かたきは手のひらに
❶
平成十二年六月二十日に成って。後一年半で無効と言うその日が来る。
気合満点だった検挙率百%のベテラン刑事野田達樹も、転任以来今までの刑事と何ら変わらない風体に成って来ていた。
それを良平は攻める事などしなかったが、じわじわと迫ってくる時効と言う文字を、恐れる様に成った事は確かであった。
江上聡は裁判を受け入れとうとう懲役刑に屈したが、何の事はない六ヶ月の刑で済まされた。
詐欺と言っても大きな額が動く前だった事が事件を小さくしていた。放火の件も追及したが、証拠不十分で起訴には至らなかった。
それは警察も検事も、この男が今置かれている立場を理解していない事であった。
江上聡は白石金融で押しも押されもしない幹部に成っていて、白石が全面的にバックアップをしているので、中々牙城を崩せなかった事も手伝っていた。
江上聡はそんな環境で生きていたので、常に強硬な態度を壊さなかったのであった。
江上聡が刑を受け入れたのは白石の助言もあり六ヶ月の刑に服した。
本来この間に新しい証拠をつかみ、拘留期間中に改めて江上聡を告発したいのであるが、何分既に十三年半前の事とあって、躍起に成って刑事野田が動いたが新事実は出て来なかった。
野田は江上聡が逮捕される前に、放火の件で韓国済州島にも出向いてキム・ハクシンともあったが進展する物は無かった。
決定的な物証や証言を貰う事無く、放火の件も当然良平の妻ゆかり殺害の件でも、新しい証拠になる物が摑めない日が続いていた。
六ヶ月の間、江上聡が拘留されている間に確固たる証拠を並べて、それを突きつける事が最終目標である事は、東成警察暑全員の目論みであったが日は刻々と迫る事だけが確実であった。
平成十二年の夏も駆け足で過ぎて行く様に良平には思えて来て、居ても経っても居られない心の内が見え隠れしていた。
久し振りに良平は気を紛らわせようと、更に元気を与えてくれる温かい心を持ち合わせていると思われる名古屋の篠崎親子を訪ねる事にした。
「又旬の魚獲れましたのでお持ち致しました。」
「申し訳ありません。こんなに沢山新鮮な魚を」
「いえ、何時も御世話に成りっぱなしですから当然です。」
「それで何か新しい事を?進展が御座いましたか?」
「いえ、それがこれと言って。だから今日は気分転換に、篠崎さんたちに打開策をお聞きしようと思いまして。」
「そうでしたか。本当に弱りましたねぇ、警察の方も頑張ってくれているから何も言えないですねぇ、あの野田さんて刑事さん、そりゃぁバイタリティーの在る方ですからね。素人の私たちが出る幕が無いって感じでしたから。」
「ええ、正に。でも何も進歩していないですから、あの江上聡と言う男は飛んだ底知れない悪党のようです。」
「その様ですね。」
「ところで江上聡が詐欺の罪で逮捕されてからこの前六か月の刑が決まり、現在服役している事を知って頂いています?」
「いえ今初耳です。」
「えっ、江上聡が逮捕されたのですか?」
「ええ、お二人はまだご存知で無かったのですね。」
「それじゃついでにあの男吐きませんかねぇ、奥さん殺しを。」
「無理な様です。警察も躍起に成ったようですが既に拘置所で僅かの刑で」
「例えば嘘発見器とか、何か吐かす物がある様に思いますが、こんな進んだ時代ですから今担当の野田刑事さんは辣腕で経験も豊富、更に検挙率百%ですから大いに期待はしていたのですが」 「そうですか。でもこの事件は時間が経ち過ぎて、何もかもが褪せて来ているから、それが困るのでしょうね」
「ええ、隆一さんがまだ中学生の頃に起こった事件ですからね」
「そうですね、そりゃ誰もが忘れて行くのは仕方ないですね。それを言っちゃいけないけど」
「でも実際その通りだと思います。ただはっきり言える事は、犯人は決して忘れる事は無いだろうと思う事です。決して妻の顔を忘れはしないと思う訳です。妻の腹をナイフで刺して、妻がそのまま倒れ、犯人の顔を見つめながら又犯人も妻の顔や服やスカートまでを見ている事が考えられるわけです。 いや絶対見続けている筈です。だから十三年が経っても、これから何年が過ぎても、犯人は妻を忘れる事は無いでしょう。」
「正にその通りですね。犯人の立場に成ったら、笹本さんが仰った事に何一つ狂いは無いですね。」
「笹本さん、いつか韓国へ三人で行った時に、あのキムさんて人が言っていた、何か思い出したなら山田瑠璃さんに手紙書きますとか言っていましたね。僕の記憶ではその様に思っているのですが」
「ええ、そんな事言っていましたねぇ」
「それから何か連絡とか新しい事とか無かったのですか?」
「いえ、あれから山田瑠璃さんとはお会いしていません。でも刑事さんが訪ねて行ってくれています。放火の件もあったから」
「それなら何も新しい証言とか無かったと言う事でしょうか?」
「ええ、多分」
「私はつかぬ事を言いますが、その山田瑠璃さんって方、何か貴方から見て疑う余地など御座いませんか?
その方が江上聡の言わばアリバイを証明しているのでしょう。そりゃ好きだからと言われればそうかも知れないですが、何故か気に成る人ですね。
私は何もかも摑んでいないからかも知れませんが、でも気に成る人です。何故貸したお金を請求しないのかとそれだけでも疑問です。何かが無いでしょうか?」
「さぁ私にも分かりません。でも篠崎さんが仰るように、相当あの人はおおらかな人か、それとも計算出来ないお人よしかも知れませんね。」
「笹本さん、あの韓国のキムさん、キム・ハクシンさん。もう一度会いたいですね。まだ何かを聞き出せるかも知れないと思うのです。
あの時は慌ただしかったから、それに初めてだったから、向こうさんも警戒していたと思いますし、あの頃の事を一番よく知っている男かも知れないと思います。
それに日本を離れ今は韓国で暮らしているから、其れに江上も刑務所に入っていますから話せる事もあるのではないでしょうか?
僕はあの時何も口に出来なかったですが、今なら何かを聞き出せるのではないかと思っています。」
「隆一はまた韓国へ遊びに行きたがっているのかな?」
「父さん、決して遊びじゃないから」
「あぁご免。」
「隆一さん、何故あのキムって人が気になるのです。」
「ええ、先ほど笹本さんに言われ、江上聡が逮捕された事を僕らは知りました。
今刑事さんは貴方の奥様の事件で躍起に成っていると思います。チャンスと思っている筈です。 あのキムさんも江上聡が逮捕された事を知ったら、今まで口に出来なかった事を口にするかも知れません。江上聡が逮捕された事で安心出来る何かがあるかも知れないと思うからです。
江上聡が二度と刑務所から出て来れないと思ったら、キムさんは何もかもを話す事が考えられるのです。隠す必要がなくなるから。
江上聡に仕返しなどされないからです。彼は力関係では弟分だったから常に遠慮させられていた筈、喧嘩別れしたから一概には言えないけど、それでもやはりその関係は続いていた筈、
ですから先ほど父が言った山田瑠璃さんも同じ事ですが、何かが胡散臭いものが出て来ないかと思います。
先ほど笹本さんが、刑事さんもキムさんを韓国に訪ねていると言っていましたが、その時江上聡がまだ逮捕されていない時だった筈です。
だから山田瑠璃さんもキムさんも、今一度調べる必要が在るのではないでしょうか?」
「成程ね。隆一さんの言われる通りかも知れませんね。」
「隆一はとにかくまた韓国へ行きたがっている気がするね?前に行った時に聞きそびれたからかな。」
「そうじゃないよ。父さん、笹本さんが言った江上聡が逮捕された事で思いついただけだよ。笹本さん、僕が言っている事は別に気にしないで下さいね。韓国へ行って下さいって事じゃないですから。」
「ええ解かっていますが、お父さんが言われた山田瑠璃の事も、隆一さんが言われたキムさんも、その様に言われれば気に成って来ますね。
何しろ刑事さんでも困っている事ですから、私の様な者では何も出来ないですが・・・」
「僕が行って来ましょうか?」
「済州島へ?」
「そうです。仕事辞めましたから、今は暇なのです。次の仕事を探さないといけませんが、まぁ慌てる事無いから」
「そんな呑気な事を言って良一は父さん譲りで気楽なものだな」
「いいじゃない。父さん」
「でもね。良一さんそれは申し訳ないから、いえ、それは困ります。余計なお金が要りますから。それとやはり韓国と言えども外国何かがあれば困ります。」
「大丈夫ですよ。近々ヨーロッパとか行こうと考えていましたから、何の問題もありません。」
「でもまだ慌てないで下さい。刑事さんから慎むようにとも言われていますから、お願いしたい時がもし来ればその時はお願い致します。」
「良一は笹本さんの言われる事に従いなさい。」
「あぁ」
「笹本さん私あれから呑み屋とかで聞き探っていますが、どうも栄に在るラウンジに江上聡が世話している女性が居てる事が判り、その人の事を調べ始めているのです。
江上聡の元々の客であった関係だったのが、利息が遅れるとか、何か借り方の不都合が生じて気が付けば江上聡の女に成っていた。
その様な関係だったようです。周りのホステスが言っていましたから間違いないと思います。
それを隠しても居ないから事実でしょう。
それでこれから機会を見てその女に近づいて探ろうと思っていましたが、これで仕事をし易くなりました。江上が逮捕されてその女性はどのような態度に出るか興味が在るのです。
これって先ほどのキムさんや山田瑠璃さんと同じ事で、江上聡が逮捕された時、この人達は逮捕されていない時と全く同じ態度なのか知りたいですね双方を」
「ですね、それって面白い考えですね。人の心の内を垣間見るような気がしますね。」
「だから今まで聞かされていた感じではなくなる事も考えられる訳です。それは当人は勿論周りの者も言い方が変わるかも知れないって事だと思います。何しろ夜の蝶なのですから」
