腐這い
これは傷なのか……、怪我をしたのか……、いや、何の痛みも感覚もない。ともかく、病院に行けば何とかなるだろうか。この症状が人目に触れた時の反応は容易に想像できたが、それでも他に手立ては無い。大き目のガーゼをそこに押し当てると、包帯ぐるぐる巻きそれを覆い隠した。応急処置という名目でそれを目に触れないようにしただけである。かなり不格好ではあるが、大きめの帽子をかぶればそれほど目立つこともないだろう。
不安な気持ちを押し殺して向かった駅は、いつもよりも混雑している気がしたが、いつもよりも静かだった。周りの音が聞こえなくなったのかと、自分の状態がそれほど深刻なのかと不安が募り、思わず耳の後ろに伸ばそうとした手を押しとどめた。しかし、気にすればするほど、そこはむず痒く、痒く……、爪を立てられた皮膚が破れ、滲み出た血液が指をつたい、剥き出しになった柔らかな肉をジュルジュルと音を立てて引き裂き、ドロドロとした液体に混じった肉片を掻き出す。それでも、掻き続ける事を止められなくなる恐怖が込み上げてくる。
そんな不穏な思いにふらつきながら混み合った電車の乗り込む。どこかに座りたかったが空いている座席はあるはずもなく、しかたなしに、吊革に体重を預けて一息ついた。……そうだ、臭いだ。
巻き付けた包帯を通して湧き出るように、あの臭いが漏れ出しているのではないのか?生あるものが嫌悪感を抱かずにはいられない、あの腐敗臭を。肩がぶつかるほどの距離に詰め込まれた電車の中で、周囲にあの臭いをまき散らしているのではないか。それだけが繰り返し頭の中で響いていた。あの臭いが。
しかし、車両の軋む音だけが響くその車内では、誰一人怪訝な様子を見せる事も無く、新聞や雑誌を読んだり、携帯電話の画面に見入ったりしている。この臭いが気にならないのか……、何の関心も持たないのか……。この耐えがたい腐敗臭の中、誰もがいつもと変わらぬ日常を送っていた。それは、あまりにも不可思議な光景だった。あまりにも、隣りの男の表情を見ようと覗き込んでいたため不快な視線を送られ、前の座席に座っていた女学生に押し殺した笑い声を漏らされたくらい、あまりにも変わらぬ日常だった。
その事に安堵する反面、腐敗臭を立ち込めながら倒れた男を思い出し、背筋が寒くなった。今の私は、あの男と同じではないのか、ここで誰からも顧みられる事も無く……。見られていたではないか。他のすべての乗客が気がつかぬ振りをしていたとしても、その男をじっと見つめる丸く瞼の無い魚のような目が。あの電車の座席から頭だけを出した子供の目を思い出した。
不意にそれを向けられている気がし、辺りを慌ただしく見回したが、何処にもそんな子供の姿は見当たらなかった。いや、あれは本当に子供だったのか?耳も鼻も口も、それがどんな形なのか思い出せず、丸いものが二つ付いた、奇妙な…。それについて思い出そうとするだけで嫌悪感が込み上げ、はやる気持ちを押さえつつ病院へと向かった。
診察を待つ時間ほど長く感じるものは無かった。他に待っている患者は数人ではあるが随分と時間がかかり、いらだちが募る中やる事も無く待ち続けると、患部の事だけが気になり、無性に痒みを覚える。我慢すればするほどその痒みは強まり、体中に広がって、今にもその肉片がそこら中に飛び散り、粘つくようなテカテカしたゼリー状の塊がその穴からあふれ出し、体を滑り落ちて、待合室の長椅子の上に広がってゆく。
それを堪え平静を保とうと別の考えを巡らすも、思い出す事は取り留めも無く、まるで形にならずドロドロと溶けだした肉片のようで、無理に型に嵌めようとすると辺りに飛び散り抵抗していたが、不意にそこから硬い外骨格で覆われた長い手が突き出し、あの怪物の姿となった。ただ、人に嫌悪感を与えるためだけに造られた姿、一体どうしてあのような生き物が出てくるのか、これまで生きて来た人生であのようなものを想像することなどありはしない。それは自分の中の不快さの塊であるかに思えた。
不快な衝動に駆られ迷走する思考を遮り、機械的な声が私の名前を呼んでいる。やっと、順番が回ってきたようだ。
