表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

大泥棒プリズンブレイク

作者: 山田まる夫

初登校です。

読んでもらえたら嬉しいです。

楽しんでもらえたらもっと嬉しいです。

  某月某日 ケビン・コーナーへのインタビュー


 ――あ、どうも、はじめまして。記者さん?

 ――話? 構いませんけど。面白いことなんて知りませんよ?

 ――大泥棒(おおどろぼう)について、ですか。

 ――それなら、僕なんかよりも詳しい人がいっぱいいるんじゃ?

 ――僕なんて、せいぜい彼の記事を妹と一緒にスクラップしてるくらいですし。

 ――え、琥珀病(こはくびょう)に、ドクターシス?

 ――確かに僕の妹はフェイズ4の琥珀病でしたけど、今はもう安定してます。

 ――ええ。確かに。妹を治療してくれたのはドクターシスです。

 ――その時期に、僕がオードヴィット大監獄に投獄されていたと。

 ――よくご存知ですね。

 ――多分、記録には残っていないはずなんですが。

 ――記者さんは、そこで僕が大泥棒と接触したはずだと仰るんですね?

 ――確かに僕は、あの大監獄で大泥棒に出会いました。

 ――ただ、一応僕自身の後ろめたいことでもあるので、おおっぴらに話すのはちょっと。

 ――ドクターシスのことじゃだめですか?

 ――彼女に関しては、本人がいいといっていたのである程度なら。

 ――え、だめ? どうしても大泥棒の情報がほしい?

 ――うーん。

 ――一応言っておきますけど、大した話じゃないですよ。本当に。

 ――あの時結局なにがどうなったのか、僕にもよくわかってないですし。

 ――それでもいいなら。

 ――僕が彼と出会ったのは、妹が琥珀病だとわかった二週間後のことです。




  ○





「ぐっ」


 冷たい。倒れた先の床。

 痛い。そんな床に押し付けられた体。

 うつぶせに倒れたまま、ケビンは体を捻って背後を見た。

 琥珀色の瞳に、見下ろされている。逆光を背に、冷たく輝いている。


「生意気な目だな」


 淡々と告げられた。

 淡々と蹴り飛ばされた。

 床に倒れていたケビンの体は、その一撃で壁に叩きつけられる。


「う、ぇ……」


 痛い。

 カチャン、と冷たい音が落ちた。扉を閉じられていた。

 看守はそのまま、立ち去ろうとする。


「ま、待ってください……!」


 痛む体を引きずって、鉄格子の扉にすがりついた。


「お願いです! ドクターに……ドクターシスに合わせてください! 妹が、妹が琥珀病なんです!」


 叫ぶ言葉は虚しく、看守は足すら止めずに歩きさってしまう。それでもケビンは必死になって叫んだ。


「――うるせえぞ、こらぁ!」

「ひっ」


 怒声と鈍い音は横から。隣の独房で眠る誰かが、不機嫌に壁を叩いたようだ。

 驚いて、一瞬頭が真っ白になった。それがいけなかった。

 痛い。

 投げられた顔が痛い。

 蹴り飛ばされた腹部が痛い。

 自覚してしまえばもうだめだ。

 焦燥で塗り潰されていた痛みが、水が染み込むように、体中にじわじわと広がっていく。

 動けない。

 倒れた。


「ちくしょう……」


 そんな弱気が口から漏れた。





 翌日。起きたら、意外と体は痛くない。多少のあざは残っているものの、それだけだ。

 大監獄では、食事は囚人を一箇所に集めて行われる。その生活形態は、完全にプライベートな空間がないことを除けば、普通の集団生活に近いものがあった。

 鉄格子のロックが解除されたので、体をさすりながら独房を出る。


「あ」

「お?」


 隣の独房からも同じように人が出てきた。

 浅黒い肌。鉛色の瞳が、ケビンを見ている。

 ふと、薄い眉がひそめられた。


「てめえか。昨日夜中にわんわん喚いてたのは」

「……わんわんは喚いてないです」


 絡まれそうだ。そんな危機感を抱いて、ケビンはさっさと背を向ける。がしりと背中から重み。肩を組まれていた。


「おう、待てや。くそ野郎」

「ちょ、なんです。やめてくださいよ」

「お前、ドクターシスに用があんのか?」

「え――なんでそれを」

「昨日さんざ喚いてただろうが。で、どうなんだ?」

「……関係ないじゃないですか――ぐえ」

「いいから答えろや! めんどくせえヤツだな!」


 組んでる肩で首を締められた。


「い、言う! 言います!」


 ばんばんと首に回された腕を叩きながら叫んでいると、なんとか離してもらえた。騒ぎかと遠くから視線を寄越していた看守が、興味を失ったように視線を逸らす。


「最初からそうしてりゃいいんだよ」


 咳き込むケビンにそんな言葉を投げかけてくるものだから、思わず睨んだ。

 浅黒い肌の男は、オモチャを見つけた子どものように口の端を歪めて、笑った。





 オードヴィッド大監獄。アメリカの郊外にぽつんと建てられた、世界でも有数の規模を誇る大監獄だ。この大監獄に投獄されて、刑期を全うせずに出たものは一人もいない。名だたる大悪党も、知略に優れた犯罪者も、誰もがこの大監獄からの脱獄を企てながら、悉く失敗していった。その大監獄の輝かしい経歴の裏には、一人の科学者の存在があるという。