「言い換えたらここに事実が在るのかも知れませんね。」
「兎に角何かヒントになるものがないか探って見ます。でも江上聡が居ないって思うと随分楽ですね。」
「ええ怖さが無いから。」
❷
父、篠崎利一が探りを始めだした女性は栄のラウンジ《みやび》と言う名の店で、艶やかなドレス姿の女性たちが舞うような上品でエキゾチックなお店であった。
その中で働く泉美と言う名の女で百六十七センチほどあるスリムな女であった。
端麗でそれは容姿だけにあらず、言葉遣いからしても言える埼玉生まれの女であった。
関東の言葉だから垢抜けしている事もその魅力を増していた。
決して埼玉の独特の訛りも無く完成された女に思えた。父篠崎利一は実はその女が気に成って来て、やがてお気に入りになりそれから何度も通う様に成っていた。
その背景には彼女を虜にしている江上聡が今獄中で手足を縛られている事が、利一を大胆にさせる要因であった。利一は泉美を何時も使命して、側に侍はべらせ優遇されながら楽しい時間を過ごしていた。
とうとう利一は勇気凛々として来て泉美を連れ出してホテルへ時化込む様になった。
ホテルに入った泉美はそれまでの泉美と打って変わって、柵の外れた動物の様に伸び伸びとしていて楽しそうに変化するさまが利一は直ぐに判った。
それは江上聡の呪縛から逃れた誰しもが感じる心の内であった。利一は泉美の事を予めの事は他のホステスから聞いていたので知っていたが、あえて泉美に聞く事にした。
「泉美ちゃんはあの男に幾ら借りているの?」
「そんな事知っているの?」
「知っているよ。泉美ちゃんが可愛そうだから何とかならないかと」
「助けてくれる?無理でしょう。あの人怖いから」
「でも刑務所だから、それに聞けばなんか大きな事もしているって噂で聞いた事在るよ。」
「それって誰かを殺ったって事でしょう。私も聞いたわよ。」
「へえー泉美ちゃんも知っているの?誰から聞いた?」
「本人から」
「何て?」
「だから誰か知らないけど気に食わなかったから黙らせてやったって言っていたわ。」
「それで?」
「だからそれだけ。でもそれからは精々したって言っていたわ。」
「精々したってとはどんな意味なの?」
「判らないけど、相手の人を黙らせたと思うわ。」
「それって」
「そう殺したのかしら。あの人ならありうる話だと思うわ。私も実は同じ思いをさせられているから。」
「それは脅迫?」
「そうかも知れないわ。だって怖いのだもの。絶対服従ね。あの人に逆らう事なんて無理。
だから正直今がチャンスなの、だけど、今の内に埼玉へ帰る事も考えているのだけどお金が在るから、借金が在るから動けないでしょう。だから困っているの。
篠崎さんが助けて頂けるのなら貴方の女に成っても良いけど。でもあいつが出てくれば、貴方もおっかないからお店へ来ちゃ駄目よ。何されるかわかんないから。殺されるかも知れないよ」
「怖いんだね。」
「ええ、恐いわ。何されるか判らないから。」
「どうしてそんな男とこんな風になったの?」
「だって初めはどれだけ優しくしてくるか、今では想像出来ない位、物腰も低く丁寧で、そりゃあの男はその点では天才だと思うわ。
それで気を許して気が付けば地獄のような毎日で、脅されて何も言えなくなるって感じ」
「そうなの。可愛そうに。あんな男、豚箱から二度と出て来ないほどいいね。」
「ええ私は真剣そう思うわ。死刑にでも成れば良いって。」
「でも江上聡は六ヶ月で出てくるらしいよ」
「六ヶ月で。ふーん。あのねえ、あの人何時もナイフを忍ばせているから、篠崎さんあの男が帰って来たら絶対来ないでね。
私を指名して下さるのも私にしては嬉しいけど、他の女の子も居てるからやっかみもある上に江上にこの事が知れたら、貴方が大変な目に遭うかも知れないから」
「そうなの、色々気を使わなければならないのだね。」
「そうよ、あの人は生まれつきの悪かも知れないと思うわ。人間生まれた時は真っ白で、段々色が付いて行くって言われているけど、あの江上聡って男は生まれつき黒って言うか悪だと思うわ今までに人を殺した事もあるかも知れないと思っているの。
だってテレビでニュースなんかを見ていると『殺してまえ!』と平然と言っているわ。
あれって正気な訳でしょう。本質でしょう。無造作に出る言葉は?」
「そうだろうね。私なら絶対その様な言葉は出ないからね。」
「ええ、私も、でもあの男は真剣にテレビを睨むようにして言っているわ。まるで自分が今までして来た事を肯定しているかのように、だからその冷酷とも思える心が怖い事があるわ。」
「そんな事が。疲れるねぇ」
「ええ、何度か」
「生まれつき悪だね。正しく」
「そう。」
篠崎の父利一がホステス泉美と交わした話を良平に話したのは秋も深まって来た時に成っていた。それを聞いた良平はまるで同じ話が江上聡から湧く様に起こってくる事が不思議にさえ思えていた。
平成十二年十月半ばであった。
あと二ヶ月で時効までとうとう一年と成る現実が容赦なく迫って来る事に戦く思いであった。
良平が焦っても踠いても現実は動かないばかりか、無情な思いまでもが色濃くしている始末である。
大阪の山田瑠璃にも会いたい。あの篠崎隆一が熱く言った韓国済州島のキムにも会いたい。
《藁をもすがる気持ちで何かを見つけたい。摑みたい》良平の心の中がロウソクが燃え尽きる時のように、その火が大きく成ったり小さく成ったり、正に燃え尽きる瞬間が近づいて来ている気がして成らなかった。
妻ゆかりと暮らしたのは僅か八年足らず、そしてその妻の亡霊と共に消えそうになる心を感じ、我を取り戻しながら同じことを繰り返し今に至って十四年弱が過ぎた。
なんとわが人生哀れな事か。なんと嘆かわしい事か。
良平はその因果応報をじっくり解いてみた所で、それは意味の無い時間を過ごすに過ぎなかった。
妻ゆかりは特にきつい性格の女ではなかった。山田瑠璃に強く当たり江上聡と別れる事をしぶとく言い続けたかも知れないが、それはゆかりの優しさであった。
ゆかりは幼馴染が不幸の中へ入って行く事が放って置けなかったのだろう。それだけの事である。 それに対して江上聡は都合が悪いから、そして自分の思うように成らないから煩いゆかりを亡き者にしたのだろう。
なんと身勝手な事か。
なんと短絡的な事か。
なんと短慮たんりょな事か。
良平夫妻には何一つ恥じるものなど無いのである。誰が見ても至って健全で端的な生き方をして来た積りである。
そしてとうとう平成十二年十二月二十日を迎える事になった。後一年で何もかもが終わる。犯人が逮捕されない限り何もかもが終わる。
妻ゆかりとも思い出さえ思い出す事が辛く成って来るだろう。言い換えれば良平の半生を封印しなければならないだろう。
良平は重苦しい覚悟のようなものが芽生えている事に気が付いていた。それは犯人が見つからない限り、それからの人生が認められない様に思う事であった。それを認めないものは誰であるかと言えば正しく良平自身であった。
「久し振りに寄せて頂きました。刑事さん何か目ぼしい事が御座いませんか?そろそろ江上聡が出所して来ますから、気に成りまして来させて頂きました。刑務所に居ても何ら進展が無いと言う事は、これから出所したら尚更惑う事に成るのではないかと気掛かりです。」
「笹本さんの気持ちは良く解かりますが、私とて未解決で終わる事など一向に考えておらず、この身を粉にしてでも追求を続ける覚悟で居ます。
しかしながら今の所新たな事実は見つかっておらず、捜査は困窮を極め頭の痛い所です。
しかし私はどのような事があっても諦めませんから、諦める事無く待っていて下さい。最善を尽くします。」
「ええ、解かっております。刑事さんの頼もしいお言葉で掬われる気が致します。
それで今私韓国へ行ってこようと思っています。あのキムさんに聞きたい事がありますから」
「韓国へ、キムさんに、でも私が貴方に言われる様に聞き込みをしましたよ。」
「ええ、分かっております。でもあの人江上聡が逮捕された事は知らないと思います。逮捕された事を知って、それで当分豚箱から出てこない事を知ったら、あのキムさんは若しかすると態度が変わるかも知れないと思って、それは名古屋の私を応援して頂いている篠崎隆一さんの考えなのですが、若しかして何かがありはしないかと思いまして。
それとあの阿倍野で住んでいる江上聡の元恋人山田瑠璃さんにも聞きたい事があるのです。それも今言いました様に、江上聡が逮捕されたから何かが変化がないのかと、これも名古屋の篠崎さんのお父さんが言われまして、私なりに疑問が無いか当たってみる積りです。」
「解かりました。私としては謹んで頂きたいと言っていますが、現に犯人も未だ捕まっていないのが現実ですから、それと江上聡が豚箱に入れられているからその点は安心ですが、もし貴方に何かが起これば、それは大変危険ですが、それって真犯人が現れた事に成り新たな展開に成る事は確かです。
何かがあれば直ぐに警察に連絡を。」
「はい解かりました。とうとうカウントダウンが始まり、現実から逃げられない訳ですから、私なりに、刑事さんが仰る事も確かですが、気持ちが辛くて、居ても発っても居られないのが現実でどうか私の我儘をお許し下さい。これからの一年は悔いの無い毎日でありたいから申し訳御座いません。」
「よく解かります。私とて同じで気持ちよく退職したい訳で、そうですね。後一年泣いても笑っても一年。勝負しますよ笹本さん。」
「はい。」
それから良平は刑事野田に言ったように韓国へ行く事を決めた。
韓国済州島へキム・ハクシンを訪ねて。
それは年が明け大雪が日本中で吹き荒れた時であった。
名古屋の篠崎隆一に声をかけると「待っていました」と言う様に二つ返事が返って来て、同行して貰う事となった。