座り心地の悪そうな事務椅子に座った若い医師は、掛け心地が気になるのか何度も眼鏡を触りながら、厳重に巻き付けた包帯を面倒くさそうに取り始めた。ようやく耳の後ろでその肉汁に張り付いたガーゼを取ると、少し眉をひそめてから、また眼鏡の位置を動かしている。そして、テーブルの上に置いてある瓶をコンビニの商品の賞味期限を見比べるようにして選ぶと、その一つから消毒液に浸かった脱脂綿をピンセットで取り出し、患部を消毒し始めた。「少し消毒しておきますね。」まるで虫に刺された後を治療するかのような気安さでそう言うと、その傷にたいした興味を抱く事も無く、手早く片づけてしまおうとしている事がありありと伝わってくるほどの上の空だ。
何故だ? どういう事なのだ?そんな小さな脱脂綿で消毒できるようなものではなかったはずだ……。この傷はいったい何なのだ。私の体に何が起こっているのだ。……どうしてしまったのか。
詰め寄る私に、少し身を引いて眉をしかめながら先ほどまでの余裕は無くしきりに眼鏡の位置を動かし、小声でボソボソと医学的な専門用語を並べた説明をし始めたが、しかたないという様子で私が巻いたものよりは遥かに簡単に包帯を巻いて、明日には治っていると告げた。
これは、どういう事なのか…。オフィスに戻り書類の整理を始めようとするが、それが気になって手につかなかった。大騒ぎになって然るべき、と、さえ思っていたのに。もしや見た目ほどひどくないのか?いや、そんなはずはない。それとも、酔いが残っていて思い違いでも…。あれを見間違えるはずがない。医者に食い下がってもよかったのだが、何と言うべきか考えがまとまらずに納得のいかないまま引き返してきたのだったが。大事にならずに済んでよかったと喜ぶべきなのだろうか。
同じ場所をくるくると回り続ける思考に、段々今朝の事が夢であったのかと思えてくる。寝ぼけて包帯を巻きつけて、病院に駆け込んだ?なんと滑稽な話だが。そんな事はありはしなかった。間違いなくここに…。耳の後ろに手を伸ばそうとして思いとどまった。
それは確かにそこにあるのだが、無表情に書類を運んでくる男も、モニターを食い入るように見つめている男も、ビルの窓から見下ろす人々も、静かに揺られながらレールの上を走る電車に詰め込まれる人々も、何も変わらない。普段と何一つ変わった所はなかったのではないか。私だけが変わってしまったのか?私の何が変わったのか…。
変わった?──何と比べて?……いつと比べて?
いつから、彼は無表情に書類を運んでいたのか。通りを歩く人々は何をしているのか。そこに立ち止まった人は何を考えていたのか。そんな事に関心を払ったことがあるのか?彼らがそこで何をしていようと、何を考えていようとも。私は振り返る事無く、前へと、自分の進むべき道を進んで来た。それは比べる必要など無いのだ。周りがどれほど変わろうとも、私の進むべき道が変わる事は無く。周りがどれほど迷おうとも、私の進むべき道には確固たる確信があった。それは比べる必要など無かったはずだった。
一息入れるか……。コーヒーでも飲んで落ち着こうと、広げていた書類をいくつか脇へと追いやりデスクを片づけ始める。何かが目の端で注意を惹いた。書類の一つに数字と文字の羅列以外に、何か目新しいものがあった気がし、端に追いやった書類をパラパラと捲ってみると、それは何かの液体をこぼした染みだった。まだ整理していない書類の山からもいくつか取って調べてみると、そこにも染みが付いている。運んでくる時に汚したのであろうか、ただ、無関心に運んでいるだけだとしても、これだけ汚して気が付かないとは注意力が散漫すぎる。
私は腹を立てて勢いよく立ち上がろうとデスクに手をつくと、ピチャリと何処からか液体が飛び出した。まさか…、そのままの姿勢で、机の上にある私の右手の甲に視線をやると、それは紫がかった茶色に変色し、焼けた内臓のように縮み丸まった皮膚の裂け目から、ドロリとした茶色い液体が垂れ出していた。
一瞬にして背筋が凍りつき、夢中で取り出したハンカチで右手を抑えつけた。落ち着け……落ち着け……、呪文のように心の中で唱えていた。が、……今のはなんだ。どうしたらあんな色になるのだ? あれではまるで……。もう一度それを確かめようと思うもハンカチの下から伝わる、ぬるっとした感触がそれを押しとどめた。確かめるまでもない。
突然立ち上がって手を押さえた私の不審な行動に、驚いた近くの者が声をかけたが、手を切ったと適当に誤魔化し、救急用に置いてあった包帯とガーゼをありったけ持って、給湯室の流し台に駆け込んだ。恐る恐るハンカチをどけると、ニチャッとした汚らしい汁が伝い落ち、嫌な臭いを発する。紫ががった茶色い手の裂けた皮膚から覗いている赤黒いブヨブヨした肉がその汚らしい液体を滲み出していた。
