灰色の街の見る夢
けたたましく発車を告げるベルが鳴り響いた。何時から私はそこに居たのだろうか。長い夢を見ていたような気もするが眠った覚えはない、ただ灰色のコンクリートの床を硬いベンチに座って見つめていたのだ。刻まれたヒビに詰まった真黒いほこりはその上を人が歩く度に押し固められてそこに何かを描きだしていたが、私にはその言葉の意味を読み取ることが出来なかった。
大勢の人が歩き複雑な模様を描く列をなして電車に吸い込まれては、また新たな列を作るためにコンクリートの床の上を歩き回っている。大勢の足音が規則正しく、いや、不規則な足音があまりにも多く集まりそれが一つの塊のように鳴り響き波の音のように私の周りを流れていったが、その間から吹き込む冷たい風は潮の香りを運んでは来なかった。
波が足を洗い始めその水の冷たさに耐えきれなくなった私は、硬いベンチから体を起こすと凍り付いた膝がメキメキと音を立てる。体に節々に神経を集中して関節の感覚を確かめ、それがまだそこにある事にほっと胸を撫で下ろす自分を嘲笑いたくなった。今更それが何になるというのだ。この街では誰もが腐りかけた体を引きずり這いずり回っているというのに。
何処へ行こうというのか。行く当てもない私は列に並ぶでも無く立ち止まる事も出来ず人の流れの中を歩いていた。ゆらゆらと波間を漂う流木は不規則な動きに翻弄され押し流されて、いつしかそれが渦を巻いて流れ出す改札へと向かっていた。そして、深みに引きずり込まれ底へ沈む事も出来ず、水の中を漂う事になるのであろうか。ゆらゆらと揺れながら少しずつ剥がれ落ちこの体が消え去るまで。それが分かっていながらも流れに抗う力も無く波に運ばれ改札から吐き出される。他にどうする事も出来なかったのだ。後はただ、街に染み込む水のように消えてゆくのだろう。
人の流れに押し流されるままに駅を出ると、ビルの窓から垂れ流された湿った重い空気が積み重なり覆いつくされた灰色の空から逃げ出そうとする小さな光がチラチラと降り注いでいた。
……雪だ。……小雪を探さなければ。
街に染み込む人の流れをかき分けて私は歩き出した。先へ進むにはのろのろと前を歩く人を押しのけて進まねばならなかった。それでも進まねばならない。彼女だけが私に安らぎを与えてくれたのだ。狂おしいまでの想いに駆られていた。夢中で押し除けた腐った肉の塊がギュチャリと音を立てて汚れた汁をまき散らし、灰色の街を染め上げていく。彼女への想いだけが私を突き動かしていた。腐った肉を踏みつけて汚らしい染み跡を残しながら、前へと進み続けた。
派手な色のテーブルが並ぶオープンカフェや色あせた服を着たマネキンが並ぶ店の前を通り過ぎ、狭い裏通りに並ぶ箱の中身をぶちまけて探しても、見つけることは出来なかった。彼女はこの街で何を眺めるのだろうか。この街には彼女の眺める物などあるはずがないのだ、そう、私に小さな海辺の町で役割が無かったように、この街に彼女の役割などありはしないのだ。いや、そうではない。あって欲しくないと望んでいた。この街にいれば、いつしか彼女の体も腐り始め、やがて誰ともわからぬ肉の塊となるのではないか。
ふらふらと人ごみをかき分けながら私は進み続け、押しのけた肉の塊がベチャリと音を立てて地面に広がった。それはよく見ると女物の服を着ている。足の先から悪寒が走り全身がぶるぶると震え出していたが、吐き気がするほど頭を振り、腹の中から込み上げてくる想いを道端に吐き捨てた。
いくら歩き回っても彼女の姿を見つけることは出来ない。どれだけの時間を過ごそうとも、この街は知り尽くすには広すぎた。際限なく増え続けた人の中から小雪を見つけることなど不可能に思えたが、私には確信があった。必ず彼女を見つけられると。そう、彼女だけがこの腐りゆく街で生きているのだからと。
腐った肉の塊をかき分けて私は探し続けた。肉の塊がつぶれる度に吐き気を催し、胃の中が空っぽになるまで吐き続けた。それでも、私は繰り返し探し続けるだけだ。人の列に並び電車に乗り込み、吐き出されるように改札を抜けて、ビルの合間に染み込むように流れていく人ごみをかき分けて。灰色の空から降る雪の中を探し続けて、いつしかオフィスへと戻っていた。