そして韓国へ。
キムさんと出会う事が出来て早速その話をする事にした。
とりあえず今一番口にしなければいけない事は、江上聡が逮捕されて警察の豚箱に入っている事実であった。
「江上聡が逮捕されたのですか?」
「そうです。だから警察も躍起に成って貴方が言っていた大阪ドーム近くで放火したのではないかと言う話の裏を取っています。
貴方の言うように江上聡が放火した事が判明すれば、あの男は間単には豚箱を出られないでしょう。それを今必死で証言を探しています。」
「それって山田瑠璃さんも知っているのですか?」
「ええ警察が行っています。山田瑠璃さん所へは」
「そうですか。俺は何も貴方方には言えないです。すみません話す事はありませんからお帰り下さい。」
「何故ですか?この前来させて頂いた時、貴方は何か思い出せば山田瑠璃さんに伝えて頂ける事に成っていましたでしょう。今何かを言って頂けないのですか?思い出した事が無かったのですか?」
「いえ山田瑠璃さんに言ってありますからあの人に聞いて下さい。」
「でもどうしてですか?」
「兎に角何も言えません。山田さんに聞いて下さい。」
「解かりました。ではその様に致します。折角日本から来たのですが残念です。もう一度言います江上は豚箱なのですよ。それでも話してもらえないのですか?」
「ええ」
キムの愛想の無い返事に、良平も隆一も苛立ちを覚えながらキムに背を向けた。
「何?あの態度?参利ましたねぇ。」
「そうですね。正しく何かがあったとしか思えないですね。刑事の野田さんが行って、あの男を怒らせたのかも知れないですね。」
「絶対何かがある筈」
「ええキムさん山田瑠璃さんに言ってあるって言っていましたから、大阪へ行って彼女に又聞いてみます。隆一さん折角来て頂いたのにこんな結果で申し訳ありません。
刑事さんもこんな事を繰り返して、それでも犯人に辿り着けない事も在るのですからきつい仕事ですね。貴方にまで苦労に付き合わせまして真に面目ない事で」
「いえっ、人生の貴重な勉強ですよ。でも笹本さんは勉強じゃなく試練ですから全く別物で、どれだけ大変か僕なんかに想像出来ません。
何と言って良いのやら、まるで別世界です。」
「ええ、こんな経験誰もして欲しくないです。私の人生はこれが全てですから。妻が殺されましたから次の人を捜します。赤ちゃんが出来ましたから前の事は忘れます。
今が幸せなら誰も怒らないでしょう。犯人は捕まっていないですが今私は幸せだから忘れます・・・・・とまぁ、私は決してこのような生き方など出来ないのです。」
「笹本さん。僕はよく解かります。僕も同じ気持ちだからです。貴方の気持ちを少しは理解出来ます。だから自暴自棄に成らないで下さい。気をしっかり持って下さい。そして頑張りましょう。」
「ええ、解かっています。大人気ない事を」
❸
遥々韓国まで足を運んだが全く成果のない一日に成ってしまった。二人して名古屋の小牧空港に降り、落胆隠せないままで名古屋名物きしめんを食べる事にした。
「でも何かが在りますよ。あれから今までの間に、あの男様変わりしたって訳ですよ。それって江上聡に何かが伝わり、獄中から弁護士を通じ江上聡の指図で心変わりしたのじゃないでしょうか?」
「かも知れないですね。江上聡に脅されたかも知れませんね。それで急に貝に成った。」
「そんな所でしょう。前と全く違う事は、それって今回全くキムさんに寸志を渡さなかったからって訳じゃないでしょうね?」
「それは違うと思う。もしお金を要求するなら、その様な態度をする筈。でもそれ以前の問題だと思うね。だからこう成っては大阪の山田瑠璃さんに言ってあるって言っていたから、あの人が何かを知っているかも知れないね。」
「ええ、大阪へ行った時聞いて下さい。」
「はい、そのように致します。近い内に行きますから」
「でも何か核心に触れる事が起こっているのではないかと僕は思えるのですが」
「核心に?」
「ええ、何か重大なものをキムさんは知っている可能性が在るような」
「聞いてみます。とにかく」
「ええ、」
それから早一ヶ月が過ぎ、大雪が日本中に降り、寒さが一番厳しい時に良平は山田瑠璃を訪ねた。
山田瑠璃は今までのそれとは違ってふてくされたような態度で良平を迎える事になった。
その態度は先日訪問した韓国の金の態度に似ていて、何か共通点がある事を気付かされた。 『やはり何かがある』と思わされた。
「山田瑠璃さん先日韓国の済州島のキムさんに会って来ましたが、キムさんは貴女に何もかもをお話していていると言っていました。
それでお聞きさせて頂きに来ました。キムさんが何を言ったのか教えて下さいませんか?」
「何故私は貴方に言わなければ成らないのですか?警察ならともかく」
「いえ言わなくっても構いません。私に何の権利も無いのですから、でも警察にははっきりと言って下さいね。そうでないと私の妻が可哀相です。貴女を友達だと信じていたゆかりが可哀相です。
実は貴女も韓国のキムさんも何故か態度が変わりましたね?何故なのです?何か隠された事があるのではないのですか?貴女は私の妻が亡くなっていた現場へ十四年間もお花を供えてくれているのですよ。それって貴女の慈悲の心ではないのでしょうか?
貴女も解決を望んでくれているのではないのですか?
教えて下さい。キムさんとの間に何かがありませんでしたか?江上聡が逮捕された事で何かが変わったのですか?貴方もキムさんも何故か逃げ腰だと言うか、今までの様に堂々とされていない事が気になります。如何です?」
「・・・」
「私は今年で十四年間犯人を追って来ました。妻が殺されてから十四年が経ちます。この間私は笑う事も忘れました。貴方が私の妻を呼び出さなかったら妻は死ぬ事は無かったのです。
それを貴女は悔やんで妻に花を供えてくれているのではないのですか?妻の事を気の毒だと思ってくれてでは無いのですか? もう時間がありません。ゆかりが浮かばれるか浮かばれないか後一年間で決まるのです。
もしゆかりを殺した犯人が判らなかったなら、私も彼女の後を追うかも知れません。悔しいですが、情けないですが、私はそれでも良いと思っています。
二度と同じ事が起こらない事を願って、私は覚悟をしています。意味が無いかも知れませんが人を殺すって事はどれだけ多くの人を傷つけるか犯人にも解かって貰いたいからです。
貴女が何かを隠しているのなら、それは罪に成るかも知れません。これから警察に行ってこれまでの経緯を話して置きます。
何か知っている事があれば言って下さい。それが江上聡にとって致命的に成る事かも知れませんが、あの男には罪を肌で感じなければならない時が来ています。
いま彼は名古屋で付き合っている女性がいますが、その人は江上聡が何をするか分からないから絶対別れられないと言っているようです。
殺されるかも知れないから絶対別れられないと、それに貴女と違ってその人は江上聡を通じて会社からお金を借りているから、決して逃げ隠れ出来ないって。
貴女と同じように江上聡は最初は物腰の低い男で、でも何時の間にか怖い男の成っていたようです。それって女性が口にする同じパターンのようです。貴女以外は。
何故私がこのようにして此方へ来させて頂くのか、貴女が十四年も妻にお花を供えて下さっているのか考えてみて下さい。
答えは一つ、結論は妻ゆかりを殺した犯人を捜す為なのです。」
「・・・」
山田瑠璃は黙ってしまって固くなった。
良平は仕方なく山田瑠璃のアパートから去る事にしたが、大きな壁のような何かにぶつかっている様な気がして成らなかった。
それでも何一つ新たなものは出て来なかった。良平には何故山田瑠璃も韓国のキムも黙ってしまったのかと思った時、監獄で黙している江上聡の力を感じずにはいられなかった。
江上聡がいつかは判らないが、全ての関係者に影響を発揮している事が考えられたからである。
まるで闇の力である。
それは近日に釈放される江上聡が睨みを利かせているかの様な力で、全てを牛耳っているかのような威力を良平は感じる事と成った。
江上聡は六ヶ月の刑期を終えて釈放され見事前科一犯の肩書きをつけて新しい江上聡に返り咲いた。
刑事野田は取り逃がした獲物に落胆の色を隠せない毎日となった。刑事人生の栄光が音を立てて壊れる様に思えていた。
最大のチャンスであった筈が最大のピンチを抱える事に成った。 箔が付いて貫禄が出た江上聡は一瞬の内に全てを取り戻し、今までの地位を確保しながら更に上を目指していた。
それは粛清である。ラウンジ「みやび」の泉美も、顔に大きな痣を作り預金を全部取り上げられた挙句店を去った。
江上聡が囲っていた女であったが、彼が留守中に浮気をした事が命取りと成った。その相手に篠崎利一も含まれていた当然それをちくったホステスがいて、後釜を狙った女の狡猾と嫉妬とやっかみの世界でもあった。篠崎利一は姿をくらまして難を逃れた。
怖さを増した江上聡は、更に度胸も身に付け、表も裏も金融の世界を君臨する事に成る。
白石のバックの下で。
良平は焦って来た。打つ手が無く成って来て、東成警察署の野田刑事を尋ねる事でさえ億劫に成って来て悶々とした日を重ねていた。それは今まさに火が消える如く感じる毎日であった。
刑事野田もまた、桜がいつの間にか散り始め、気が付けば木々は緑一色に成り、やがて暑い夏が来て、脂汗を流しながら、刑事は重い足を運んでいた。あてもない道を。
とうとうあと四ヶ月で笹本ゆかり殺人事件は時効と成る。誰もがその様に思い、自覚して、やがて無情に来る日を断腸の思いで迎える事になる。 それは解決を熱望する者にとっては、「屈辱」の他に言い表す言葉など無い。
刑事野田は三十三年間における刑事生活で、とうとう最後の最後で汚点を作る事になる。