思わず込み上げてくる吐き気を飲み込み、勢いよく蛇口を開けてそれを洗い流そうとしたが、一抹の不安がよぎる。……そう、これは、どこまで洗い流せるのか。どこまで流れてしまうのか……。じゃ口から出る水の勢いに縮んだ皮膚がはがれ、赤黒いブヨブヨする肉が千切れ飛び、ドロドロとした流れとなって排水口に飲み込まれ、そこに残るものは、骨だけと化した手なのかもしれない。その時、私の右手はどうなるのか。だが、それでも変色した肉片が腐敗臭を放つ汚らしい液体をまき散らすよりは、ましに思え、ゆっくりと流れ落ちる水に手を差し入れる。意外な事にやわらかそうに見えた赤黒い肉片は、プルプルと震えるだけで千切れ飛ぶことは無く、その間で頑丈そうな筋がピクピクと動いていた。
幾分安心して、大胆に流水に手を浸し、いつまでも滲み出る液体を洗い流していると、いつの間にか後ろに立っていた男が、どこに焦点を合わせているか分からない目で流しの中の私の手を不審そうに眺めていた。見られた…。手の甲を庇うように左手で覆い隠したが、それについて何と言ってよいのかしどろもどろになる私に、「火傷でもしたのですか?」と、怪訝な表情を作りタオルを差し出していた。
曖昧に礼を言いながらタオルを受け取ると、それで右手を覆うように拭く。火傷に見えるのか、これが……。今は彼の無関心さに感謝しながら、包帯をきつく右手に巻き付ける。と、ようやく一息つけた気がする。ふーっと大きく息を吐くと、軽いめまいを感じ、ふらつきながら自分のデスクに戻ると崩れるように腰を下ろした。
乱雑に広げてあった書類の山は奇麗に片付けられ、既に会議室に運ばれていた。そこに突っ伏して、眠ってしまいたい気分だったが、いざ眠ろうとしても眠れない事は分かっていたし。それよりも、既に会議の始まっている時間だった。頭を切り替えるため、今、私のすべき事はなんだ。と強く自分に問いただした。そう、私のすべき事……。包帯を巻いた右手をチラリと見やるが、その事を追い払うように頭を振ると、ゆっくりと立ち上がった。私のすべき事だ。
しかし、耳鳴りがするばかりで聞いていられない布で包んだ金属を叩くような声が会議室に響く度に、その決意も何の意味もなさなかったかのようにボロボロと崩れ去る。誰かが話す度に空気が漏れる音が聞こえる。それは墨が滲むようにゆっくりと空気に色を染み込ませ、積み重なっていく。その様な中私の思考もかみ合わないまま空回りを続けていた。これは何のための会議だったのだろうか、ここに座っている事が私の役割なのだろうか、何時からこれが私の役割になったのだろうか。私は迷いなく進んでいた。誰よりも先に進むために迷いなくその足を踏み出す。私の進んできた道には確固たるものがあった。私の歩んできた道は確かに正しい道だった。そう、確信していた。
何を…。
確かに、何かを…。
濁った水槽のように音だけが反響する会議室で深い水の底のさらに深みに嵌るように。
低い振動だけを伝える音が途切れ途切れに重い空気を震わせ、さらにそれが厚みを増していくと、ギィギィと気味の悪い鳥に鳴き声が赤い夕陽をテーブルの上へと落とし、いつまでも続くかと思われた会議に終わりを告げる。それと共に開けられた窓から、重苦しい空気が垂れ流され、赤く染まったビルの谷間に降り注がれていく。赤い夕陽を押し上げながら街に染み込んでいくそれは、もう、そこまで積み重なっていたのだろうか。その間を行き交う人々はいつまでたっても、浮かんでは来なかった。
自分の迷いを振り払うように華やかなネオンの灯りに彩られた夜の街に癒しを求め、歩き出した。いや、それから逃げるためにか。ぼろぼろと崩れていく何かを拾い集め押し固めて身に纏うかのように。さながら虚飾の宴とでも言えばいいのだろうか。派手なドレスに身を包んだ彩とりどりの指先が、次々に運んでくる色あせた酒を浴びるように飲み干しながら。満たされぬ渇きを癒すために喉を焼くような強い酒に酔い、熟れすぎた甘い果実の臭いに酔い、甘い言葉に酔い、大声で笑い声を上げ、彼女たちの美しさを褒める。さながらオペラのように誇張されたセリフを高らかに歌い上げ、色鮮やかな夜の街の住人を演じ、闇を黒く塗りつぶす光の中で軽やかに踊る。決して、飛び石のような光りを踏み外さず、暗がりに寝そべる人に気づくことも無く。踊り続ける自分の姿に酔う。