「その科学者が、シス・ワイズマン、通称ドクターシス。文字通りこの大監獄を裏で支配する、知る人ぞ知る狂気の科学者だな」


 固いパンに具の少ないスープ。

 そんな質素な朝食を口に運びながら、浅黒い肌の男は言った。隣に座るケビンがパンを運ぶ手を止める。


「狂気? 天才じゃないんですか?」

「どっちも間違ってねえよ。あの科学者の恩恵にあやかってるヤツは天才と敬う。被害にあってるやつは狂気と蔑む。で、お前さんはそんなヤツになんの用なんだ?」

「……妹が、フェイズ4の琥珀病で」

「フェイズ4? そんなになるまでほっといたのか?」

「放っておいたわけじゃない!」


 激情に駆られ、ケビンは拳でテーブルを叩いた。


「なにもかも急だった! ある日突然妹が倒れて――医者に診せたら、いきなりフェイズ4の琥珀病だって言われた。なんだよそれ、どうすりゃよかったって言うんだ……」

「体内で症状が進んでいたパターンか。災難だな」

「……この監獄にいる、ドクターシスなら、フェイズ4の患者も治せるって聞きました。僕は、それに縋ってここまで来たんです」

「あ? それでどうしてこんなところにいる羽目になってんだ」

「門前払いで、意地になって無理やり進入しました」


 真面目な顔でとんでもないことを告げたケビンの顔を、鉛色の瞳が呆気に取られたように見つめていた。


「ぷ、く、くく。……だーはっはっは!」


 やがて、堪えきれなくなったのか大きな声で笑い出す。

 人目を憚らない大きな声は、それからしばらく続いた。

 ばんばん肩を叩いてくるのは、やめてほしいケビンだった。

 笑うだけ笑って、浅黒い肌の男は肩で息をする。


「いやー、この監獄に来てから一番笑わせてもらったぜ。大人しそうな顔して、なかなかやるじゃねえか」

「結局捕まって、こんな目になってますけどね」

「それでも、諦めてねえんだろ?」

「当たり前です」


 決意を込めて頷く。そうだ、必ず妹を助けてみせる。これからどうすればいいのか、皆目見当もつかないが、諦めるという選択肢だけは最初からない。

 ふと横を向くと、そんなケビンの顔を、浅黒い肌の男が、じっと見つめていた。


「気に入ったぜ」


 がたりと立ち上がって、鉛色の瞳でケビンを見下ろした。


「ここの独房の扉を開ける方法はふたつある。一元管理している端末を操作するか、看守が管理しているそれぞれの独房のカードキーを使うかだ」


 浅黒い肌の男は部屋の中を眺め回して、ケビンの耳に口元を寄せた。


「どうにかして看守からカードキーを奪って見せろ。それができたら、俺がお前の代わりにドクターシスを盗んでやるよ」





 チャンスは驚くほどにすぐに来た。あるいは、浅黒い肌の男はそれを知っていたのか。

 ケビンの罪は不法侵入。罰金を払えば出ようと思えばすぐに出られる。

 独房の鍵を開けられて、別室に通されたケビンに、看守からそんな説明があった。

 ケビンの目的は、この監獄にいるドクターシスに妹を治してもらうことだ。この場所を離れるわけにはいかない。

 まず、説明を最後まで聞いたうえで、自分がドクターシスに会いたい旨を訴えた。多忙だから、とにべもなく断られた。

 次に、なんとかならないかとひたすらに訴えた。女の看守はめんどくさそうに眉をしかめたものの、なんと連絡を取ってくれた。面倒だからいやだそうです、と一気に酷くなった理由で断られた。

 最後に、物理的に縋りついた。自分の腰にしがみついてくる涙目の男に、女の看守は耐え切れず手を上げだしたが、殴られても蹴られても蛸のようにしがみついた。気持ち悪いから、と軽蔑の目で断られた。

 ぼろぼろだった。それでも怪我らしい怪我がないのは、看守たちがそういう技術を仕込まれているのかもしれない。

 とはいえ痛みはあるので、ちょっと動けそうにない。独房内のベッドで横になっていると、隣の部屋から声を掛けられた。


「よう、なにをしたんだ。看守がぷりぷり怒ってやがったぜ?」

「いえ、まあ、ちょっと色々」

「……」

「……。あの」

「ああ?」

「この独房の鍵を開けられたら、本当にドクターシスをなんとかしてくれるんですか」

「とりあえずこの独房から連れ出して、お前の妹のところには連れて行ってやるよ」

「……なんで、そんなことしてくれるんです?」

「そうだな……。お前がその独房から出れたら教えてやる」


 静かになる。

 痛みは消えてきている。

 ケビンは起き上がり、鉄格子の前に立った。懐からカードを取り出し、鉄格子についた端末に差し込む。

 ピッと音が鳴る。

 軋んだ音を立てて、鉄格子が開く。

 独房から出ると、ケビンは隣の独房の前に立った。


「これで理由、教えてもらえますね」

「……へえ」


 浅黒い肌の男は、愉快そうに口の端を吊り上げた。


「昨日の今日で早速とはな。どうやって手に入れた?」

「部屋で色々説明されているときに、まあ、なんとか」

「オーケー。後に回す理由もなし、それじゃ早速行くとするか」

「あ、でも、僕自分の独房の鍵しか持ってないですけど」


 なにかないかな、と囚人服の懐をまさぐるよりも早く、浅黒い肌の男が立ち上がった。


「んなもん必要ねえよ」


 そう言ったときには、彼の独房の鍵はもう開いている。


「え、あれ?」

「そういや自己紹介がまだだったな」


 近くに立つと、浅黒い男の身長はケビンより高いのがよく分かる。見上げると、光の当たり具合のせいか、鉛色の瞳が黄金に輝いているように見えた。


「俺はクリフ・マグダレス。人呼んで、大泥棒だ」


 ――これが、ケビンと大泥棒の出会い。





 大泥棒。

 今世間をにぎわせる有名人の一角。

 神出鬼没にして正体不明。その手口の一切は明らかにされておらず、それでもその獲物の入手難度から、同一犯の仕業とされた稀代の盗人。どんな警備もものともせず、彼の手によって世界中の財宝が盗み出されている。


「そんな大泥棒さんが、なんでこんな監獄にいるんです?」


 前を歩く大泥棒に、ケビンは小声で問いかけた。独房を出た二人は今、クリフの先導のもと監視の目を掻い潜り移動している。


「ドクターシスの流した偽情報を掴まされてな。のこのこやってきたところを、あいつの発明品で捕縛された」

「ええ……」


 なんだそれ。全然ダメじゃないか。

 こんな人についていって大丈夫だろうか?

 そんな内心が表情に出ていたのか、前を歩いていたクリフは視線に気づき、眉をしかめる。


「なんだその目は?」

「いえ」


 とにかく、他に手も思い浮かばない。

 この自称大泥棒が本物だろうとそうでなかろうと、妹を救えるのなら、ケビンは藁だって掴む。


「……クリフさんって、もしかしてその気になればいつでも脱獄できました?」


 思い出すのは、つい先ほどの独房での出来事だ。クリフは事も無げに独房の鍵を開けてみせた。


「当たり前だ。泥棒なんてやってんだから、それくらいはできないとな」

「じゃあ、なんでまだ残ってたんです?」

「やられっぱなしとか腹立つだろ。ドクターシスに一泡吹かせてから脱獄すると決めてたんだが、俺はほしいものか必要なものしか盗まない主義だ。この独房で特にほしいものもない。なんかないかと探していたところに、都合よくお前がきたわけだ」