いくら探しても彼女を見つけることは出来ないのだ。私がいくら探した所で。私は繰り返し繰り返し同じ所を探す事しかできないのだ。小雪を探し続けても私には同じ毎日が繰り返され続ける。私は胃の中から逆流する物を吐き出した。何度も吐き続けた。いくら吐き出してもそれは再び腹の中から込み上げてくる。私は彼女が腐っていく姿など思い浮かべたくはなかったのだ。
繰り返し同じ毎日を過ごす日々を過ごす。人の列に並び、電車に揺られて、小雪を探して、そして、緩やかに腐りゆく。このまま、小雪を見つける事も出来ず、ただ腐りゆくのか。私には他にどうする事も出来ないのだろうか。この踏み固めた道から逃れる事は出来ないのだろうか。
ふらふらとオフィスの中を進むと私のデスクの上に細長い箱が置かれている。その小包の差出人の名は小雪だった。
どこに居るかは分からなくとも小雪は居るのだ! それだけで私は跳び上がりそうなほどの想いに包まれ、震える手で頑丈に封のされた荷物を開け始める。どうして小雪がこの荷物を送って来たのか。いや、小雪からの荷物だ。それを解くのがまどろっこしくビリビリと包みを破り、細長い小包を開封した。
これは……。これはなんだ。箱の中身を見た私は驚愕のあまり張り詰めた皮膚がビリビリと破れるほ強く掻き毟っていた。どうして小雪がこんなものを送って来るのだ。だが、私はそれを知っていた。
それはまだ何の実績も無かった頃、初めて大きなプロジェクトを任せれた時だった。私のチームはほとんどが経験の無い新人ばかりであったため、迷走する方針に激しくぶつかり合いもしたが、だがそのおかげで予想以上の大きな成果を上げることが出来た。これはその時の……。
「懐かしいですね。まだ持っていたのですか? どこかに飾りましょうか。」箱を開けたまま呆然としてる私に隣りから同僚がそれを覗き込んでいる。「ああ……。」と気の抜けた返事も気にする事無く上機嫌で飾るスペースを作り始めていた。
どうして小雪がこれを私に送り付けてくるのだ? どうしてこんな物を。こうして、ここに飾らせるためなのか? 小雪は何を……。
それはあの時突き合わせた拳だった。箱の中で肘から先の右腕が拳を握ったまま、腐った姿を横たえていた。
その小包が何を意味するのか。小雪がどこに居るのか分からなかったが、この街のどこかに彼女は居る筈だ。と、そう確信した私は、繰り返し探し続けていた。華やかな夜の街で剥げ落ちた皮膚を張り付けた派手な女たちの間を彷徨い歩き続け、浴びるように酒を飲んだ。テーブルに積まれた熟した果物は触れると潰れるほど脆く、指をつたい落ちた汁は苦さだけを残していた。
酒を飲み、それを吐き出し、また繰り返し酒を飲む。腐りゆくこの体からそれをすべて吐き出すことは出来ない。だが、それでも吐き出し続けた。少しでもこの体が腐らぬように。アルコールに焼かれた喉はひりつく様に乾き、その中を這いまわる足が皮膚を突き破り髭のように生え、酒を飲む度に汁を飛ばして空を掻く。それを一本づつ引き千切って、水割りの入ったコップに沈めるとシュワシュワと音を立てて消えて行った。
彷徨い歩き憔悴しきった私は、ふらふらと家路につく。冷たい床に体を横たえ夢の無い浅い眠りにつくために重いドアを開けると、私の部屋に大きな荷物が届いていた。
その四角い大きな荷物は小雪から届いた物だった。小雪から荷物が届いた。どこに居るのだ……小雪。腐りかけた爪で掻き毟るようにその封を開けると、そこに入って居たのは見知らぬ少女だった。いや、私はその少女を知っていた。よく知っていたはずだった。
幼い頃、よく近所の公園で遊んでいた。名前も知らない小さな公園だったが、あの頃はとても広く、どこまでも広がる飽きる事の無い場所だった。そこに一人の少女が居たのだ。同じくらいの年頃だったため名前も知らなかったが直ぐに打ち解けると、私はその子と一緒に遊んでいた。それは、初恋と呼べたのかもしれない淡い思い出を残していった……。
ずっと、昔に忘れ去っていた遠い記憶の中にうずもれていた少女だった。なぜ、小雪がこの少女を私の元に送り届けてくるのか。今まで一度として、思い出した事の無い記憶の底に忘れ去っていたはずなのに。積み重なった記憶の底から掘り起こされた初恋の少女は、曖昧な記憶と共に墓から掘り起こされた姿をしていた。
甘くほろ苦い初恋の想い出は目を背けたくなるほどに腐り果てていたのだ。積み重なった記憶の奥底から掘り起こされる事など思いもよらなかった。薄いベールを透して見える僅かな輪郭と淡い光に包まれ、仄かに香る甘い記憶であればよかったのだ。