それは幾ら最後のトータルの功績で表彰された所で、意味が無くなる事を当人は百も承知である。
平成十三年十月七日。
良平の電話が成って慌てて出ると、それはまさかと思われたが韓国のキムであった。
そして山田瑠璃から良平の電話番号を聞いた事を知らされた。
「笹本さんお話があります。お会いしたいです。此方へ来られますか?」
「ええ行きます。済州島へ行くのですね?」
「いえ違います。ここは釜山です。釜山へ来れますか?」
「ええ何とかなるでしょう?」
「明日にも着て頂けますか?」
「解かりました。渡航手続きが出来ればすぐにお伺い致します。」
「では必ずお越し下さい。」
「ええ」
「付き次第電話下さい。釜山です。詳しい事はお会いした時に。」
良平は何か訳が分からなかったが、気持ちよく引き受けた。
それには最近危機感が常にあった事が、良平の決断力を増幅させていた。 そして切羽詰った緊迫しているキムさんが眼に浮かんだ。
急いで韓国へ行く準備をして夜明けを待った。翌日釜山に着いた良平は、約束の通りキムさんに電話を入れて待ち合わせる事にした。
キムさんは前回とは打って変わって笑顔で良平を迎えてくれた。
「済みません。遠い所を。俺も態々此方へ来た訳ですから、我慢して下さい。それで今日は何を云いたいかと言いますと、その前に貴方のスマホで何もかもを録画も録音もして下さい。それから始めましょう。」
「解かりました。では映します。これで良いでしょう。一時間以上持ちますから。」
「では始めます。何故この様な事をするのかと言えば、俺が命を狙われているかも知れないと思うからです。
最近不吉な事が起こるからです。誰かにつけられている様な気がして、それは江上聡の関係者ではないかと思うのです。
彼は刑務所から出て粛清をしている事も聞いています。それは江上聡にとって、今一番消さなければならない者は俺だからです。何故かと申しますと、それは江上聡が大阪ドームの近くの民家に火を払った事を俺は見ていたからです。はっきりと。
でも江上聡には言っていませんが、それに彼は俺が見ていた事に気が付いていませんが、でもはっきり江上聡が火を点けている姿を俺は見ています。
もし放火の件で足が付くなら、それはあの男が間違いなくした事で、それを見ていたのが俺ならあの男は俺の口封じに必ず来るでしょう。
俺が見ていた事を知っているのかも知れません。黙っているだけで、いや現に済州島には誰かが来ているようです。
俺は此方に親戚が在るから身を隠して居ますが、見つかれば口封じされるでしょう。
だから万が一の事を考えて、俺の言っている事を全部残して貰おうと思いましてお電話した次第です。この事は以前に刑事さんが来た時も言っていません。
それに山田瑠璃さんにも俺の住処を言えない事も解かって下さい。あの人は俺に取ってお姉さんの様な人ですが、江上聡にとっては元恋人なのです。いや山田瑠璃さんは今でも江上聡の事が好きかも知れません。決して嫌いに成ったとは思いません。
それにこうして貴方が録画をした一部始終を警察に言う事などしないで、その録画を大事に持っていて下さい。必ず利用価値が出て来る筈です。
今それを警察に持って行って江上聡が逮捕されても、貴方の奥さんの事まで繋がらないかも知れません。江上聡は豚箱に入る事に成ると思いますが、貴方の事件は解決しないかも知れません。
そしてあの男は、笑いながら時効を豚箱で迎えるかも知れないのです。だから最低限貴方は、この今日起こった事を生かし悔いのない様に扱って下さい。
仮に俺が殺される様な事に成ってもこの録画は絶対生かせる筈です。俺ははっきり見ていたのです。江上聡はライターで新聞紙に火を点けそれを襖にくっつけて燃やしました。
火は瞬く間に広がり大きく成って、それを江上聡は笑いながら俺が待つ車に戻って来て走る様に言いました。
でも俺は車の中ではなく、実は後ろから見ていたのです。一部始終を。だから間違いなく江上聡の犯行です。
日付は平成九年七月十六日です。場所は大阪ドーム北隣の瓦屋根の北村と言う一軒家です。火をつけたのは江上聡です。以上です。
これでこの電話は通じなくなるかも知れません。とにかく身を隠しますので。」
「有り難う御座いました。キムさん。貴方の勇気に私は感謝致します。お互い幸せにならないとね。頑張りましょう。」
「ええ、お気をつけて。」
「貴方こそお気をつけて。」
❹
スマホの録画を切ろうとしたが、それを止め、去り行くキムさんの姿をカメラで追った。
キムさんはビルの陰に姿を隠し、街路樹の向こうに行き完全に消えた。
それが彼を見た最期に成ってもと不吉な事さえ考える光景にも良平には見えた。
それだけ緊迫した何かを感じていた。
「これで最悪江上聡は放火の罪で禁固刑は間違いない。それも既に前科があり、可成の年月を獄舎の中で暮らす事に成るだろう。ポケットの中のスマホを撫でながら良平は、思いがけない成果に血が騒ぎ始めた事を感じていた。
ジェットに搭乗して小牧空港を目指しながらキムさんが口にした内容を思い出していた。
彼は今口封じの刺客に狙われている可能性が在るから、あんなに態度を一変した事が手に取るように判ったが、姉弟と思っている山田瑠璃でさえ警戒している事を匂わせていた事が意外であった。
それは名古屋の父篠崎利一氏が口にしていた山田瑠璃に対する不信感に繋がった。
まさかと思われたが良平は、十四年間妻ゆかりの事件現場に、花を供え続けてくれている人を疑うような事は出来ないと思いながらも、今日のキムさんの態度から何かが引っかかって来ている事を感じた。
山田瑠璃は恋人江上聡が、殺人を犯す事などありえないと言うような一辺倒な言い方を警察にしている可能性が在るかも知れないと、十四年間で始めて気が付いた。
江上聡を助けたい為に、良平が思う真逆の力が働いているかも知れないと思えだしたのである。
それはキムさんがこの場に及んで山田瑠璃のことを相当警戒していると感じたからである。
江上聡の大きな罪の証拠と言うか証言をキムより手に入れた良平は、何時も心配してくれている名古屋の親子にプレゼントする積りで、一目散に名古屋を目指していた。
江上聡が手錠を嵌められ降参する日が遠くない時期に来る事を目頭に浮かべながら、興奮気味にタラップを降りた。
磯崎の家に着いた良平は元気な声で「ご免下さい。大漁です。」と声をかけた。
磯崎利一氏が出てきて目を丸くして「何か捕まえましたね。」と笑顔を作って良平を出迎えた。
直ぐに隆一も飛んで出て来て玄関先で三人は久し振りに笑顔に成った。
「さあお上り下さい。大漁ですって?」
「ええ、お父さん、それに隆一さん大きな獲物が掛かりましたよ。鯛より大きな獲物が」
「それって何だろう?江上聡ですか?」
「実はね、さっきまで韓国の釜山へ行ってきました。それであのキムさんと会ってきました。」
「キムさんと?あの無愛想だったキムさんと?釜山で?」
「そうです。とりあえずこれを見て頂きましょう。驚きますよ平はスマホに納まったキムさんの動画を全て見せた。
篠崎親子は終始溜息を交えてそれを見入っていた。見終わった時隆一が興奮して良平に、
「やりましたね。良かった。とりあえずこれで何とかこぎ着けた訳ですね。後は仕上げに成る訳で、江上聡も観念するのじゃないのですか、ここまで来れば。」
「そうだね。よくやりましたね。笹本さん。実は名古屋の栄のラウンジ「みやび」で働いていた女性が顔にあざを作ってどこかへ消えたって事を聞いたから、江上聡って酷い奴だと思っていたのです。それでこのキムさんの言い方だと、江上聡は韓国まで手を伸ばしキムさんを追いかけていたのですね。」
「ハッキリしていないですがその様です。でも彼は韓国では土地勘が在るから捕まらないと思いますが、それにしても物騒な男ですね。江上聡って」
「笹本さんそれを警察には、今は持っていかないのですね。キムさんが言っているように」
「ええ、だからもし私に何かがあればお二人で警察へ行って下さい。お願いしておきます。隆一さん、これをそっくりコピーして置いて下さい。」
「判りました。」
「でも本当はそれを直ぐに警察へ持って行けば、少なくともキムさんの安全は確保出来る事は確かですが、笹本さんにキムさんがまだそれを警察には持っていかない程良いって言ったのですね。」
「そうです。自分の危険を省みないで」
「だから父さん、キムさんは自分の事だけを考えていたのなら警察へ言って何もかもを口にすればそれで済む話だと思うよ。態々笹本さんに電話して呼び出さなくっても。」
「そうだね。キムさんも笹本さんが長年犯人を探している事を知っていたのだろうね。だから見るに忍びなくて、気の毒で、多分私たちと同じ気持ちに成ったのだろうね。」
「そう、きっとそうだよ。」
「だったら彼の気持ちを大事にしてあげないとね。」
「ええ、隆一さんの言われるように、この際、これを担保にして十二月二十日まで一心不乱で猛突進しようと思っています。一部の悔いも残さない為に。」
「そうですね、笹本さん僕らで出来る事が今あれば言って下さい。何でも致しますから。」
「ええ有り難う御座います。」
良平は証拠の動画を隆一のスマホにコピーして貰い、万が一があっても万全にしてから名古屋を後にした。
キムさんの事は納得したのでスッキリしたが、彼が山田瑠璃を今は信用出来ないと言った事が引っ掛かっていた。 山田瑠璃が一体どの様な心なのかと探ってみる必要があると思い出した。
先ずあの人がこの十五年余りに渡り、妻ゆかりの殺害現場に花を供えてくれている事を、あの人は本当はどのような気持ちで花を供えてくれていたのかと思う様に成って来た。
ここに至って良平には判らない何かが潜んでいるのではないかと勘繰っていた。それは先日の今までに一度も見せたことにない態度からも引っ掛かっていたのであった。