 しょうもない理由だった。


「と。おい、隠れろ」


 曲がり角。クリフは壁に張り付くようにして身を隠す。


「見えるか? あの部屋に独房の管理端末がある」


 その真似をして、壁に張り付きながら、曲がり角の先を覗きこんだ。

 通路の先、大きな扉の前に、二人の看守が立っている。


「見張りがいますね」

「ああ。まずはあれをどうにかしないとな」

「どうにかって……正面から突っ込みますか?」

「あほか。ここの看守は全員、最低でもフェイズ3の琥珀病だぞ。普通の人間が向かっていったところで、片手で返り討ちだ」

「じゃあ、どうするんです?」


 クリフは、ケビンを見ると、にやりと笑った。


「そりゃお前、大昔から手強い敵には不意討ちって相場が決まってるだろ」


 どん、と。なにかを言う暇もなく背中を押し出された。

 通路に躍り出るケビン。

 響く足音。


「ちょ!?」


 振り返るも、クリフの姿はすでになく。

 迫る足音。

 二組の琥珀色の視線。


「あ、あは」


 愛想笑いを浮かべた。

 めっちゃ睨まれた。

 その背後で、蠢く者がいる。


「あ」


 と思う暇もなく、片方の看守がよろめき、その場に崩れ落ちた。どこに隠れていたのか、見事に不意打ちを決めたクリフが、流れる動作でもう一人の看守の頭を鷲掴みにする。


「もらうぞ」


 静かに告げた瞬間、看守の体がびくりと跳ねた。その体に既に意識はなく、クリフが手を離すと、膝から崩れていく。


「よーし、いっちょ上がり」

「ていやー!」

「あだ!」


 その後頭部をはたいた。


「てめえ、なにしやがる!」

「それはこっちの台詞だ! いきなり人を囮にするとか、どういう神経してんですか!」

「ああ? うまくいったんだからいいだろうが」

「せめて事前に説明するとか、色々あるでしょ!?」

「うまくいったんだからいいだろ? 気にすんな」


 言った本人は本当に気にしていない。倒れた看守のそばに屈むと、その所持品を物色しはじめた。


「お、このナイフいいな。もらっとくか」


 腰に巻いていたホルダーごと、刃渡り三十センチほどのナイフを取り上げ、自分の腰に巻くクリフ。その使い心地を確かめるように、ナイフを手の中で遊ばせて、しまった。


「これから端末室を襲うけど、囮やるか?」

「やりませんよ!」





 囮をやらないならしばらく離れたところにいろ、と言われたので、あっさりとロックを解除して管理室に入っていったクリフを見送ってしばらく。


「終わったぞー」


 呼ばれたので、ケビンも端末室の中に入った。

 まず目に付いたのは、監獄内の各独房を移した映像。男。女。強面。美人。より取り見取りの老若男女の姿がモニターの中で定期的に切り替わっている。

 おそらく各独房の鍵を管理しているのだろう端末の前にクリフが立っており、その周りには椅子に座ったままの看守たちの姿があった。皆、だらんと姿勢を崩しており、近づくと気絶しているのがわかる。


「なにをしたんですか?」

「後ろから近づいて、ぐいっと」

「……なにをしているんですか?」

「全独房の鍵を開けるための手続き中」

「なんでそんなことするんです?」

「ドクターシスがいるのはこの独房の最深部。そんなところになんの準備もなしに行ったところで、独房お帰りなさいコースまっしぐらだろうが。だから、囚人どもに目くらましになってもらうのさ」


 クリフは、軽快な手つきでコンソールを操作していく。最後のキーを押すのと同時、けたたましい警報が鳴り響いた。

 電子音声が、独房の開錠を告げる。

 モニターの中の囚人たちに動き、

 戸惑う者。

 すぐに事態に気づいて逃げ出す者。

 つられて、続々と他の囚人たちも独房を抜け出ていく。


「こ、これ。大丈夫なんですか」

「大丈夫だって。一応ちゃんとした手続きに乗っ取って……」


 ドン、となにかが吹き飛ぶ音が後ろから響いた。

 ガン、と吹き飛ばされた扉が壁にぶつかる音が続いた。

 ケビンとクリフは顔を見合わせて、鏡に写したように全く同じタイミングで背後を振り返る。

 無残にも扉を失った管理室の入り口の外には、全身のほとんどが琥珀色の結晶体で覆われた看守が立っていた。


「フェ、フェフェ……」

「落ち着け。言えてねえぞ」

「フェフェ、フェフェフェ……」

「……ああ、フェイズ5。怪物のお出ましだ」


 ズン、と重い音が聞こえたと思った次の瞬間には、ケビンとクリフの間に飛び込んできたフェイズ5が、その拳でモニターを粉々に粉砕していた。先ほどまで琥珀色の看守がいた場所には、足の形にへこんだ床。重い音の正体は、この怪物が床を踏みしめた音だったらしい。


「逃げろおおおお!」


 クリフが叫んで、二人は全力で駆け出した。





 琥珀病は、突然世界中に感染者が増大した原因不明の病気だ。最初は体の一部から。琥珀色の結晶体へと変質していき、じわじわと全身に広がる。結晶化が生命維持に必須な器官に及んでしまえば、あとは死んでいくだけだ。

 この病気の段階は大きく六つに分けられる。

 フェイズ1。体の一部が結晶化。生活に支障はない。

 フェイズ2。結晶化が生活に支障が出る状態まで進行。

 フェイズ3。結晶化が日常生活を送れない状態まで進行。

 フェイズ4。結晶化が命に関わる状態まで進行。

 なお、フェイズ1からフェイズ4までは、適切な手術と投薬さえ行えれば、症状を抑えることができる。琥珀病と同じく原因がわかっていないが、フェイズ3まで症状が進行していた患者は、治療後に瞳が琥珀色に染まることと、身体能力が著しく向上することが確認されている。

 フェイズ5。たまたま結晶化が主要な器官に及ばず、結晶化が全身に及んだ状態。投薬により症状を抑えることはできるが治療法は確立されておらず、患者は身体能力と凶暴性が増し隔離が強制される。フェイズ5の凶暴性は猛獣に例えられることも多く、常人が遭遇すればひとたまりもないだろう――。


 重く、速い足音が背中を追いかけてくる。


「やばいですよやばいですよ。なんであんなのがいるんですか!?」

「この大監獄は、ドクターシスの実験場みたいなもんだ! 当然、琥珀病の重篤患者が運ばれてくることもある」

「だったら僕の妹も治してくれたっていいじゃないか!」

「現実逃避してんな、来るぞ!」


 フェイズ5の看守が飛び跳ねると、突き出した拳ごと、走る二人の前に降ってきた。床が砕けて、衝撃がケビンを襲う。


「うわあああ!」

「足を止めるな、転がっても前に進め!」


 言われるがまま、ケビンは転がって、地を張って、駆け出して、前へ進む。ナイフを抜いたクリフが、琥珀色の看守と刃を合わせている音に目を瞑り、がむしゃらに前へ進む。

 息が荒い。

 足が痛い。

 転がったときに打ち付けた体が痛い。

 いったいどこまで逃げればいいんだ?