いや、私は知っていた。そこに居る者達の事を。自分の役割を演じきれず光の当たる場所へ出られなくなった者達が闇の中で蠢いている事を。目まぐるしく動く煌びやかな光に照らされそうになる度にギュイギュイと汚らしい非難の鳴き声を上げて逃げ惑う者たちがそこに居る事を。その底で積み重なって、ゆっくりと腐敗していく者達のを事。
その事が私を特別な存在にしていく感覚に捕らわれ、揺れ動く心を支え、私に確固たる自信を取り戻させる。例え張り子の様に不確かな支えであったとしても、歩く度にポロポロと崩れゆくとしても。振り返る事無く前に進み続けてゆける。
いつまでも終わらぬ夢を演じている夜の街を後にし、大股で駅に向かうと。酔った高揚感が尊大な気分にさせ、人の少ない薄暗いホームでも自分だけは輝いているかのように感じていた。定刻よりも少し遅れて到着した電車にも気を払うことなく悠然と乗り込むと、あえて座席には座らず車両の中ほどの吊革に体重を預け、窓の外を流れる夜の街の灯りを一人眺めていた。車内には数人が距離を取って座席に座り、うつらうつら居眠りしていたが、その合間を家々の小さな明かりが素早く流れ去るのを見ると何とも言えぬ満足感が込み上げて、遠くの派手なネオンがのろのろと動くさまは滑稽であった。
そうだ、それでいい。ただ、そういう事で先へと進むことが出来る。
ぷっつりと今日の終わる安堵感が車内の暖かな空気を満たしていくと、足の先から何かが振るい落とされる心地よさに座席にゆっくり腰を下ろそうかと思い至った時、通過するホームの光景に目を見張った。
そんなはずは無いと、軽く頭を振り首筋を掻く。だが、それは間違いなくそこに居たのだ。どれほど否定しようとも、ホームで人々を貪り食うあの怪物の姿を打ち消すことは出来なたかった。あれはなんだ…。答えが返ってくるはずもなく、それは頭の中を駆け巡る。倒れた人を掴みあげその口へと放り込む姿。いつの間にか、指は強く首筋を掻いていた。
額に浮かんだ汗を拭きながら、何もあわてることは無いあの駅は遥か向こうに通り過ぎた。と、意味の無い答えで、ふうとため息をつきそれを吐き出してしまおうとすると、それに答えるようにか細いブレーキ音が響き、電車はゆっくりとホームに停車した。空気を吐き出すような機械音と共に扉が一斉に開き、人の居ないホームから冷たい空気が流れ込んでくる。その冷ややかさに鼻腔を刺激され、つと目を閉じると、ズシンと響く足音が聞こえて来た。大きな荷物を床に降ろしたような音にたいした興味も無く向けた視線は、その有り得ない光景に釘付けになった。扉の縁を鷲掴みにしている巨大な指がメキメキと金属が悲鳴を上げるような音を立て、車外から伸びたもう一つの手が天井を掴み車体全体が悲鳴を上げ始めると、目の無い頭が扉から現れる。
咄嗟に身構える。いや、それは、恐怖に強張り縮みあがったのだろうか、身動き一つ取ることは出来なかった。額から噴き出す汗を拭う事も出来ず、その怪物との間には何も身を守るものは無かった。怪物が窮屈そうに体を折りたたみながら車内に押し込むと、空気を吐き出す機械音と共に扉が閉まり、その音が私の止まった思考をも動かし、扉から逃げ出すべきだと気づくも、すでに遅い。「PAGO,BAGO」と奇妙な機械音をリズミカルに立て周囲の臭いを嗅いでいる怪物から目を離さぬように、そして、ゆっくりと摺り足で少しづつ後ろに下がる。ただ恐怖だけがその場を支配していた。いや、私を支配していた。それが何をしているかそんな事よりも、この場から逃げ出したい、ただその想いだけが私の足を動かしていた。
怪物は座席で腕を組んで居眠りをしている男が気になったのかしきりにその周りの臭いを嗅ぎ始めている。それはチャンスだった。そちらに気が向いている間に慎重に隣の車両へと移れる。……だが、あの眠っている男はどうなるのであろうか。そんな事は分かり切っている。分かっている。だからこそ、恐怖し、この場から逃げ出そうとしているのだ……。
連結扉をそっと後ろ手で閉めると、そのまま力が抜けるように背を預けゆっくり息を吐くと荒い呼吸音がそこに響き渡った。何人もの人間が車内の酸素を吸いつくそうとしているかのように頭が痛い。何とか呼吸を押さえようと胸を握りしめ、扉に背中を押しつけてゆっくり体を起こすと、そばの座席に座っている男が顔を上げて不審そうな、いや、その魚のような瞳には表情などありはしない。ただ顔をあげて、自分も酸素を吸いたいのか、口をパクつかせていた。