そしてそこを紐解けば、山田瑠璃と妻の関係が尚鮮明になり、妻が殺された訳が判るのではないかと思う様に成ってきた。
その事は今まで一切考えなかった事で、良平には妻の過去をほじくる事など決して夫として許されない事と思っていたから、タブーと思い封印していた。
勿論全てが嫌な事に通ずるとは思わなかったが、大好きな妻に対して、それはルール違反で失礼でも在ると考えていた。しかし半面で後僅かの日にちに成った「時効」までに、悔いの残らない様に万全を尽くしたかった。
その様に思う気持ちが高まり妻と山田瑠璃との知らなかった関係を是が非でも知らなければならないと思い出したのである。
妻ゆかりも山田瑠璃も共に四国土佐の生まれである。あの坂本竜馬記念館の近くで共に生まれている。だから幼い頃は共に桂浜で砂遊びをした仲であったらしい。 そして共に中学さらには高校と同じくして進み、それからは共に大阪に出て来て、まるで示し合わせた様に同じ道を歩んで来たようである。
ゆかりと良平が知り合った頃は、山田瑠璃との間に何があったのか等知らないが、良平は妻ゆかりに何だかんだと相談に来て頼っている山田瑠璃をよく見かけている。
良平はそんな山田瑠璃の事は気に成らなかった。他人の女は綺麗だとか言う言葉が在るが、山田瑠璃を決して綺麗などとは思わなかった良平は全く関心など無かった。
山田瑠璃は良平の評価が示すように、結構小太りでめがねを掛けていて、それで決して女のしとやかさとか妖艶とか何処を見ても浮かんで来なくて、男が見れば殆どの者が敬遠したくなるタイプの女であった。
その山田瑠璃を江上聡が好きに成ったと言う事は不思議と思われるが、江上聡は山田瑠璃の何が目的であったのかは計り知れない。
案外抱いてみるとその小太りの体が堪らなかったのかも知れないし、お金を何とか工面する山田瑠璃の健気さが愛しかったのかも知れない。
共に大阪に出て来てゆかりは私と知り合い、山田瑠璃は江上聡と知り合う事になるのであるが、それまでの遍歴など誰も知らない。
その部分を知らなければ埒が明かないかも知れないと良平は思い出したが、「さてっ」と溜息を付くだけであった。
ただ普通考えれば山田瑠璃は女としておそらく江上聡が初めての恋で、それからの事は何も無く、もし江上聡が全ての過去であるなら、彼女は今阿倍野で一人暮らしなどしていない可能性が在るわけで、あのキムさんが気にしていた江上聡との関係もとっくに終わって居なければならない。
若しかしてゆかりが殺された現場にお花を供えてくれている事など、とっくの昔に止めていただろう。要するに言い換えれば、山田瑠璃は今でも江上聡を思い、ゆかりの事を悲しみ、花を供え、彼女の心はそこで止まっている様な気がして来た。
良平はいよいよ山田瑠璃に会いたく成って来て、心が逸って来る事を感じていた。
今更巡りくどい事をしている場合ではないと、逸る気持ちが焦りに変わっていた。
翌日良平は山田瑠璃を尋ねていた。
「山田さんお久し振りです。何度もすみません其れと何時もお花お供え頂きまして有り難う御座います。
先日韓国へ行って参りました。貴女がキムさんに私の電話番号を教えて頂いたようで有り難う御座いました。良い話を聞かせて貰いました。ただ大した事は無かったのですが。」
「そうでしたか。キムさん元気にされていましたか?」
「ええすこぶる元気で。」
「そうですか?でも可笑しいのですよ、あの人と連絡が付かなくって困っています。ご主人は間違いなくキムさんにお会いしたのですね?」
「ええキムさんにお会いしましたよ。」
「それは何時の事でしょうか?」
「貴女に、彼が私の電話番号を聞いた翌日か、その次の日だと思います。急いでいましたから」
「そうですか?済州島ですね」
「ええ、そうです。何か?彼に用事でも?」
「ええ、ちょっと。ところで彼は貴方に何を言っていましたか?」
「たいした事ではなく、以前刑事さんに頼まれていた事を言ってくれただけです。」
「刑事さんに?」
「ええ、でも誤解でした。たいした事ありませんでした。」
「そうですか。それなら良かったですね。何か判りませんがたいした事じゃなかったのなら」
「ええ、それより思いがけない韓国旅行が出来て楽しかったです。」
「済州島は綺麗でしょう?」
「ええ、とっても。」
「何処へ行かれましたか?」
「いやぁロッテの免税店が一番印象に残っています。」
「そうでしたか。男の方でも買い物が好きな方が居られるのですね。」
「ええ、もし妻が生きていたなら高く付くだろうと思いました。」
「なるほどね。」
「ところで今日お伺いしたのは、最近気に成っている事がありまして、それは江上の事ですが、貴方にお知らせしておく程良いかなと思いまして、他にも用事があり来させて頂いた訳です。
この前も言いましたが、最近名古屋のラウンジで働いていた女性が名前は泉美という方ですが、顔に青あざを作り名古屋から出て行ったようです。多分思い切り殴られたか痛い目の遭わされたようです。夜に働く女性の顔を傷付けるような事は誰もしません。もしその様な事をする者は、その相手に相当恨みが在るとか、やっかんでいるとか、何か怨念めいたものがあると思います。
その女性を痛めつけたのは江上です。今までもてあそんで刑務所から出てくるなり、彼女を直ぐに暴力で脅迫したようにして追い出したのです。」
「それは前にお聞き致しましたね」
「その追い出すように仕向けたのが、今江上の女に成っている「凌香」って子です。中国籍だと言っています。江上は私が知っている範囲でも、女性関係のトラブルが可成あると思われます。事件になりそうな事例も聞いています。
貴女の場合もその類かも知れません。
実際江上は貴女にお金を返していないのですから、取り様によっては犯罪です。でも貴方は一切その様な行動に出ようとしないのは何故か知りたいのです。
貴女と江上に、何か私に言って貰えていない何かが在るのではないかと思う事もあります。
それに貴女と妻の間にも何かがありはしないかと思う事もあります。嫌われるお湯なことを言って申し訳ありませんが妻の事件の時効が迫っているのです。失礼をご勘弁ください。
それで貴女がこの十五年近くもの間、妻にお花を供えて下さるのも、何か他に理由が在るのではないかと思う事もあります。
何故なら未だに妻殺しの犯人が見つかっていないからです。真に申し訳ありません。貴女に在らぬ事を考えてしまって、でも後僅かで妻殺しの犯人は普通の人に成るのです。
十五年逃げ続けた者に罪の意識など全く無く、生涯気にしていかなければ成らない人生に成るって事は、それは常識のある善人しか思わないのです。つまり被害者の関係の者だけなのです。
犯人は絶対考えないでしょう。寧ろ十五年逃げ続けた事を誇りに思うでしょう。」
「待ってください。ご主人の気持ちはよく解かります。だからと言って私が何かを隠していると言う事に繋がるのでしょうか?」
「ええ、それは飛躍したとっても失礼な言い方かも知れません。
でも今日此方へ来させて頂いてからでも実は引っ掛かる事があります。それは貴女がキムさんの事を何度か聞かれた事です。
貴女は今キムさんを捜しているのでしょうか?
貴女が口にしている事は、実は江上に頼まれたのではないのでしょうか?キムさんは貴女の事を気にしていました。
❺
だから結果的にあの人は直ぐに電話を変えると言っていました。
それは貴女に住んでいる所を知られたくないからです。貴女に知られても良いかも知れませんが、貴女の後ろで居てる江上に知られたく無いからです。
先ほどから貴女の言葉使いを気にしていました。そして貴女は江上に頼まれてキムさんを捜している事に気が付きました。だから私はキムさんの立場を考えて全ては口にしていません。誤魔化しもしました。それは彼がその様に私に言ったからです。私が言っている事は間違っているでしょうか?」
「・・・」
「はっきり言いますキムさんは江上も貴女の事も信用出来ないのだと思います。
貴女はキムさんを今まで面倒を見て来てあげていたと思います。でも貴女は江上の恋人です。
それは今でも続いているとキムさんは思っています。だから江上が貴女にキムさんが邪魔に成ったからと言えば、貴女はそれに従うかも知れないとキムさんは察したから、電話を切って消息を絶ったのです。
もう二度と貴女の前にも江上の前にも現れないと思います。勿論私にも彼が何処で生きているのか等判りません。
私は江上を妻が殺された時に一番疑わなければ成らない人であったと今でも思っています。他の誰にもない妻を憎んでいると言う動機があったからです。警察は江上を任意で連行して調べた事もあり、江上が自供すれば何もかもが解決出来るのです。」
「でもしなかったと言う事は江上さんがご主人の奥さん、いやゆかりを殺していなかった事でしょう。自供をしなかったって事は?」
「そうでしょうか?私はあの時の事を振り返ってみて、あの時、周りに居た人の事を考えてみたのです。警察は百七十五センチ以上の男と暫定して捜していました。
でもあの背格好を口にしなかったら、全く別な結果に成っていたのではないでしょうか?
詰まり周りの人に犯人の背丈を百七十五センチ以上と言わなかったなら、違った結果になっていたと思われます。
例えば貴女が江上の事を、犯人はこの人かも知れないと思った場合と、絶対この人ではない筈と無理にでも信じようとした場合とでは、全く結果は違う訳です。
記憶そのものが違った形で頭から出て、言葉に変換されるのではないでしょうか?
その態度に警察が来た時も江上でさえ笑うしかなかったのではないでしょうか?
ところが警察が江上を犯人と暫定して貴女の家を訪ねていれば、江上は犯行を隠す為に声を震わせ、刺々しいとか普通ではない態度に成っていたのではないでしょうか?