 湧き出した弱気は、必死に回ろうとする二本の足を絡め取った。足がもつれて、転ぶ。勢いが余って手をつくこともできず、滑るように倒れる。


「う、いた……」

「おい、速く立て!」


 飛ぶようにケビンを追い越したクリフが叫んだ。嫌な気配がして、倒れたまま慌てて振り返ると、琥珀色の怪物が立っている。

 人間のものとは思えない、暗く輝く琥珀の相貌が、ケビンを見下ろしていた。


「あ……」


 終わった。

 覚悟して目を瞑る。訪れたのは予想していた痛みではなく、無数の足音と大声。


「来た! 運がいいぜ、ケビン!」

「ぐえ」


 首根っこを掴まれて、体が後ろに放り投げられる。

 起き上がると、独房から解放された囚人の群れが、目の前の通路を横切ろうと押し寄せていた。

 群れ。そう表現するしかないほどの人、人、人。

 囚人服を着た無数の人間が、波濤のようにフェイズ5の看守が立つ通路に流れてくる。

 琥珀色の怪物も、数の暴力には叶わない。最初こそ押し寄せる囚人をひとりふたりと吹き飛ばしていたが、すぐにその波に巻き込まれ、押し流されていった。

 あとには、静寂だけが残る。


「ふー、なんとかなったな」


 ナイフをホルダーに収めて、クリフが手を差し出した。その手を掴んで、ケビンは立ち上がる。


「もしかして、最初からこれを狙って逃げてたんですか」

「ああ。お前がこけたときには焦ったがな、ちょうど目的の通路の上だったのと、タイミングよく囚人どもが来てくれて助かったぜ」


 こともなげに言ってのける。その姿には、なんの気負いもてらいもない。

 大泥棒。

 その単語が、やけに実感を持ってケビンの脳裏に浮かんだ。





 琥珀病の患者の中でも、フェイズ6は特別だ。フェイズ6は、他の患者と違い、琥珀病に適応することに成功している――いわばキャリアだからだ。瞳の色は琥珀ではなく黄金に染まり、身体能力強化の恩恵を受けながらも、結晶化に悩まされることもない。

 フェイズ6の特別性は、琥珀病に適合したことだけに留まらない。超能力、魔法、一概にそう呼ばれる超常現象。フェイズ6まで至った彼らは、そうとしか表現できない能力を使えるようになった。

 能力のオンオフをできないという欠点こそあるものの――フェイズ6は現代における個の最大戦力と言えるだろう。

 ドクターシスはそのフェイズ6の欠点を克服したフェイズ7の存在を提唱しているが、その存在が確認されたことはない。


 そこからも大変だった。

 大脱走劇と化した全独房解放という事態に対応するためか、看守にはほとんど会うことなく進むことができた。しかし、この監獄に仕込まれた装置は健在だったのだ。

 剣山に向かう落とし穴。

 転がる大岩。

 網の目のように迫る熱線。

 そんなアクション映画さながらのトラップたちを、ケビンとクリフは何度も死にそうな目にあいながら潜り抜けていった。主に死にそうになっていたのはケビンだけで、クリフはなんなく進んでいたような気もする。

 そしてたどり着いたのは、妙に広い大部屋だった。なにに使うのか、壁には大小無数の鉄製の薄い円盤が掛けられており、その円盤に隠れるようにして壁には無数の細長い傷がついている。いや、傷は壁だけではなかった。床にも、それどころか天井にまで及ぶ。まるで、この部屋をなにか巨大な刃物で縦横無尽に斬りつけたような――。


「侵入者ですか」


 部屋の奥、通路へと続く出口の先で、女の看守が立っていた。番傘をくるくると回しながら、黄金の瞳でケビンとクリフを睥睨する。


「女一人か。おい、そこをどけ」

「この道を守るのが私の仕事です。お引取りを」

「ちなみに、その先に続く道は他には……」

「ありません。引きますか? 引きませんか?」


 女看守が、番傘の先で床を突いた。


「『大回転(スナークハント)』」


 壁にかかっていた円盤たちがひとりでに回転し、宙に浮く。自在に空を飛ぶ円盤たちが、壁にぶつかり甲高い音を立てると、細長い傷跡がつく。


「フェイズ6。まじでいるかよ」

「ど、どうします、クリフさん?」


 クリフは鉛色の瞳でケビンを見ると、やけに力強く頷いた。


「やるか? 囮作戦」

「勘弁してくださいよ! あんなのに突っ込んでったらさよならですよ!?」

「大丈夫大丈夫、いけるいける」


 そのとき、壁からはがれた欠片が宙を跳ねて、円盤の先端にぶつかった。

 まっぷたつになった。


「……」

「……」

「俺はお前を信じてるぜ」

「いやいやいやいや、いやいやいやいやいやいやいや!」

「しょうがねえなあ……」


 クリフが、腰のホルダーからナイフを抜いた。ナイフを抜いていない手を一度振って、だらりと両腕を下ろす。


「俺がやつをひきつける。合図をしたら一目散に駆け抜けろ。あの通路を抜ければ、もうすぐにドクターシスの部屋だ。全力でいけ」

「クリフさん……。わかりました!」


 背中を向けて、クリフは重さを感じさせない足取りで走り出した。

 瞬く間に詰まる距離。フェイズ6の女看守は、番傘でナイフを受ける。


「引かないのですか?」

「生憎、その通路の向こうにほしいものがあるんでね」

「そうですか。仕方がありませんね」


 女看守が瞼を閉じて、開くと、その黄金色の瞳が輝いた。宙を漂うだけだった円盤たちが動き出し、クリフに向けて殺到する。浅黒い肌の男は、素早く女看守との距離を離し、跳ねた。高速で回転する円盤の表面を蹴り飛ばし、宙を舞う。

 女看守も、同様にそれを追いかけた。

 円盤を足場に跳ね、宙でナイフと番傘を交わし、弾かれるように距離を離す。

 女看守が操っている円盤だ。当然彼女の動きによどみはない。

 驚嘆すべきは、クリフの動きだった。面を向ける円盤はそのまま足場に、そうでなく先端で切り裂かれそうになれば、ナイフでその軌道を逸らして、回る円盤の表面を転がっていく。一歩間違えばまっぷたつに両断される状況下で、命がけの綱渡りを何度も何度も繰り返す。