呼吸を整えると、落ち着いた振りをしながら出来る限り速足で、さらに先の車両へと歩き出した。それが何を意味するのか、分かっていた。彼らに危険が迫っている事を警告するよりも、自分一人が先へ進むことを選んだのだ。これまでも、そしてこれからも。
それを押し出すように次の扉をそっと閉める。だが、それを見透かしていたかのように怪物はその巨体を器用に折りたたみつつ連結部分に押し込み、隣の車両から移ってこようとしており、無理やり引き出した腕で、扉近くに座っていた男を掴みあげていた。
背を向けると私は走り出した。周囲に目も気にせずひたすらに、人の少ない車内を走り抜けた。一つ二つと扉を抜け、その恐怖から逃れるために走り続けた。走るほどに増してくる恐怖から逃れるために。そうまでしてたどり着いた先頭車両の扉を開け、誰も居ない車両に逃げ込んだのだ。ようやく、好きな場所に座って、一息つけると思った矢先に、怪物と向き合う恐怖も忘れて引き返そうと思うほど強烈な腐敗臭が立ち込める。誰も居ない先頭車両にたちこめる臭い。いや、一人いるではないか。
私は嫌な予感を確かめるために、口と鼻をハンカチで覆いゆっくりと車内を進みだした。一歩進むごとに臭いは強くなりそれ以上進むのをためらわせたが、それはもはや確信めいて、その臭いの発生源が客車の先の運転席からだと告げていた。ゆっくりその中を覗くと、そこに立っていたのは頭部が崩れ落ち、代わりにそこから噴き出るように緑色のぬらぬらした物体が垂れ下がり肩や背中を汚している運転手の姿だった。
確かめるまでも無く彼は立ったまま死んでいた。一体何が起こったらこのような事になるのか。前の駅を出発してからのわずかな時間で、これ程まで腐敗が進むわけがない。それは普通ではなかった、まるで生きながらゆっくりと腐って行ったかのように。無意識に首筋に伸びようとしていた右手に気づき、ゾクリとした。
しかし、何とかして電車を止めなければ。頭の無い運転手では、何かにぶつかるまで走り続ける事であろう。運転室は内側から鍵が掛けられてそこから入ることは出来なかったが、こういう時のために非常ブレーキがどこかにあったはず。急いでそれを探そうと思うも、私の視線はそこから動く事は無かった。
頭の無い運転手の手袋を填めた手はしっかりと運転席のレバーを握り、時折あらわれる信号機を指差し確認している。その機械のように正確で滑らかな動きで的確に電車を走らせていた。
彼は、自分の頭が崩れ落ちたにもかかわらず、その役割をこなしていた。何も変わらぬかのように……。
蛍光灯がチカチカするようなめまいを感じ眉間を押さえて手すりにもたれかかると、背後でガラリと扉が開き、咄嗟に怪物の事が脳裏に浮かび振り返るとそこにはスーツ姿の男が一人立っていた。酔っ払いの様にふらふらと歩く男はネクタイは締めているもののシャツの裾はだらしなく垂れさがり。シャツだけでは無い。そこには茶色く変色した内臓も一緒に垂れ下がっていた。その男はのろのろと歩いていたかと思うと中ほどの座席にゆっくりと腰を下ろし、何の関心も示さないまま、カバンから本を取り出し読み始めた。
この男はなんだ……。この電車は……。運転手は……。いや、あの怪物は……。
ふらふらと足が縺れるようによろめき、電車が減速するのに合わせて、ドアへと吸い寄せられていく。最早何も考える事も出来ずに、闇の中へ転げ出る。冷たい空気に包まれても熱に浮かされたように硬いベンチに倒れ込んだ。頭の中を駆け巡る何かが心臓の鼓動を高鳴らせていたが、それを見極めようと目を閉じると強烈な睡魔に襲われ、カクンと折れ曲がるように眠りに落ちた。夢の無い真黒な眠りの中に。
黒い帳が滲むように薄らいでいくと、その向こうから大勢の人の話し声や足音が聞こえてくる。目の前に灰色のコンクリートの床が現れると、腰を掛けた座席からガタガタと振動が伝わって来た。
ここは何処だ……。
顔を上げると強い光が差し込み痛む目頭を押さえながら、くらくらする頭を働かせようとする。
駅のホームで眠っていたのか。まるで長い夢でも見ていた様な……。
その考えを振り払うかのように頭を振ると、辺りはすっかり明るくなり、電車を待つ人々が忙しそうに歩き回っている。いつもと変わらぬ風景がそこにあった。そう、まるで変らぬ日常。その事を確かめるため膝に両手を置いてグッと力を入れると、足の裏に硬く冷たい違和感を感じ、そこにある何かに背筋が凍りつくほどの衝撃が走るが、落ち着いて見てみると靴を片方履いていなかったのだった。