当然貴女がもし知っていたなら唯事ではなく狼狽えているかも知れません。
ちょっとした捕え方の違いで大きく結果が違って来る様な気がします。
貴女が妻の亡くなった現場にお花を供えてくれているのに、こんな話を持ち出して申し訳なく思っています。
でも知りたいのです。解決しないといけないのです。貴女に申し訳ないですが、私は江上が今でも犯人ではないかと思っています。貴女がその様に思った事は一度も無いかも知れませんが、私はその様に思っています。そして万が一事件が時効に成っても、私は犯人を死ぬまで追い詰める積りです。
決して犯人に安楽の地など無いのです。」
「ご主人、お話を遮って申しわけあけありませんが・・・よくわかりました。気持ちをお察しします。
お話はそれで良いのでしょうか?同じ事をくどく言われても私も血の通った女です。聞き捨てならない事も聞かされている様に思います。
これで失礼致します。二度と来ないで下さい。失礼致します。それともう二度とお花を供えには行きません。失礼します。」
山田瑠璃は相当怒っている姿を良平に残してドアを閉めた。
良平は山田瑠璃が初めて見せたその荒々しい態度に驚かされた。
しかしそれは彼女が始めてベールを脱いだ瞬間でもあったと良平には思えた。
僅かであったが彼女が守っている牙城の積み石を崩し始めた様な気に成った。
それは山田瑠璃が江上を必死で守っている姿が眼に浮かんでくる事に繋がっていた。
良平は、
『この女には何かが、人に言えない何かが、絶対潜んでいる事は間違いない。』とその時確信した。
串本に引き上げた良平は、これとて打つ手を思いつかず、結局カレンダーに過ぎた日に×印を毎日書くだけを繰り返していた。そして十二月二十日だけを赤で丸を入れていた。
そしてその後何日予備が在るのかとそれも考えていた。江上が韓国済州島へ何回かカジノなどする為に行っていた事をキムさんが言っていたので、韓国で泊まったその日数を加算出来る事を知っていたから、それも気に成った。
今は平成十三年十一月である。あと数日でカレンダーも捲られ最後のページを残すだけである。
赤で囲まれた十二月二十日の日が、否応無く目に入る事になる。もし犯人を見つける事が出来なかったら断腸の思いでその日を迎える事になる。
そんなデリケートな心に成っていた良平に思いがけない事が起こる事となった。
それは良平にとって予期せぬ恐ろしい事が起こる事に成った。
久し振りに漁に出た良平は、たいして漁もなく僅かの魚を魚籠に移していると、何処からか漁師仲間の矢作徹が車で遣って来て、波止場から良平に声を掛けた。
「久し振り良ちゃん。」
「あぁ久し振りです。」
「良ちゃん、頼みが在るんだけど。」
「なに?」
「明日内のお客さんで、何時も小割り(筏)に乗って貰っているお客さんなんだけど、小割の修理をしなければ危ないから、明日は使えなくなってそれで良ちゃんの事を思い出して、それであんたの船で釣りをさせて貰えないかと思って。お客さん三人来るのだけど構わないかなぁ?」
「良いけど。三人だね。調度四人までなら大丈夫だから構わないけど」
「では頼んでおくから。明日の朝六時で」
「あぁ解かった。餌や道具なんかは持って来て貰ってね。」
「ああ。解かっているよ。」
これまでに何度か同じ事をしている良平には、全く問題などなかった。寧ろ思いがけない臨時収入が入ってくる事が逆に嬉しかった。
翌日になり朝まだ真っ暗な中で良平はお客さんが来るのを待った。
それでも心の中では決して穏やかではなく、気が詰まる思いで毎日が過ぎている事をひしひしと感じていた
あと僅かである。
妻殺しの犯人が逃げ切れる迄の期間は一ヶ月を切っていた。
それでも良平はその頃になると逆に落ち着き払っていた。
既に心の中でどうにも成らないもどかしい現実を受け止めていたのかも知れない。そして担保にしているスマホの動画があったからかも知れない。決して最悪でない事も判っていた。
東成警察署へ行って野田刑事に何かを言ってもそれは嫌味に過ぎないと妙に良平は気を使い、何もかもを判断しなければならない環境に陥っていた。
刑事野田はおそらく後一月足らずで時効を迎え、彼自身もそれから数日で退職に成るわけで、それも断腸の思いでと言うおまけが付く訳であるから、それは野田にとって、刑事生活で最大の汚点であると判断する事は誰もが判る訳である。
彼は百%の検挙率を誇る刑事だからである。
後二十五日で何もかもが終わるかも知れない。
良平は心が固まる気がして来ていた。朝を迎えるのがこれほど辛いかと毎日感じている日が続いていた。
船の近くの波止場に車が止まった。
そして三人の男が近づいて来て、みんな合羽に着替えて良平に声を掛けた。
「おはよう御座います。今日はお世話になります。」とニコニコ顔で話し始めた。
「宜しくお願い致します。」
三人を船に乗せ港から離れて魚場へ向かって行った。
まさかそれがあの二年ほど前串本に来て不吉な動きをしていたやくざ猪原周吉と田戸博などとは全く気づかず、良平は漁場に着いて碇を下ろす段取りをし始めた。
そしてもう一人の男は嘘でもないあの江上聡であった。
良平には面識が在るにはあったが、それは名古屋の白石ビルの横の喫茶店で横向きの顔を見ただけであったから全く気付かなかった。
それに何度も見ている筈の他の二人にも気が付かなかった。まさかと言う気持ちと、合羽を着ている事が良平を惑わせていた。
更に漁師仲間の矢作徹が持って来た話である事も手伝って、何一つ疑う事無く漁場につき碇を沈めていた
「さぁ皆さん釣って下さい。昼二時までです。存分に。」と元気よく笑いながら言って操舵室に入った。
三人がせっせと釣り道具の支度をし始めたが、その一人に二人が付きっ切りである。
そしてその男はタバコを吹かして悠然と座っている。まさかそれが江上聡である事など全く知らない良平は、上手く仕掛けが出来ない三人に痺れを切らして手伝う事にした。
何とか仕掛けが出来ていざ釣り始めた三人は、キョロキョロとして落ち着かない様子であるので、何か普段の釣り客と違う事に良平は違和感を感じる様に成って来た。
冬の釣りは地味で何も掛からずに帰る人も可成数える為、良平は決して上手ではない三人を見て見ぬ振りをして時間が経つのを待っていた。
昼の二時まで我慢すれば、一人当たり六千円が貰えるのだから我慢、我慢と思っていた。
周りの二人に仕掛けを作らせていた男が、「寒い、寒い」と言って操舵室にやって来て、良平の横に突っ立って良平を見つめて、
「寒い!寒い!」と又声を出し、
「冬の釣りは性に合わんねぇ」と言った。
「お客さんまだ始まったばかりですよ。そんな温そうな防寒着を着ているのに頑張らないと」と良平は励ました。
しかしその客は、
「あの船頭さん、藪から棒におかしな事言いますけど、釣りも大事やけど他に用事がありますね。
あの二人は名古屋の石田組の残党で、石田組は名古屋港の港湾の役務をしていた組で、歴史が在ったのですが上手く行かず昨年解散と成り、それであの二人がわしの組に入って来たのですわ。
わしが面倒見てあげるって事で。
それで聞けばこの串本でマレーシアの船が座礁して、その時に石田組が受ける筈だった大事な荷物がその船に乗っていて、それがこの海に漂流してあの二人が躍起に成って捜していたら、大島の近くでその荷物らしい物を船で拾い上げる船があって、よく見るとその船は【ゆかり丸】って書いてありそれがこの船のようです。心当たりありませんか?」
「行き成り何の話ですかな?それって私の船が・・・」
「そうです。判ってくれていますなぁ?十五センチか二十センチ程の四角い箱ですわ。」
「知りませんよ。何かの間違いでは?」
「本当に?」
「知りませんよ。一体何が入っていたのですか?」
「何がって?そんな事聞いても船頭さん、あんたそれを聞いてどないする積りです。」
「いえ、そんなに大事な物なら警察か海保に言って見ましたか?。」
「それが出来ん事あんた判りませんか?出来たら苦労しますかいな。」
江上はやや興奮したように声を荒げて関西弁で良平を見つめながら答えた。
その内他の二人も気に成ったのか釣りを止めて操舵室を取り囲んだ。
そして良平も顔を見た事があると気付いて来て、その男の一人猪原周吉と目があって、
「あんたセンカイで交通事故をした人ですね」と声を掛けた。
「そうや、船頭さんあんた箱を海で拾ったでしょう?それこちらへ貰わないと大事な物だから、命と同じ位に大事な物だから、よく思い出して、拾い上げた事を見ていたのだから」
「でも何を言っているのか知りませんよ。それって何時の事です。」
「嘘を言わんで下さい。船が座礁して一週間後位に、大島の北詰の百メートルほど先で。知っているでしょう?確かにこの船で拾い揚げている所を見たのだから」
「何処から見ていたと言われます?」
「大島から。」
「でもあの頃は漁が多くて、あの辺で何時も船の掃除をしているから、若しかして何かを拾っているように見えたかも知れないけど心当たりありませんなぁ。」
「しらばっくれて船頭さん、只で済まないからな。気をつけなよ。」
「おい、猪原お前こそ気をつけてものを言え!」
「江上さん、この船頭しらばっくれていますよ。俺確かに見たのだから」
「そうですって船頭さん。こいつもこう言っていますが事実はどうなのです?」
「絶対この船の何処かに隠して在るかも知らないと俺は思っている。」
「そうなのですか?船頭さん。
❼
この船の何処かに乗っているって言っていますわ。何処かに隠してあるとこいつらが言っていますわ
何なら若い奴が言う様にこの船を買い取りましょうか?
それで木端微塵にすれば必ず判りますわなぁ。この船って幾らしますか?三百万?四百万?もっとでも出しますよ。
何故ならその箱には何千万円の大事な物が入っているからです。だから今直ぐにこの船を買い取っても構いませんよ。
でも、もしこの船を一センチ刻みにして、この男たちが言っている様に我々の荷物が出て来たら、船頭さん覚悟して下さいや。この船を呉れって言ってませんから買うって言っているのですよ。」
「知りません。変な事を言うのでしたら、これから海保へ走りますから。釣りはしないのですか?しないなら帰りますから」
「なんだと、てめぇー」
「止めろ!。やめんかい。いや待って、船頭さん、そうか悪かったなぁ。気を悪くされましたか?よく判りました。もう二度と言いませんから水に流してくれますか?」
「貴方がた何なのです。もし同じ事を口にしたら直ぐい帰るか海保へ行きますから」
「判った、判った、船頭さん。」
「あそこに見えていますから海保は」
「判りました。」
江上は思惑通り行かない事に苛立っていたが、それでも大物の兆しを感じる風情であった。
怒り出した良平を落ち着かせようと繕つくろっていた。