私にどうしろと言うのか。小雪はなぜ、こんなものを送り届けてくるのか。私には分からない。何も分からなかった。ただ、小雪に会いたかった。どこに居るのか、何をしているのかさえ分からなくとも小雪に、もう一度会いたかったのだ。
私は繰り返される昨日と明日の間で小雪を探し続けている。ふわふわと流されて、それを押しのけて、人の長い列に並びレールの上を走る電車に詰め込まれながら。デスクに積まれた書類の整理に追われ、過ぎてゆく時間はまた繰り返し訪れるだけであろう。同じことの繰り返し、繰り返し、ただ、そうして生きていくのだった。小雪を見つける事も出来ず、ゆっくりと腐りながら。
だが、繰り返される日々にも小雪から私宛に荷物が届き続けていた。手のひらに乗るほど小さなものから、人が入るほどの大きさの物まで様々であったが、彼女は数日と措かずに送り届けてくるため、オフィスのガラス戸の中には腐りかけのパーツが所狭しと並べられ、部屋は腐った肉の塊で埋め尽くされていた。
その一つ一つに私の記憶が埋もれていた。積み重なった記憶の底から腐った肉の塊を一つづつ掘り起こし私に送り届けてくる。いくら掘り起こそうとも、そこに小雪は居ないのだ。それにどんな意味があるのか。掘り起こされた肉の塊が部屋に散らばり、発酵したガスを部屋の中に吐き出していた。私の中でゆっくりと腐りゆく想い、であったはずなのだ。それがいま足元にこぼれ落ち床に汚い染みを作ってゆく。
腐った肉に囲まれて墓から掘り起こされた少女と過ごす日々は苦く内臓に爪を立てて掻き毟る。送り届けられる腐った肉片で無邪気に遊ぶ少女の頭は日増しに腐って行き、どのような顔をしていたのか思い出そうとすると、辛くなり顔を背けた。時には近所の公園に連れて行ったりもしたのだが、錆付いた遊具はギイギイと嫌な音で私が近づくのを押し止め、しかたなく硬いベンチから少女が遊ぶ姿を眺めていた。そこには過ぎ去った日々が流れていた。だが、かつての甘い思い出も輝かしい光景もすべてが錆びを付け、腐り、朽ち果てようとしている。それは仄かに苦い煙のような味がしていた。
少女は箱から深い紫色の腸を取り出し、首にネックレスのように巻き付けて遊んでいる。あれはいつの記憶だったか。掘り起こされた記憶も部屋に積み重なる度に一つまた一つとそこに埋もれていくのだろうか。私もまた、その腐った肉の塊の中に埋もれてしまうのだろうか。静かに脈打つ肉の塊の中で繰り返される日々に溶かされて行くかのように眠りにつく。
深い闇の中「PAGOON」と音が繰り返し響いていた。何の音だろう? 頭の中に響くような音は部屋に散らばる肉に吸収されてくぐもって聞こえる。私の中の虚ろな穴に響いているのかもしれなかった。
あの怪物の立てる音だ! どうしてそれに気が付かなかったのか、慌てて起き上がろうとすると、床についた手の下で腐った肉が潰れて汚い汁を出し、滑ってうまく立ち上がることが出来なかったが、その部屋の中に居るあの怪物の姿を見逃すことは無かった。
腐った肉を踏みつけて部屋の中に降り立った怪物は気味の悪い大きな手で墓から掘り起こされた少女を掴むと手足をバタつかせて抵抗するのも構わず頭から口の中に放り込んだ。
「やめろ!」私は叫んでいた。何故だか分からなかった。あれほど目を背けたくなるようなその腐った肉の塊であったが、この不気味な怪物に食われるのだけはどうしようも無く耐えがたく、ドロドロに溶けて混ざり合いそれが何を意味するのか分からなくなろうとも、怪物の腹を満たすのだけは耐えられなかった。
少女の体に飛びつき、四角い角のような頭に足を踏ん張って、その口から無理に引き剥がす。「グュィィグュィ」という声は何処から洩れていたのか。獲物を奪われる怪物の非難する声なのか、少女の苦悶の叫びなのか、私の口から洩れていたのか。ただ渾身の力を込めて引き剥がした少女の体を抱えて、私は叫んでいた。
「これはお前に食わせるものではない。ここにはお前に食わせるものなど何もない。」
何もない。その言葉だけが部屋に響いていた。私が叫んでいたのか? 私は泣いていたのか。その顔も思い出せない少女が食われてしまう事を。それを抱きかかえたまま泣いていた。大切な思い出が欠けてしまった事に。
