ。走れば、走るほど、ダメージが増えていくっ。
今まで、ランニングシューズとかバスケットシューズとかスポーツ系の靴しか履いたことなかったから、分からなかった。
今度から、遅れそうな時は、運動靴を用意した方が良さそうだ。
スピードを出し過ぎて、足を痛め、走れなくなって遅刻なんていったら、それこそ元も子もない。
痛みをぎりぎり我慢できるペースで走ろう。きっと、そのスピードが最高速度だ。
はぁ、はぁ。結構走った気がするが、まだ、中間地点位か。
この調子だと、遅刻するっ。
入学式早々、遅刻したら、
『美穂ちゃーん、入学式に遅刻なんて、前代未聞だよ。しっかりしてよね』
……って、マドに馬鹿にされるっ。
マドに馬鹿にされるだけならともかく、マドに触発されて、ちさ姉まで、
『美穂さん、姉であるわたくしまで恥をかきました。美穂さんとは絶縁です』とか言われちゃったら……
家で誰も、私をかまってくれなくなるっ。そんなの嫌だよっ。
絶対、遅れちゃ駄目だ。
遅れちゃ駄目だ、遅れちゃ駄目だ、遅れちゃ駄目だ、遅れちゃ駄目だ!
心の中で呪文のように唱える。
もう、足の痛みなんか、かまっちゃいられないっ。
全速力で走る、走る、走る――
あっ。信号が。赤に。
こんな時に限って――
息を切らしながら、あたりを見回す。生徒らしき人影は見当たらない。
うわっ。これって、かなりのピンチ?
遅刻は断固阻止しないとっ。
歩行者用のボタンを連打する。
変われ、変われ、変われ、変われっ。
なんで変わらないんだよっ。
頼むから変わってくれよっ。
待ち時間の数分が悠久のようだ。
変わったっ。
青になった瞬間、全速力で駆け出した。
学校の目の前まで到着。腕時計で時間を確認すると、八時五十七分。
まずいっ。こういう時は、中学の時の男子が使ってたおまじないを使うしかないっ。
集中して――
時よ止まれ。この、世界。
私が思いを込めている最中、ピリリリリリ……私の携帯が鳴り響く。
ポチッ
何を思ったのか、そのコール音に出てしまった。電話の向こうからは、
「無駄な抵抗はやめて、さっさとお家へお帰りなさい……」とマドの呼びかけ。
無駄な抵抗? なんのことだ?
遅刻しないために走ることが、無駄な抵抗だとでもいうのか?
わけが分からないので、電話を切って、また走ることに集中した。
薄ピンク色の校舎が近づいてくるにつれて、私の動悸も激しくなる。
携帯のコール音がまた鳴り始めていたがそんなの、無視っ。
八時五十九分。何とか校門までって……
え?
校門が開いてない。
黒い柵は開かれることなく、私の行く手を阻んでいる。確認。
なんで? なんで?
ピリリリリリリ……
さっきから鳴り響いている携帯電話にでる。
「だから『無駄』だって言ったのに……」
マドがキャキャっと笑いながら言う。
「はぁ、はぁ……どういう……こと?」
息が切れて、言葉が言葉にならない。
「まあ、知らないのも無理ないか。うちらの学校の式典は、午後からしかやらないんだよ。入学式はもちろん、卒業式もね」
マドはひょうひょうと言ってのけた。
「でも、入学式のプリントには……はぁ、はぁ」
「まだ分からない? 入学式のプリントは、われわれ生徒会が作成しているんだよ。封筒に封入するところまで」
「ってことは――」
「そう。みほのプリントだけ、時間を換えておいた。この僕、生徒会長の円葉様が直々にね。一年生は、十三時三十分集合。だから走るだけ無駄だって教えてあげたのに」
マドは言葉を続ける。
「走り際にちさとが言ってたことに疑問を持つかと思って、内心、冷や冷やしていたのだよ」
ちさ姉が言っていたこと?
『――場――ってないはずですが、――でしょうか?』
もっと思い出せ。
『入……場もまだ作っていないはずですが、何故……集合なのでしょうか?』
もっとだっ。
『入学式場もまだ作っていないはずですが、何故こんなにはやい集合なのでしょうか?』
「ああーっ」
自然と声に漏れてしまう。
私はプリントさえも信じることがままならないの? 信じるってなんですか?
教えてください。今すぐ。
見えるものが全てじゃないってこと?
「まっ、人生色々あるさ。んじゃ。」
プッツン。
くっそー、マドめっ。このまま、暴走したい気分だ。
うぉぉぉぉーって叫びたい。しないけどっ。
結論、マドが悪い。ムッキー。いつかギャフンと言わせてやるんだからっ。
私は息を整えながら、今来た道をとぼとぼと歩いた。
空を見上げると、高い空へとのびる入道雲。白い綿菓子のような雲の下では、桜が雪のように舞っていた。
ああ、誰か、私に人並みの幸せを……
桜並木が終わり、あとちょっとで家に着く前のT字路で、黒いパーカーで頭を包み、サングラスをかけ、マスクまでしている男を見かけた。
怪しい……とか思ったら失礼だよね。
花粉症で悩んでいる人かもしれないし。もしかしたら、私に幸福をもたらす使者かもしれないし。何事もポジティブに捉えなきゃっ。
まずは、ちょっと様子を伺ってみよう。
サングラス男は、きょろきょろと辺りを見回し、ゆっくりと歩を進め、電柱の陰に――
……って、おいおい。私に幸福をもたらす使者様、なにをそんなにこそこそしてるの?
本当に怪しい人に見えますよ?
びゅう
突然吹いた向かい風。
いったー、目に砂が入っちゃったよっ。
……って、あれ? 消えた――
目を擦っている間に、花粉症らしき人はどこかへ行ってしまっていた。どうやら、ただの変質者だったらしい。
まあ、私とは無関係だから良いかっ。そんなの放っておいて、家に帰りますか。