江上を前にして、良平はこの十五年近くの出来事を思い出さずにはいられなかった。ゆかりが血まみれに成って冬の冷たいコンクリートの歩道に仰向けに倒れ、両手を広げて眼をむいていたその姿を。
見ればその着ている服にはこれ以上血が出ないほどの血で濡らし、ラメの入った刺繍で飾られた服は、真っ白の筈が真っ赤に成っていた。
服の真ん中に描かれた魚の鮃ひらめの刺繍は、前日に妻から見せられた時の面影は全く無く、その姿さえ真っ赤な血の中に埋もれていた。
その鮃の刺繍が入った服は、山田瑠璃の妹山田紗希が刺繍の仕事として始めた第一号の作品であった。
良平は妻ゆかりからその事情を聞いて前日興味を持ってそれを見せて貰った。嬉しそうに妻ゆかりはそれを着て部屋中をくるくる回り楽しそうに鏡の前に立っていた。
それが殺される前日の事であった。妻ゆかりは同級生だった山田瑠璃より、時たま姉に連れられて来た妹の紗希の方が気に入っていたようであった。
良平も同じで妹は素直な所が可愛かった。勿論容姿も紗希の方が一枚上で、男から見ればそれは一目瞭然であった。
姉と違って恋も重ねていて、常に明るかったので、良平夫妻は妹だけが来てくれないかとさえ思った事があった。
その紗希が二十代後半に成って始めた刺繍と言う仕事を、妻ゆかりは祝う積りで第一号のお客さんに成ったのである。
その品物が殺される前日に届いて、何時の日か姉瑠璃にそれを見せる事をゆかりは企んでいた。
それは何もいけない事ではなく、何となくその服を姉に見せ『格好いいでしょう。』と言う積りであると、妻ゆかりが口にして笑っていたのである。そして、『これ妹さんが作ったのを買ったのよ。』と楽しく言う積りであった様である。
頑張っている妹を形で見せ、姉瑠璃を安心させるために。
船の中は一変して険悪ムードに成り、江上はその雰囲気を逆に元へ戻そうとしていた。
良平は思わぬ展開に逃げ出したい気もあったが、目の前に表れたドジョウを捕まえたい気持ちの様なものが芽生えて来て、闘志さえ何処からか湧いて来ていた。それは長年積み重ねた怨念の塊であった。
誰にも負けない執念でもあった。 子分の猪原周吉は時折良平の顔を睨みながら疑心をぶつけて来たが、江上は黙って又魚釣りを始めだした。
それには着いていけなとばかり田戸博も猪原の近くへ行き、床に在る角材を持上げて船の淵をこついた。
操舵室から良平は彼らを見つめながら船のキーを抜いて海へ飛び込む事も考えて様子を伺っていた。
江上が竿を触っていたが決して釣には成らず後へは戻れないムードが漂い続けた。
海はそのムードと示し合わせたかのように、時化しけてきて碇を吊るすロープがきしめいていた。
時折大きな波が船の横にぶつかり大きく揺れて、とうとう田戸博が沈黙を保っていたが、船酔いに襲われ俯きだした。
不安そうに他の二名は顔を見合わせながら、仕方ない様でばつの悪そうな感じで釣りをしていた。
波は更に荒く成って来て、江上が立ち上がって操舵室にやって来たので、 「お客さん変な事もう言わないで下さいね。頼みますよ。」と良平はきつく口にした。 その時江上も船酔いが始まっていた事が分かっていたので良平は態度を横柄にしていた。
二人のやくざは又揉めるといけないと思ったのか、操舵室には来なかったが、いつでも良平の首根っこを締め上げて、吊し上げる事など可能であると言いたい様な顔つきをしている。
只それでも田戸博は船酔いに襲われ今にも戻しそうな顔色に成って来ていた。
良平は危険を感じて、
「お客さん、そろそろここは波が荒く成って来たので危険ですから、場所を変えさせて頂きます。」と穏やかに口にした。
「俺降ろして貰えない?」と戸田博が堪らないような言い方で船頭と江上の二人を見つめた。
良平は碇を吊り上げて船底に下ろし船を岸壁の方へ走らせた。高速で走り出すと酔い掛けていた江上は元気を取り戻し、結局二人の若いのが船を下りて、然程酔っていない江上と良平が再び釣りに出かける事となった。
江上は良平に、
「さっきからは悪かったなぁ。あいつら諦めが付かんのか知らんけど、何時までも言いやがって。石田組で起こった問題は石田組で解決しやな。あいつら元石田組は大した事あらへんわ。しつこいわ。往生際が悪いわ。所詮雑魚や」
「・・・」
「今日の話無かったことに頼むで船頭さん。それで今度は何処へ行くんや?」
「もっと波がおとなしい所へ行きますわ。」
「やり直しやな。あいつらぶち壊しやがって。」
「さぁ釣って下さい。まだ何も釣れていませんから。私矢作さんに怒られますわ。」
「よっしゃぁ。わしが釣ったるで。」
今度は碇を下ろさず船を固定せず、流れに合わせて帆を張って靡なびかせ流し釣りをした。 船尾で良平も江上もお尻をつき合わせる格好で釣り始めた。直ぐに江上が竿を曲げ大きな魚が顔を見せた。それは護摩鯖であった。それでも江上は嬉しそうに良平を見つめて笑顔に成った。
朝からの出来事など忘れてしまった様な雰囲気であった。
今度は良平の竿が曲がり、カワハギの大きいのが掛かっていて、二人で顔を見合わせながらお互いに称え合った。
共に十匹ほどの魚をゲットして、気が付けば既に十一時前に成っていて操舵室に入り、小休止する積りで良平は立ち上がって江上に声を掛けた。
「休憩します」
そして江上も同じように立ち上がろうとした時、大きな波が船の横っ腹を叩き大きく船は揺れて江上は横に倒れ、そして先ほど良平が揚げてあった碇の下敷きに片足が食い込んでしまった。その碇に押さえられた片足は振られた上半身に逆らって片足だけが取り残されるように抉えぐる様に碇にまつわりついてしまった。
「うわー痛い。うわー痛い!」
いつの間にか海が荒れて来た事で、波が高く成って来ていたので船底は波しぶきで相当濡れていた事が災いした。
「うわぁーうわー痛い」と唸り声を江上が立て続けに出して俯いた。
よく見ると江上の長靴は不自然な方角を向いている。
それは足首のあたりで骨が折れた事を表している。足首から先は決して真っ直ぐではないのである。
江上は痛さのあまり声を出す事すら出来ずに、十一月の寒空であったが湧き出るような脂汗を滲ませながら堪えている。
江上が肘を付き仰向けに体を起こそうとした時、防犯着のボタンが外れその時ポケットか何処かは判らなかったが、コトンと音を立てドス(ナイフ)が床に落ちたのである。
それを見つけいち早く拾い上げた良平は、
「あんたこんな物持って、これで魚の料理するのですか?一体ここへ何をしに来ましてん?」
「関係ないやろあんたには。痛い!堪らん!病院へ早く電話してや。我慢できんから。
はよーしてや。こんな所へ碇置きやがって」
「すまへんなぁ。気の毒に骨折れたかも判れへんなぁ。これって、こんな物騒な物人でも殺せますなぁ。殺した事あるんと違いますか?私に使う積りでしたんか?私を脅す積りだったんですか?」
「余計な事言わんと、早う連れて行かんかい」
「あんた足潰れていますわ。」
「う~痛い。う~」
「足反対向いていますわ。折れていますわ。」
「碇をどけて、碇をどけてくれや。救急車はよぅ呼んでくれや。」
「江上はん、あんたしっかり聞きや。あんた大阪の山田瑠璃さん知っているなぁ。岐阜の立花あかねさんも知っているなぁ、栄の泉美さんも知っているなぁ。済州島のキムさんも知っているなぁ」
「なんやあんたは?あんた何や?あんた誰や?何者や。病院は?これ何やね?死にそうや。頼む。碇を・・・」
「みんな判っているで、あんたが大阪ドームの近くで放火した事も」
「知らん」
「見ていた男が居った事知らんのか?」
「知らん」
「これ聞いてみるか」
「なんや?」
「これはキムさんが証言しているテープや。今頃警察でしゃべっているわ。あんた新聞燃やし襖に火を点けたやろ」
「知らん、畜生!病院はまだか。救急車よばんかい?」
「呼んだるから、あんたの口で言い。私がやりましたって。私が火を点けましたって。」
「・・・」
「はよ、言わな。救急車が来ませんで」
「キムがしゃべったのか?キムがばらしたのか?
分かったわしがやった。わしがふすまに火を点けた。痛い!怒りをよけてくれ!碇が食い込んでいる痛い!痛い!痛み止め打ってくれ。頼む!頼む!」
「まだ在るで、このドスであんた女殺したやろ。大阪で、今里のロータリーで。山田瑠璃が言っていたで」「あほなぁ」
「あんた殺したやろ。山田瑠璃が言っていたで・・・」
「知らん」
「いや知っている」
「知らん。」
「言わな、あんたこのままやったら病院へは連れて行かんからな。早う言い、殺したやろ?」
「・・・・」
「殺したやろ山田瑠衣が言っていたで」
「そんな事在るかいな。あいつがそんな事言う訳無いやろ」
「なんでや?あんたが殺した事知っていたわ。」
「そんな事無いって、救急車はまだかいな。
狂いそうや。助けて頼む。碇よけてえなぁ。」
「何で殺したんや 」
「知らん」
「何で殺したと聞いているんや。」
「知るかい。覚えて置けよ」
「あんた私が誰か知らん様やな。私はあの今里で殺された女の亭主や」
「なんやて。」
「そうや残念やな。時効になる所やったのに、残念やな。」
「わしは知らんで」
「そうか、しかしあんたは今日ここで死ぬんや。私の女房を殺した罪で。今何もかもを言ったら助けたるわ」
「お前、いい加減な事言いやがって、承知せいへんからな覚えておけよ。」
「どうや、正直に言わな。嫁を殺した事を。 早う言わな。血が出ているからあんたほんまに正直に言わな知らんで。碇で押さえている所血が腐ってくるで、この儘で居ったら足首は切り落としやな。
私がやったんと違うで。あんたが勝手に転んだだけや。このまま足腐ってもしゃないわなぁ。なぁ早う言わな。殺したんやろ内の嫁を殺したんやろ。」
「・・・」
「早う言わな。あんた死んでしまうで。エンジンかけてもっと外海に行こうか?救急車も病院も無い所へ」
「・・・」
「あんた殺したんやろ。痛み止め打って欲しかったら、正直に言いや。言えへんだら、あんたこの儘足が無い様に成るで。
ほら寝たらあかん。頑張らな。早う言い。命も無い様に成るで・・・」
「・・・・・・」
「言わんかいな!」
「・・・」
「山田さんが言っていたから、隠されへんて、あの人が全部知っているって」
「言うたるがな・・・当たり前や。あの女が言い出した話や。」
「なんやって?嘘を言うな」
「嘘やあらへん事実や。」
「ええか、今嘘を言っている場合じゃないからな。命が掛かっているんだからな」
「嘘ちゃう、あの女が知っているのは当たり前や。瑠璃があんたの嫁は子供の時から煩さかったから殺してしまいたと言い出して、それでわしにやってくれって成って」
「それであんたが嫁を殺したんか?まさか、それほんまか?」
「そうや、あの女に頼まれて」
「まさか!いい加減な事言いなや。そしたらその時の事覚えているわな。」
「あぁ絶対忘れへん」