 また跳ね、転がり、刃を交わし、離れる。

 ケビンは、静かに息を整えながら、その光景を眺めていた。

 あんな戦いに、一般人はついていけない。荒事を任せてしまっているのは申し訳なく思うが、ケビンにはどうしようもできないのだ。

 だからせめて、やれと言われたことだけは確実にやり遂げてみせる。


「いけ、ケビン!」


 瞬間、駆け出した。

 宙を舞う円盤たちの中、まるでケビンを導くように空隙がある。

 ケビンの動きに気づいた女看守が、円盤を差し向けてくるが、そんなものは気にしない。きっとあの大泥棒がなんとかしてくれる。

 出口まで、四メートル

 三メートル。

 二メートル。

 駆けるケビンの横に、円盤が飛来した。ケビンは足を――止めなかった。

 風が吹いたような感覚。クリフがケビンと円盤の間に躍り出て、ナイフを振りかぶっている。

 交わる鉄と鉄。

 飛び散る火花。

 ナイフを振りぬいて、円盤の軌道が僅かにそれる。

 円盤は回っている。

 クリフも回っている。

 ナイフを振りぬいた勢いのまま旋回すると、脚で円盤の腹を打ち、蹴り飛ばした。

 蹴り飛ばされた円盤が制御を失って床に着くのと、ケビンが通路にたどり着くのは、ほぼ同時だった。


「クリフさん!」

「さっさと行け!」


 足を止めず、そのまま駆け抜けた。

 通路はもう一本道だ。迷う心配もない。

 しばらく走り、戦いの音が聞こえなくなると、速度を緩めた。


「ふう――うわああ!?」


 息をついた瞬間、横から吹き飛ばされた。通路の壁を壊し、琥珀色の体がケビンを襲う。そのまま覆いかぶさられ、視界いっぱいにその琥珀色の顔が広がった。


「フェ、フェイズ5……!」


 管理室でケビンたちを襲った、琥珀色の怪物。こんなところまで追いかけてきたのか!

 馬乗りされ、両手で首を締められている。その力が強い。強すぎる。首がしまるとかそれ以前の問題だ。このままでは、首を引きちぎられる。

 もがく両手が、なにか硬いものを掴んだ。特になにも考えず、咄嗟にその硬いものを、フェイズ5の残った生身の部分に叩きつけた。

 声にならない声を発して、琥珀色の怪物が怯む。

 拘束を逃れたケビンは、とにかくじたばたと暴れてその体の下から脱出する。

 息を荒らげながらもたもたと、それでも必死で逃げた。しかし、そんな鈍重な動きで逃げられるはずもなく、まもなくケビンは背後からの衝撃で再び吹き飛ばされた。

 しばらくの浮遊感。落下してからは、ごろごろと転がって壁に激突。なんで生きているんだ、という気持ちと、生きていてよかった、という気持ちがごちゃまぜになる。転がった頭もごちゃまぜだ。

 壁に背を預ける格好になったケビンは、ゆっくりと自分に迫ってくる琥珀色の怪物を見た。

 動きたいが、体は動かない。

 ――ここまで、なのか。


「そこに、誰かいるのか?」


 背後から、落ち着いた声がした。

 首だけ動かすと、すぐ横に扉がある。


「あ、ぐ……ちょっと、襲われていて」

「ふむ。君はなにか、襲われるようなことをしたのかね?」

「まあ、その……ちょっと、騒動を」

「そうか。では君の状況は、君自身の不徳が招いたということか」

「はあ……そうですね」

「……」

「……」


 終わりかよ!


「ところで、君は運命を信じるかね?」


 終わりじゃなかった。


「運命、ですか。あんまり、信じて、ないです」

「そうか。私は信じている。たとえば、襲われるべくして襲われている君が、その途上で私という人間と会話をすることに成功している。これはまさしく運命だ」

「はあ」

「だから私は、運命の名の下に君を救おう」

「え」


 聞き返そうと思ったときには、もう終わっていた。

 横の扉から太い腕が生えてきて、ケビンまで僅かというところまで迫っていた琥珀色の怪物を吹き飛ばしていたからだ。

 生えてきたと思った太い腕は、扉を壊して放たれた突きだった。

 突きを放った張本人は、なにごともなかったように腕を引っ込めて、普通に扉を開けて出てきた。

 大きい。二メートルは軽く越す巨漢。

 鍛え抜かれた体が、ぴったりと張り付いた囚人服越しにも窺える。

 細いフレームの眼鏡を掛けており、そのレンズの向こうでは黄金色の瞳が輝いていた。


「はじめまして、運命の少年。私はティンバー・ラグダナル。私を知る人間からは、大人災( だいじんさい)などと呼ばれている」





「大丈夫かね、少年」

「あ、大丈夫です」

「怪我をしているようだ。……申し訳ないが、運命は私に医術の道を指し示しはしない」

「はあ。……あ、いや、大丈夫です。……多分」

「すぐ近くに、ドクターシスの部屋があるはずだ。そこでなら、治療も受けられるだろう」

「ドクターシス!」


 ケビンは思わず叫んだ。


「あいたたたた!」


 怪我がものすごく痛んだ。


「ふむ」


 悶えるケビンを見下ろし、なにやら頷くと、ティンバーはおもむろにケビンに腕を伸ばす。ケビンは大の男ひとり分として見た場合、平均的な体格だ。体重も。その体が、片手で軽々と持ち上げられた。


「うわ」

「暴れる必要はない。君をドクターシスのもとまで連れて行こう」

「え、いいんですか?」


 立場はわからないが、少なくともケビンの味方側ではないと思うのだが。


「運命の導きのもと、私たちは出会った。そんな君を見捨てる道理を、私は持たない」

「えー、あー。……それじゃ、よろしくお願いします」


 なんとか相手の心理を読もうと試みてみたが、結局ケビンはされるがままになることにした。やけに気取った言い回しに相手をするのを諦めたとも言う。いずれにせよ、フェイズ5に殴られた影響で、体を満足に動かすことすらできないのだ。