軽く額を掻いて誤魔化すように周りを見回すも周囲にはそれらしき物は落ちたはいなかった。どうやらこの辺りで脱いだ訳ではなさそうであったが、遺失物として届けられてはいないか改札の窓口で聞いてみるべきである。そう思い立つと、堅く冷たいホームの床は靴が無いと歩き難いがホームに向かう人の流れを遡りゆっくりと歩き出した。
不自然な歩き方は、すれ違う人々に不審な目を向けられはしたが、ゆらゆらと揺れるように人の列を避けて改札にたどり着くと、窓口にいる駅員に靴の届け物は無いかと尋ねた。だが、その駅員は横を向いたまま何の反応もない。随分不愛想な駅員だと、少し不機嫌になったが、それでも何度か声をかけるとようやく、のろのろとこちらに振り返ったのだが。その姿に胃が締め付けられる思いがした。
その駅員は顔の半分の皮膚がその肉ごと削げ落ちて、半ば骨が露わなっており、今にも転げ落ちそうな眼玉を動かし、剥き出しの歯をカチカチと鳴らしながら、遺失物届と書かれた書類をテーブルの下から取り出す。テーブルの上に置いたその紙を指でゆっくりこちらに押し出すと、奥歯の周りの肉がピクピクと痙攣し始めた。
それから目を離せないまま息を吸う事さえ忘れていたが、足の裏が伝える冷たい感覚が知らぬ間に後ずさっていた事を気づかせると、そのまま踵を返し、無言のままホームに向かって歩き出した。
あれは一体なんだ。何が起こっているのだ。頭を掻きむしりたくなる気持ちを抑えつけ、冷静に考えをまとめようと試みるが、あれは死体だった。肉の腐り始めた死体だ。頭の腐った……。昨日の運転手の姿が、改札の駅員と重なり、うまく考えがまとまらない。あれは、なんだ……。この駅が、いや、ここはどこなんだ……。頭が痛い……。
何の答えも出せぬまま、ふらふらとホームを歩いていると前を歩いている男にぶつかった。軽くすいませんと謝りながらチラリと目をやると、ぶつかった衝撃で男の腕がもげ、床にドサリと落ちた。驚きのあまり声も出せずに突っ立っている私に「いえいえ。」とにこやかに言いながら、床に転がっている腕を拾い上げると、慣れた手つきで袖の中に押し込む。ゼリーを押しつぶような嫌な音をさせ、何かの汁がそこから垂れ落ちたが、何事もなかった様に電車を待つ列に並びなおしていた。
吐き気を催すほどの驚愕の事態にも誰一人気にも留める事も無い。ありえない。唯々それを確かめるために辺りを見回したが、誰もが整然と列を作り並び続けていた。そう、誰も気にするはずもなかった。彼らは程度の差こそあれ、皆どこかしら腐り始めていた。どす黒く変色した手や首筋からカビのような物が生えている者、顔が崩れ落ちそこに強引にねじ込んで目玉を留めている者や束ねた髪の毛で脳みそを包んでいる者まで。ベンチに座っている男は布にくるまれたまま腐っていく魚のようにさえ見えた。
私はそれらの間を逃げるように速足でホームを移動するも、すれ違う人は皆どこか腐っている。こいつも……、こいつも……、皆腐っている。どこを向いても腐りかけの死体が立っている。それらが、いつもと変わらず、緩慢な日常風景を演じている。
私はおかしな世界に迷い込んでしまったのか……。ここは一体どこなのだ。どこを向いても死体、死体、動いている死体、生きながら腐っていく死体。こんな狂った世界は、何が起こったというのだ。ああ……、頭がおかしくなりそうだ。こんな……。私が、おかしくなったのか? 私だけがそう見えているのか? 私だけが……、腐っているのか? これは、何だ。
電車の到着を告げるアナウンスがホームに響く。複雑に並ぶ人の列が一斉に動き整然とその形を整えると、ゆっくりと速度を落とした電車がホームに入って来る。憔悴しきった頭でそれは唯一の希望のように思えた。その電車に乗れば、私の街へ、自分の居るべき場所へ帰れると。
私はふらふらと、揺れ動く死体の様に電車を待つ列の最後尾に足を向けた。
腐りかけた人の列について電車に乗り込んだが、どうしても近くによる気にはなれずドアに張り付くようにして窓から外を眺めていた。そうしていれば腐りかけの目玉と視線を合わす事もなかったが、窓から眺める景色にあの怪物が写り込むのではないかという不安が込み上げてくる。だが、その姿を探さずにいられなかった。人を貪り食う化物。あの嫌悪感を与えるためだけに造られたような形。だが、それがこの腐った死体を残さず食いつくしてくれたならば、泥ほど心地よい事だろうか。いや、それはあまりにも不快だろうか。得体の知れない化物どもが跋扈するこの場所を。今はここを離れる事だけが、唯一の支えになっていた。しかし、本当にこの電車は目的地にたどり着くのだろうか。今更ながら湧きあがる疑問に、頭の無い運転手の姿が重なり、寒気とも吐き気ともわからぬものが体を這いまわる。