「嫁を殺した時の事言ってくれるか」
「それを言ったら救急車よんでくれよな・・・痛い!堪らん!」
「早う言い」
「気が失いそうや。助けてくれ!」
「早う言わな。痛いんやろ。言ったら病院へ連れて行ったるさかい」 「あんたの嫁を待ち伏せしていたら、瑠璃から電話があってそちらへ向かう筈やって言われて、それであんたの嫁が来て、真っ暗やったから飛びついて思い切り腹を刺した。直ぐにへたって仰向けに成ったからわしは逃げた。」
「どんな服着ていたとか覚えているか?」
「ジャンパーでその下に白い服で、服に魚が書いてあった。大きな魚が」
「どんな魚や?」
「丸い魚が・・・鰈か鮃やった」
「下は?」
「スカートやった」
「嫁どんな顔していた」
「眼がきつかった。俺を睨みつける眼やった。あれはあんたの嫁が瑠璃を苛めた眼と思った。」
「しかし山田さんは内の嫁を頼っていて、いつも相談を持ち掛けられていたで」
「でも辛かった筈や。子供の時からずっとあんたの嫁が瑠璃を抑えていたらしいな。
支配する様に、それが嫌だったと。辛かったと。まだかー救急車。わし、わし」
「あんたはそんな事で人を殺せるのか?」
「違う。やってくれたら金返さんでも良いって言ったから」
「それで嫁を殺したのか?」
「そうや。しかし初めは冗談でわしも殺す積りまで無かったのに・・」
「何言うね、嫁は即死やったわ。これで刺したろか。江上、江上これで刺したろうか」
「やめてくれ。やめてくれ。痛い救急車を、頼む救急車を・・・」
「痛い痛いってお前私の嫁はどうなる?ゆかりはどうなる?痛いとも言われずに死んで逝ったのと違うのか?ふざけるな」
❽
江上はその言葉を残して目を瞑った。あまりの痛さに耐えかねて。船は大きく揺れて碇はその江上の傷んだ足首に食い込むように押さえながらゆれ続けた。二人の会話は良平のスマホに全て記録された。
良平は直ぐに海上保安庁に電話を入れて、相談しながら対処を伺った。 保安庁の職員が数人出迎えてくれて救急車も来ていた。
江上は着くなり、救急車で保安庁の職員に付き添われ運ばれて行った
保安庁の職員に緊急で山田瑠璃を逮捕しなければならない事を伝え、更に大阪の東成警察署の刑事野田に電話を入れる事にした。
「もしもし笹本良平です。緊急の話です。今串本に来ていた名古屋の江上が私の妻殺しを吐きました。
大阪ドーム近くで起こった火事も江上の放火である事も証人を捜しました。又本人もその事を認めました。
それで私の妻殺しには共犯がいます。
それは阿倍野の山田瑠璃で、緊急で逮捕して頂きますようにお願いします。妻を殺す事を初めに考えたのは山田瑠璃である事が判りました。
江上が白状した事を山田瑠璃に言えば何もかもしゃべる筈です。山田瑠璃が妻殺しを言い出してそれを江上が実行したようです。
江上が犯人であると言う確証は、江上があの日妻が着ていた服を覚えていたからです。
はっきりその事を口にしました。そして自らもその様にはっきり私に言いました。又山田瑠璃から三百万円を帳消しにすると言われて実行した事も江上は白状しました。全て録画してあります。」
「分かりました。とにかく山田瑠璃の身柄を緊急で確保します。貴方が言われるように山田に言えば観念するのですね。山田瑠衣は?」
「そうです。」
「詳しい事は後にしてとにかく身柄確保お願いします。江上が逮捕された事で山田瑠衣に間違いがあってもいけませんので、真相解明の為にも急いで下さい。そしてその後此方へ着て頂きますように」
「ええ、行かないといけませんね。」
「お願いします。江上は足首を骨折して直ぐには動けませんが、海上保安庁の方か串本警察暑の方が監視してくれると思います。」
江上の身柄を海上保安庁に預けて、詳しい事情を説明し全身に漲ってくる安堵感に良平は酔いしれる思いであった。
恥ずかしい位心が躍る思いであった。十四年十一ヶ月が奔流の如く蘇っていた。
落ち着いて船に戻った良平は、
江上の足から流れた鮮血が船底に流れていて激しかった事を物語っていた。そして苦しんだ江上の表情を面白おかしくされど緊迫していたことを思い出していた。
二人の子分がその時江上の状態を知っていたのか、知らないでいたのか判らなかったが、そんな事お構い無しに良平は、大海原に船を全速で走らせていた。
そして十一月の冷え込んだ耐え辛い風であったが、その肌を切りそうな風を全身で受けながら大声で力任せに、
「ゆかり~やったぞ~」
「ゆかり~仇をとったぞ~」と叫んでいた。
十四年と十一ヶ月目の出来事であった。
翌日現場検証が行われ、良平が問われるものが何も無い事も証明された。あくまで事故が生んだ産物である事が、江上の口からも発せられた。
そして江上が何故か「火の中に飛び込む蛾」の様な事をしたのかと言う事も、江上とその子分たちの証言で解る事と成った。
漁師矢作を利用して良一の船に乗った事も決して偶然ではない事も白状した。
彼らは以前船が座礁した時に、大きな取引を企てていて、その内容が麻薬と拳銃をヒィリピンから取り寄せる所であった。マレーシア船籍の船で名古屋の海で受け取る筈であったが、それが船が座礁した事で、大きく狂い、更に串本の海でその荷物が入ったコンテナーが破損し、散乱して海に流れ出し漂流物と成って、石田組は組の存続が悪化していたので躍起に成って捜していたのであった。
その荷物で組の存続を掛けて起死回生を狙っていたが上手く行かなかった訳である。
結果何個かの荷物は回収出来たが、肝心の荷物を失くしてしまった。それが良平が海で拾い上げた荷物の一つであった。
海保にその荷物を渡した良平は、大目玉をくらって、後日の処分を待つ事に成ったが新聞に大きく報じられた
【苦悩の十五年・・・妻殺しの犯人を捜して】と言う記事が何もかもを物語っていた。
そして山田瑠璃も刑事野田に任意同行を求められ、そのまま逮捕に成って万事休すと言う事に成ったが、その山田瑠璃の動機は複雑であった。一口に言えば嫉妬なのか、それとも恋心なのか、
山田瑠璃は江上の事が好きであった。でもその事をゆかりは酷く嫌い懸念し反対した。山田はそれも正しい忠告である事も感じていた。それは江上の再三頼ってくるお金の無心にほとほとしていた事であった。
まるで計画性も何も無い生き方が山田瑠璃を苦しめた。それでも山田瑠璃は江上聡が始めての恋で、それが生涯一度の恋の様に思えている事であった。
一期一会の恋と山田瑠璃は重く捕らえていた。
だからゆかりが難癖を平気で付けて来る事に抵抗を感じながら、不安がゆえにそのゆかりの言葉に耳を傾ける事も大事であると思っていた。
それでも江上と話している時は、ゆかりの事を当たり前の様に悪く言い続けた。
それは江上がゆかりに蔑さげすまされている事に気を使っていたからである。そして冗談の積りで、『ゆかりが居なければ良いのに』と、心の中を半分は埋め尽くしていた気持ちを口にしていた。
江上はそんな山田の気持ちを早合点するように、自分寄りに都合よく捕らえて、更に山田の行動や言語を盗聴していて何もかもを知っていたので、ゆかりを痛めつける事を決意し実行したのであった。
❾
山田瑠璃は江上がゆかりを殺すなんて事を口に出していた事は確かであったが、まさか実行するなんて事は思ってもみなかったが、事実を知った時に嬉しかったと山田瑠璃は口にしたのである
それは彼女なりの言い方をすれば、これで江上と共通した秘密を持ち合わせて生きて行ける事に成り、何時までも永遠に彼との恋が続くだろうと思ったと言っている。
それが為にも山田瑠璃は、その鎹かすがいの役目を果す事になったゆかりに感謝の気持ちと悪かったと思う気持ちが同居して、十五年近くに渡り現場に花を供える事を守っていたと言った。それは一重に只管な山田瑠璃の江上に対する恋心であったようだ。
良平が隠し持っていた拳銃が入った箱を海保に提出した時に、その下から覚醒剤四キログラムが隠されている事を知って、またまたお叱りを受ける事に成ったが、現在白石組で元石田組の猪原周吉と田戸博が何もかもを口にした。
十一月末日良平は警察の検証も全て終り、ほとぼりの醒めた舟のデッキをせっせと洗っていると、防波堤に一人の胡散臭い男が立っていた。
しな垂れた背広の襟を立てて何も言わず佇んでいた。
「おぉぅ刑事さん。刑事さんじゃないですか。野田さんじゃないですか。お世話に成りました。おかげさまで」
「今日は、江上聡の身柄を引き取りに来させて頂きました。十二時に串本警察暑から江上の身柄引き受けます。」
「そうでしたか。でも上手く行きましたね。野田さんもこれで【立つ鳥後を濁さず】って言葉通りに成りましたね。」
「ええ、お陰様で。貴方のお力で《画龍点睛》って事になりそうです。」
「そうですか。良かったですね。これで野田さんは大阪府警で、いや全国でも伝説の刑事になるでしょうね。」
「そんな大層な事は無いと思いますが、でも貴方の閃きが功を奏した事は間違い御座いません。」
「その様に思いたいのですが、それは違うと思っています。何故ならあそこを見て下さい。」
「どこですか?船腹を?」
「いえ、ここです。これです。」
「あぁ、船の名前?ゆかり丸・・・これは奥さんの名前?」
「そうです。この串本は私達の一番の思い出が詰まっている場所なのです。妻は釣りが好きで二人でよく来ました。そして妻はここへ来た時は格別の笑顔をしていました。
だからこの船を買った時、妻が何時も側にいてほしかったから、妻の名を付けました。【ゆかり丸】と。
私たちは何時も一蓮托生だと思っています。だから江上が船に乗って来て私を脅した時、妻が私に頑張って戦いなさいって後押ししてくれた様に思います。そしてもし負けて命を取られたら、こっちへおいでよって言ってくれた様な気がしました。
だから私が何かをしたのではなく、江上がこの船にネギをしょって来た様に成ったのも、時効前にこの様に成ったのも、妻の犯人に対する怨霊の力だったと思います。」
「そうですか。では奥さんに感謝ですなぁ。有り難う奥さん。ご苦労さん。そしてお疲れさん。どうかご安心して成仏して下さい。」
刑事野田は船の後ろに書かれた「ゆかり丸」の字を見つめながら、そして眼を瞑り手を合わせ隠すように泪を拭いていた。
江上は獄中で何もかもを口にする事に成った。殺人放火恐喝・・・何もかもを。
笹本ゆかり殺人事件は、十四年十一ヶ月の歳月を費やし延べ一万八千人の刑事を動員して、大阪府警東成警察署官内で解決に至った。
平成十三年十一月三十日
良平は刑事と別れ寒空の中で魚を釣っていた。それを名古屋の親子に食べて貰おうと。
狙っていた魚は鮃であった。あのゆかりの胸に刺繍されていた魚であった。
完結です。
(この物語はフィクションであり、登場する全てと
実存する全てとは一切関係ありません。)
完結です。お疲れさま。。
完結です。