「うむ」


 大柄な男は、応用に頷くと黙々と歩を進めた。





 担がれて数分。ドクターシスの部屋に着く。

 扉が開く。開いていく扉を眺めて数秒。


「あ」

「お?」


 浅黒い肌の男が、机に誰かを押し倒したまま、扉を開けて表れたケビンとティンバーを見た。クリフだった。

 クリフにうつぶせに押し倒された女が、翠と琥珀の瞳でケビンとティンバーを見た。裸に白衣を着ていた。


「おう、ケビン。無事だったか」

「うおおい、この似非泥棒! 人が死にかけてた時に、なに下種なことやっちゃってんの!?」

「泥棒に今さらなにを言ってんだ、お前は。それより喜べ」


 クリフは、押し倒した女の頭に手を置いた。


「お探しのドクターシスだ。盗れたてだぜ?」

「人を作物かなにかのように言わないでほしい」

「え? ドクターシス?」


 ケビンは改めて、クリフに押し倒されている女を見た。伸ばしたままなのか、枯れ草色の髪はぼさぼさで、翠と琥珀で左右色違いの瞳は、茫洋としていて感情が読めない。


「……ドクターシス?」


 クリフを見た


「ドクターシス」


 クリフが頷いた。


「……ドクターシス?」


 女を見た。


「ドクターシス」


 女が頷いた。


「え、なんというか、イメージと違うというか」

「ああ、わかる。天才って評価と、このぬぼっとした女は結びつかねえよな」

「君たち、本人を前に遠慮というものはないのか」

「ドクターシス」


 部屋に入ってから黙っていたティンバーが口を開いた。


「状況の説明を乞う」

「見ての通り、私は押し倒されていて、貞操が危ない。動かないという君の判断は正しい」

「全ては運命のまま、か……」

「おい、人聞きの悪いことを言うな。俺は同意なしに女を抱かねえよ」

「では私はなんの危機だろう?」

「あー、まあ」


 クリフが、ドクターシスの首を抑えている手に力を込めた。「ぎゅむ」と曇った悲鳴と共に、枯れ草色の髪でドクターシスの顔が見えなくなる。


「命の危機だろうぜ」


 ティンバーが動こうとするが、その動きを鉛色の瞳が制する。文字通り、この場はクリフが握っている。

 歯噛みするティンバーをよそに、その腕に抱えられたケビンにクリフは目を向けた。


「……ドクターシス、あんた確か医学にも精通してたよな」


「うん。興味あるものは一通り」

 ドクターシスはくぐもった声で答えた。


「じゃあまずは、俺の連れを治療してもらおうか」





「いだいいだいいだい!」

「えい」


 ごき、と小気味いい音がした。


「あああああああ!」


 ケビンの悲鳴が響き渡った。

 椅子に固定したその体の背後で肩を治療していたドクターシスは、包帯をくるくる指先で弄びながら、正面に回る。


「これはひどいね。肩の脱臼に、肋骨は罅が入っている。なにか大きなものに吹き飛ばされた?」

「フェイズ5に、殴り飛ばされました」

「フェイズ5? こんな場所まで追ってきてたのか」


 テーブルに腰掛けて、ナイフを検分していたクリフが言った。


「散々でしたよ。でも、この人に助けてもらったんです」


 ケビンは首だけ動かして、部屋の隅に立っていたティンバーを見た。クリフの鉛色の瞳も、大柄な男を見据える。


「ティンバー・ラグダナル。かの大人災がこんなところにいるとはな」

「……」

「クリフさん、ティンバーさんのこと知ってるんですか?」

「一部じゃ超がつくほどの有名人だよ。同時に超弩級の危険人物だけどな」


 テーブルの上で胡坐を掻き直して、クリフは語った。

 大人災。

 それは、かつて起こった災害を指す言葉であり、同時に個人を指す言葉でもある。

 地図上から都市をひとつ消し去ることになったその災害は、一夜のうちに、たったひとりの人間の手によって引き起こされた。その災害を引き起こした人物は、厳重な管理のもと、大監獄に投獄されていると噂されている。


「ま、その噂は真実だったわけだ」

「……全ては運命の導きだ」

「あ、そう」


 吐き捨てると、クリフは背を向けているドクターシスを見た。


「で、ケビンはどんな感じだ」

「とりあえず処置できるものはしておいた。骨に関しては、そういう能力者でもいない限りなんともならない」


 だから、とドクターシスは振り向いた。その手には、注射器が握られていた。


「鎮痛剤とか。ひとまずその場しのぎの薬をうっておく」

「あ、痛くしないでもらえると」

「ぶすっと」

「うげはぁ」


 むちゃくちゃ痛かった。

 少し待つと、全身の痛みが引いていった。

 ケビンが薬の効果を実感している間に、枯れ草色の髪の女は、注射器を片付けている。


「さて、ひとまずこの場でできる処置は以上だ。ワタシの研究室に連れていってもらえばさらにできることもあるが、どうする?」


 クリフが、鉛色の瞳をケビンに向けた。念のため、立ち上がって体を動かす。

 問題ない。頷きを返す。


「そういうわけで、処置は十分だ」

「そう。では私はお役ごめんかな」

「んな訳あるか。そもそも俺らはてめえに用があるんだよ、ドクターシス」

「そうなの?」

「じゃなきゃこんな監獄の奥までわざわざくるか。おら、ケビン。説明してやれ」


 ケビンは、ドクターシスに妹のことを端的に語った。


「確かにワタシなら治療できるけれど……そのためにここまでする?」

「たったひとりの家族なんです。これくらいします」

「わからないことがある。聞いてもいい」

「はい」

「ごめん。君じゃなくて、そっち」


 ドクターシスが目を向けたのは、クリフだった。


「ああ? なんだよ」

「君が彼に協力する理由がわからないな、大泥棒さん」

「んなもん、てめえにやられっぱなしなのが気に食わないからに決まってんだろうが」

「……でも、それならわざわざ彼に協力しなくたってできる」

「俺は泥棒だぞ。ほしいものと必要なものしか盗まねえんだよ」

「よくわからないポリシー。……まあ、わかったよ」

「じゃあ!」


 勢い込むケビンを一瞥して、ぼんやりと背後のティンバーを眺めて、顔を正面に戻す。翠と琥珀の、茫洋とした瞳を揺らして、ドクターシスは頷いた。


「ゲームをしよう。勝利条件は君のこの監獄からの脱出。それができたならワタシは君の妹を助ける」

「ああ、ありがとうございます!」

「感極まるのは早いよ。君がゲームに勝てたらの話だ」

「いいのか?」


 それまで押し黙っていたティンバーが、ドクターシスの傍らに立った。椅子に座ったドクターシスは、立てた片膝に両手と頭をこてんと置く。


「不満?」

「……いや。それが運命ならば」

「運命ねえ……」


 クリフがぼそりと呟いた言葉を、大柄の男は聞き逃さなかった。じろり、と黄金色の瞳で浅黒い肌の男を射るように見る。


「なにか?」

「いや? それより、話がまとまったならさっさと行くぞ。ドクターシス、お前の研究室専用の出入り口があるな? 案内しろ」

「よく知ってるね」

「自分が盗みに入る場所のことくらい把握してるよ」

「……わかったよ。案内しよう」


 ティンバーが部屋の隅の棚からブーツを取り出し、ドクターシスの座る椅子の前に置く。枯れ草色の髪の女はブーツを履くと、ぺたぺたとした足取りで歩き出した。


「え、いやいや、そんな格好で行くんですか?」


 ケビンが思わずそう言ってしまったのも無理はない。ドクターシスはいまだに、裸の上に白衣を着ているだけだ。


「ん? ああ、いけないいけない」


 おもむろに手を動かし、白衣のボタンを閉じる。前を閉じたことで、豊かな胸のラインが強調されるようになった。


「じゃ、行こうか」

「いやいやいやいや、服着ましょうよ、服!」


 枯れ草色の髪を揺らして、ドクターシスは小首を傾げる。両手を広げる。


「服」

「下、下! 中身のほう!」


 翠と琥珀の瞳に困惑を宿らせて、ドクターシスは首を傾げるばかりだ。首を傾げたいのはケビンのほうだ。

 見かねたのか、ため息をつきながら、ティンバーが言った。


「気持ちは察するが、彼女は普段からこうだ。なんというか……気にしないほうがいい」

「ええ……」


 裸白衣にブーツ。


「マニアックだな」


 クリフが言った。その通りだな、とケビンも思った。





 ドクターシスの案内で、出口への移動はとてもスムーズだった。ただし、スムーズなのは、出口直前のロビーまでだった。

 琥珀色の結晶体に包まれた体。フェイズ5の看守。

 くるくる回る番傘。くるくる回る大小の円盤。フェイズ6の看守。

 ドクターシスのもとにつくまで、ケビンとクリフを苦しめた二人の看守が、ロビーで待ち構えるように悠然と立っていた。その背後には、あらゆるものの脱出を阻むように、重厚な鉄の扉が構えている。