怪物はゆっくりと天井の隅へと戻ってゆく。何処から入って来たのか、何時からそこに居たのか。それは始めからそこに居たのかもしれない。天井の染みのようにじっと動かず、その獲物が通りかかるのを待ち伏せて、腐りゆくのをか? ただじっと動かずに、天井の隅に、光の当たらぬ闇の中に。いたる所に潜んでいたのではないのか。そうだ、通りを歩けばあちこちにその姿を見つけられる。路地の片隅にその不気味な姿をひそめて。だが、それがどうしたというのだ。あの怪物がどこに居ようとも、何を食おうとも……、いや違う! あの怪物が食うのはこの街の忘れ去られた記憶、腐り朽ち果て、行き場を失った記憶ではないのか? 私は思い出す事の出来ない少女の顔が失われると、もうそれが腐りゆく姿を見ずに済むと心底ほっとしたのではないか。それならばいっその事すべてをあの怪物に食わせてしまえばよかった……。
ただ繰り返される日々の中ゆっくりと腐りゆくのだ。変わる事の無い毎日が繰り返され、首の無い少女は腐った肉の塊で遊び、その姿をただ見つめていた。待ち続けていた。あの怪物が残りの肉を食らい尽くしに訪れるのを。小雪が訪れるのを。その想いもだんだんとすり減ってゆく。私の中でそれがゆっくりと溶けだし、ドロドロの塊に混ざりあってしまえば、それも腐りゆくのであろうか。
駅から吐き出される人々は、腐った肉片を落とし街に染みを作りながら歩き続けた。その体の最後の一片まで街に染み込まれるまで彷徨い続けるのか。窓から垂れ流される重い湿った空気の中を漂い続けていた。それを覆いつくすように白い雪が街に降っていた。
暗い闇の中を走る電車に揺られて家路につく。怪物がメキメキと音を立てながら何かを食べていたが、それも気にならなかった。いつか全てが雪の下に埋もれてしまうのだから。
人の居ない駅を離れて暗い道を歩き出す。灯りの無いその道は腐った肉の塊が詰まった部屋へと続いている。私はそこへと流されて行くだけであった。排水口に引っかかった腐った肉の塊の中に。
流れ着いた私の部屋では首の無い少女がケーキが入るくらいの小さな箱を大事そうに抱えて待っていた。小雪から届けられた荷物だろう。それももう珍しくもなかったが、開けられてない箱にその少女が興味を持ったのは初めてではないだろうか? 普段遊んでいる腐肉とは違った何かがそれを引き付けているのか。
それに思い当たった私は少女から乱暴に箱を取り上げると、箱の蓋が引き千切れるほど急いでその封を破った。その箱の中には私が忘れる事の出来なかった少女の頭が入っていた。力なく膝から崩れ落ち少女の前に膝をつく。たとえ失ったとしても、それは記憶の中に残り続けていた。怪物に食われたとしても、色あせ腐りゆくとも。それが解放されることは無いのだと。
少女の頭には怪物の歯型がついていたがそれを箱から取り出すと、その体の上にそっと乗せた。ゆらゆらと転げ落ちそうに揺れながらも頭はその場所にくっついている。怪物の歯型が痛々しかった。干からびた頭にめり込んだ歯の後は何よりもはっきり残っている。その顔を思い出す事はもうないだろう。
この灰色の街では、崩れ落ち朽ち果てたとしても記憶の底から掘り起こされて繋ぎ合わされ、腐った体を引きずり歩き続けねばならないのか。失われた想いは上書きされた記憶と共に生き続けるのか。私の体に刻み込まれた踏み固めた道の腐り果てた姿がそこにあった。かつての美しさは色あせて……。
私がここで待ち続ける限りその想いは色あせ、いつの日か腐り果てた小雪の体が届けられるのではないか。私が思い続ける限り、それはゆっくりと腐りゆく。忘れねばならない、それを忘れなければ、全てを忘れて。彼女だけはこの街に捕らわれる事の無いように、忘れなければ。
そして、私の体はゆっくりと崩れ落ちてゆく。
この街に染み込んだ私の体は、いつしか掘り起こされ繋ぎ合わされ再び歩き続けるのであろう。だが、今は眠ろう。電車の振動に揺られて、静かに眠る。
灰色の街の見る夢の中に眠る。
最後までお読みいただきありがとうございます。
自らの記憶の奥底に埋葬した思い出ですら、何時までもそこにあり続けるネット社会。
それは、まるで、腐った死体の闊歩する、腐敗した街ではなかろうか。
目を背けても、手放す事の出来ない輝かしい想いで、そんな、愛おしい腐った死体が、今日もまた生まれ続ける。
彼らが安らかに眠れる日は、訪れるのであろうか?
海土竜