いくらでも湧いてくる疑心に目の前の腐りかけた死体が追い打ちをかけ、私の気力を削り取り、ドアに体を持たれかけさせて立っているのがやっとの状態だったが、それでも、電車の振動に体を預けていると、落ち着いてくるようだった。
いつもと変わらぬ規則正しい機械音に混じって「くすくす」と押し殺した笑い声が聞こえていた。電車の中ほどにいる制服姿の女の子が私を指差しながら、目じりを下げて口元を押さえている。その半分以上腐り落ちた指は、私の足元を指していた。
そうか、靴を片方履いていなかったな。今更そんな事に何の関心も持てなかったが、その女の子が指に少ない手を振る度に得体の知れない液体が周りの人に飛び散るのが気になって仕方がなかった。だが、他の乗客はそれには何の関心も払うことなく服や肌に飛び散ったその液体に汚されるままにしていたのだが、そのドロッとした茶色い液体が腕をつたい落ちるさまを見ていると、体のあちこちがむず痒くなってくる気分だ。だが、それももう少し、あと少しの辛抱だ。いくつか駅を通り過ぎればいつもの見知った街へとたどり着くはずだった。それを確認しようと車内の電光掲示板に目をやった時隣の車内で大きな影が揺れ動いた。
首の後ろが冷たいもので撫でられたような感覚に襲われ、視界に膜がかかったように湾曲した気がし、はっきり見えているはずの電光掲示板の文字が読めなくなる。舌がチリチリと乾き始め何かが張り付いている不快感が何かを告げていた。
不意に、ベタリと音が聞こえた様な錯覚に捕らわれ、ガラス窓越しに見える隣の車両の窓に巨大な手が張り付いてある事に気が付いた。人間の物ではないそれは、間違いなくあの怪物の物であった。夢ではない。その怪物の手がそこに張り付いていたのだ。昨夜と違って大勢の人で埋められた車内では走って逃げだす隙間もない。もしここにあの怪物が乗り込んできたら……。その恐るべき惨状を思い描くも、隣の車内では今まさにそれが行われているのではないのか? 逃げ場のない人々を貪り食うその怪物が……。それにしては静かすぎる。それならば、数人はあの連結扉からこちらに逃げ込んで来るだろうし、物音や叫び声が聞こえてもおかしくはないだろう。だが、そんな様子は全くと言っていいほど感じられなかった。
この腐りかけの死体はあの怪物にも興味を示さないのか? あの怪物は何をしているのだ? 冷静に疑問と向き合う事で緊張を静めようとしていたが、手すりを握る指先が白くなるほど強く握っていた。
しかし、ガラス越しにその巨大な手が見えるも連結扉を開けて何かがこちらにやってくることは無かった。隣りの車両はこちらよりも混んでいるのか、怪物も自由に動き回れる訳ではないのか。いや、そこにおとなしく収まっているというのもおかしな話だ。周りを押しつぶして進むことも出来るだろうし、あれに押し付けられるようにくっついて電車に揺られるのはどんな気分がするのか。
意味を成さない思考が巡る、固唾を飲んで様子を窺うだけの長い時間の間にも電車は少しづつ速度を落とし始めたいた。短い車内アナウンスが駅の名前を告げる。逃げ場のない車内から外へと逃げだすべきであろうか。しかし、何の仕切りも無いホームであの怪物と鉢合わせする事となったなら……。悪い方へと流れていく思考も、幸いな事はドアのそばにいた事であった。ここならばホームの様子も車内の様子も同時に伺うことが出来る。
小さなブレーキ音を立てて停車した車内から、慎重にホームの様子を窺う。怪物はまだ隣の車両の中から動いてはいないらしい。その中で何をしているかは知りたくもなかったが。発車を告げるベルが鳴り響き、ドアが閉まり始める瞬間、素早くホームへと飛び出した。
ゆっくりと動き出した電車は、その怪物を乗せたままどこか遠くへと運んでいく。誰も居なくなったホームで額の汗を拭きつつ、うまく逃れた事に安堵しベンチに体重を預けるように腰を下ろす。天井の薄汚れた梁を見つめながら、ゆっくり呼吸を整え頭の中を渦巻く疑問を掴みだそうとするが、次の電車の到着を告げるアナウンスに、ハッとそんな暇が無い事を気づかされた。慌ててホームの最前列に並び、到着する電車の車内を凝視する。そこにあの怪物が居るかもしれないのだ。それを確認しなけらばならないと。