 クリフがじとりとドクターシスを見る。


「ゲームに障害はつきものじゃないか」

「……なるほど」


 クリフは頷くと、ひょいとドクターシスを持ち上げて、その首を腕で絞めた。


「動くなてめえら! ちょっとでも動いたらこいつの命はねえぞ!」

「最低だ! 躊躇いなくその動作が出てくる時点であんた最低だ!」

「ばぁかが。俺は泥棒だぜ? 下衆なくらいがちょうどいいんだよ」


 そう言うクリフの顔は、完全に悪役顔だった。腰からナイフを引き抜いて、その腹でぺたぺたとドクターシスの頬を叩いている。

 立ちはだかる二人の看守も、さすがに動きかねているようだった。


「ふたりとも、この男の目的はワタシの技術だ。まかり間違ってもワタシを殺しはしない。思う存分やってくれてぐえー」


 クリフが首を絞めたらしい。言葉の途中でドクターシスが呻き始めた。ぱんぱんとクリフの腕を叩いている。

 緩めた。ほうっと、息を吐いた。


「別に殺さなくても苦しめる方法はいくらでもあんだぜ?」

「落ち着こう。だが殺せない以上、あのふたりにどんな隙を突かれるかわからない。ならここでしっかりあのふたりを倒したほうがいいと思わない?」

「……」

「それに君たちは戦わなくてもいい。こちらからはほら、かの大人災、ティンバー・ラグダナルを出そう。もちろん彼に手を緩めさせるなんてことはしない。どうかな?」

「……なに企んでやがる?」

「さあ?」


 重い沈黙。

 先に折れたのは、クリフのほうだった。


「おお?」


 首を絞めていないほうの手で、唐突にドクターシスの胸を揉みしだいた浅黒い肌の男は、鉛色の瞳をケビンに向ける。


「ケビン、お前が決めろ。この盗みは、お前の盗みだ」


 ケビンは考える。考えて、決断を下す。


「ドクターシスの言葉に従いましょう。妹を助けるなら、彼女には自主的に協力してもらえたほうがいいと思います」

「わかった」


 首を絞めていた腕を離す。

 ドクターシスのブーツが床を叩く。


「お願いします。ティンバーさん」


 ケビンが頭を下げると、ティンバーは黄金色の瞳で黙ってケビンを見る。

 無言で前に出た。

 大きな背中は、とても頼もしく見えた。


「――『大人災(ジャバウォック)』」


 大柄な男は、自らの能力を発動する。

 それは、フェイズ6のみに許された力。


「『大回転(スナークハント)』」


 対するは同じフェイズ6と、全身琥珀のフェイズ5。


「……ところで、なんでワタシはいきなり君に胸を揉まれたんだろう?」

「でかいからじゃないか」

「えっち」

「棒読みでんなこと言われてもな」





 決着はあっという間だった。

 回転する円盤、全身琥珀の人外の膂力。

 そんなものをものともせず、灰色の竜は一方的に蹂躙した。

 竜。

 そう、竜だ。

 能力を発動したティンバーは、黄金の光に包まれたかと思うと灰色の竜へと変身していた。その全身は岩のような鱗で包まれており、岩で出来た竜のようにも見える。

 そしてその竜の前に、ふたりの看守はなにもできずに敗北したのだった。今は、まるで打ち捨てられたように部屋の隅で気を失っている。


「すご……圧倒的ですね」

「ちょっと一方的過ぎる気もするけどな」


 とにかく、決着はついた。動かないティンバーのもとへ、ケビンは駆け寄る。


「ティンバーさん、お疲れ様です」


 竜の尻尾が、ゆらりと動いた。


「――ケビン、よけろ!」

「え?」


 突き飛ばされる。誰に? クリフだ。

 突き飛ばされた。どうして? 竜の、尻尾が。看守たちを一方的に蹴散らした強力無比な攻撃が、ケビンのいた場所へ、クリフのいる場所へ。放たれている。

 ケビンは床に叩きつけられた。

 クリフは竜の尻尾に打ちのめされ、吹き飛んだ衝撃で壁にめり込んでいた。


「クリフさん! ――ティンバーさん、なにを!?」

「無駄だよ」


 茫洋とした声。ドクターシスの声。


「すでにこちらの声は届いていない」

「届いていないって……どういうことです!」

「ただ竜に変身する能力なだけなら、大人災とまでは呼ばれない。彼は力を使うとね、意識を失う。あとは目に映る敵を倒すだけ。正真正銘、人の理屈の通じない化け物になる」

「そんな……」

「け……なるほどな」


 か細い声は、確かに聞こえた。クリフが、壁から抜け出して立ち上がっている。

 破片で切ったのか、頭からは出血。

 内臓を痛めたのか、苦痛を押さえるように添えられた手。

 衝撃で折れたのか、残った片腕はだらんと不自然に垂れ下がっている。


「てめえの目的は、最初からそいつを暴れさせることだったわけだ。看守どもはさしずめ、竜に捧げる生贄ってとこか」

「物語的なことを言うね。でもちょっと酷い。別に死んではいないよ」

「なんにせよ、そいつをどうにかしねえと俺らの負けってわけだ」


 ふう、とひとつ長い息。

 クリフは鉛色の瞳で、灰色の竜を見据えた。その目には、強い意志が宿っていた。


「おい、大人災、情けないもんだな」


 呼びかけは届いているのか、いないのか。岩の竜はわずかに唸るばかりで、なにも応えはしない。


「運命運命運命運命運命、単なる運命論者かと思ったが、てめえのそれは力を扱いきれない自分への免罪符だったわけだ。くだらない。――そんなもんなら、盗まれても文句はないよな?」


 折れていない腕を振る。

 だらりと下げる。


「――『大泥棒(バンダースナッチ)』」


 そして、大泥棒の瞳は二度変わる。

 鉛から、琥珀へ。琥珀から、黄金へ。

 世界をにぎわす大泥棒。彼は神出鬼没で、その手口は一切不明だ。無理もない。そもそもその手口は、すでに人の常識の外にあるのだから。

 その力は――全てを盗む。

 黄金の瞳が、灰色の竜を捉える。

 クリフは、一瞬で距離を詰めた。岩の竜はその接近を許さない。強靭な腕を振り下ろす。その時には、大泥棒の姿はそこになく――腕を足場にさらに上、竜の額を掴んでいた。


「――もらうぞ」


 黄金の光が瞬く。





 黄金の光がロビーを覆いつくして、収まる頃には、決着がついていた。

 人の姿に戻ったティンバー。

 その脇には、疲労困憊といった様子でクリフが座り込んでいる。


「クリフさん!」


 駆け寄るケビンに、クリフがひらひらと手を振る。

 パン、と乾いた音。クリフが倒れた。

 足を止める。振り向いた先にはドクターシス。その後ろに、銃を構えた看守が立っている。

 固まるケビンを尻目に、枯れ草色の髪の女は、両手を叩く。拍手をする。


「驚いた。まさか大人災が無効化されるとは思っていなかったよ」


 言葉とは裏腹に、翠と琥珀の瞳は相変わらず茫洋としたまま。


「とはいえ、今のに反応できないとは。力を使い果たしたと見て問題なさそうだね」

「ドクターシス、あなたは……!」

「そんなに驚くことかな? ワタシはもともと監獄側。君たちを阻むように立ち回るのは不思議じゃないと思うけど」


 そして、ロビーに看守が殺到する。ドクターシスを先頭に、壁を作るように整列する。

 退路はひとつ。監獄からの出口。

 けれどどうすればいい。そこは重く頑丈な鉄の扉で閉ざされているのだ。


「大人しくしたほうが良い。ワタシは君の命にはさして興味がない」

「もちろん、それは僕の妹もですよね……」

「君はゲームに負けたからね。そうなる」


 冗談じゃない。こんなところで終わってたまるか。

 倒れたクリフを見る。竜の重みでひび割れた床とクリフの間には、彼が腰に差しているナイフがある。こんなところまで付き合ってくれた彼に報いるためにも、ケビンは最後まで抵抗することを選ぶ。

 駆け寄り、クリフの腰のナイフを抜いた。

 不意に、痛みを感じた。

 脇腹あたりで生じたその些細な痛みは、じわじわと広がってケビンの全身を苛んでいく。

 膝を着いた。


「おや、薬が切れたようだね」

「薬……?」

「鎮痛剤、射っただろう。だいたいこのロビーで切れるように量を調整していたんだ。もともとの怪我の分、薬で誤魔化して動かしていた分、全部混ざって、相当痛いんじゃないかな」


 痛い。

 とんでもなく痛い。

 なにもしていないのに汗が止まらないし、今すぐ倒れて気を失ってしまいたい。

 それでも、倒れるわけにはいかない。

 ナイフを握り締めた。

 膝に力を込めた。

 立ち上がれ。ナイフを構えろ。


「……怪我ではすまないよ? 君が」

「それでも、諦めるなんてない!」

「……わからないな」

「あなたにわからなくても、僕にはわかっている! 僕は僕の意思で、色んな事を巻き込んでここに、ここまで、やっと来たんだ! 諦めるなんてない……僕は、必ず、妹を助ける!」

「可能性なんてないのに?」

「あなたがいる! あなたに妹の治療を確約させれば、それで僕の勝ちだ!」


 きょとん、と翠と琥珀色の瞳が瞬いた。肩を震わせて、笑った。


「そうかそうか。君にとっては妹を治すことが第一なんだね。確かにワタシはわかっていなかった。それでも……君の勝ちはないと思うな」

「いいや、俺たちの勝ちだ」


 その声は、足元から。

 撃たれたはずの大泥棒は、ゆっくりと立ち上がる。


「ク……クリフさん?」

「なにへっぴり腰で間抜けな面晒してんだ。おら、寄越せ」


 手が伸ばされて、気づいたときにはナイフはケビンの手の中から消えていた。

 ナイフを腰に収めたクリフは、黄金色の瞳でドクターシスを見据える。


「おかしいな。とても立てるような状態じゃなかったと思うのだけれど」

「へえ? 天才科学者様の目はちょっと腐ってるんじゃないか?」

「そんなことになっていたら激痛だよ」

「冗談が通じねえ……」

「それに、別に対して状況が変わったわけでもない」


 ドクターシスが手を掲げる。居並ぶ看守たちは、一様に銃を構える。


「君は戦闘向きじゃない」

「当たり前だ。俺は泥棒だぞ」

「だから、この銃火には耐えられない」

「だけど、そいつは間違いだ」


 クリフは、片腕を一度振った。両腕(・・)をだらりと下げた。


「――『大人災(ジャバウォック)』」


 告げた瞬間、浅黒い肌の男は、灰色の竜へと変貌した。

 変身に敵が呆気に取られる。

 咆哮でさらに動きを止める。

 飛び込み、看守たちを蹂躙する。

 最後に、出口を塞ぐ鉄の扉を爪で切り裂いて、灰色の竜は浅黒い肌の男へと戻った。

 その脇には、ドクターシスが荷物のように抱えられている。


「今のは――まさか、能力を盗む能力? いや、それだけでは、怪我がすっかり治っていることの説明がつかない……」

「さあな。答え合わせは勝手にやってろ。おいケビン、ぼーっとしてんな。逃げんぞ」

「え、あ……はい」


 いまだ事態が飲み込めていないが、どうやらいい方向に事態が傾いていることだけはわかったので、ケビンはクリフたちに続く。


「ねえ、気になるからモルモットにならない?」

「ふざけんな」


 ドクターシスは負けを認めたのか、大人しくクリフに抱えられたまま。

 夜明けの時間か、壊れた扉の先からは、眩しい太陽の光が差し込んでいる。

 扉を抜け、ケビンは監獄の外へ出た。





  ○





 ――これが、僕とあの人の間で起こったことの全てです。

 ――最初に言った通りでしょう? 大した話じゃないって。

 ――そこからはあっという間でしたね。

 ――ドクターシスは約束どおり妹を治療してくれて。

 ――大泥棒はいつの間にか姿を消していました。

 ――大泥棒の能力は何か、ですか。

 ――さっぱりわからないですね。

 ――ドクターシスが色々言ってましたけど、半分も理解できませんでしたし。

 ――僕にわかるのは、彼が僕にとって恩人だって言うことだけです。

 ――大泥棒が今どこにいるか、ですか。

 ――そうですね。

 ――あの人のことだから、今日もどこかでなにかを盗んでいるんだと思いますよ。

 ――だって、あの人は、大泥棒なんですから。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