走っている電車の車内はよく見えはしなかったが、あの大きさの怪物の姿なら見落とすはずは無いだろう。必死で速度を落としていく電車の中に目を凝らしていたが、別段に変わった様子があるはずもなかった。あの怪物は先の電車で運ばれて行ったのだから。しかし、安心したのもつかの間、最前列にいたため人の流れに押されて車両の中ほどまで押し込まれることになる。何とか空いている吊革に自分の居場所を確保したが、やはり、いざという時に身動きの取れない場所は何とも落ち着かなかった。
今までは感じる事もなかった不安に苛まれながらも、電車は確実にいつもの駅へと向かっていく。
私はいつもの駅で見慣れた光景を呆然と眺めていた。
駅から吐き出された人々がビルの合間に流れ出す。それがゆっくりと、裂けるように枝分かれして、ビルの隙間へと染み込んでゆく。これまでに幾度見た光景であろうか。繰り返され続けるこの景色を。毎朝、この流れの中を先へ先へと急ぎ進んで居た自分の姿を思い描く。いつもと変わらぬ、同じ景色。だが、そこに歩いているのは、死体だった。
コンクリートで造られた灰色の街を腐りかけの死体が染め上げていく。異臭を放ち、体の一部を引きずりながらも、なお、次々と駅から吐き出され、街の中へと流れ込む死体の列は、毎朝変わらぬゆらゆらとした動きで決められた場所へと向かって行く。その流れの中をふらふらと夢遊病のように流され、いつもの角を曲がり、見知った通りを抜け、オフィスのあるビルへと吸い込まれて行く。
私は絶望感のあまり、デスクに座るや否や頭を抱え込んでいた。知らない街であったなら、知らない人々であったなら、得体の知れない怪物であるなら、逃げ出せば済むことだったのかもしれない。しかし、これまで過ごし、毎日通い続けて来たこの街の有様をどうやって受け入れればいいのか。毎日、毎日顔を合わせ、共に過ごしてきた同僚の変わり果てた姿を……。
その悩みに何かズレというか妙な違和感を感じ始めた。ゆっくりと頭を上げ周りを見渡してみると、いつも熱心にモニターを見つめている男の目玉は眼孔から転げ落ちたのか干からびでしまったのか既にそこにはなかったが、その顔に空いた穴で相変わらずモニターを見つめている。焦点の定まらない男の目玉は瞳が無く、血走った白目がくるくると辺りを見回しており。無気力に書類を運んでくる男はかなり腐敗が進んで性別も定かではなかったが、それでもその仕事だけはきちんとこなしていた。
そこには何も変わらないいつもの光景が広がっていた。何が変わったというのか。私は運ばれて来た資料に目を通しながら、自分にその問いを投げかけていた。彼らがどの様な姿であれ、どの様な顔であるか、今まで一度たりともそれを気に留めたことがあったのだろうか。皆それぞれの進むべき道を歩んでいる。そこで与えられた役割をこなし、また先へと進む。私はその道を振り返る事無く歩んできたのだ。それ以上何が必要だというのか。そう、それ以外に必要なことなどありはしない筈であった。彼らがどの様な姿であったとしても、私はこの道を進むだけ。誰よりも先に進み決して振り返ることは無い私には、それがどの様な姿であろうとも関わりの無い事ではなかったのか。
目をつぶってゆっくりと深呼吸した私は、矢継ぎ早に書類の修正を指示し、午後の予定を確認して、今まで通りに確実に仕事をこなしていった。腐りかけの死体は緩慢な動きではあったが着実に仕事を進め、次々と片付けていく。不平や不満をその表情から読み取ることが出来ない分返って指示が出しやすくなったようにも感じ、いつもより仕事がはかどる気分にさえなっていた。
それでも、何かが変わっていたのだ。耳の後ろを掻く度に爪のような皮膚がポロポロとこぼれ落ちる。それは床に落ちると泡立って消えた行ったが、その度にどこかが腐り始めていた。それは肉を分解する微生物がゆっくり死滅していくような腐り方である。あるいはそれさえも腐りゆくのであろうかと。
それでも、いつもと変わらぬ日常が繰り返されるのだ。昨日と同じ明日を繰り返し、巡って来る役割をこなし、与えられた役を演じていく。その腐りかけた体にアルコールを流し込み、愚痴を吐き出すのであろうか。その腐敗を少しでも遅らすために。その腐敗を速めるためにか? いづれにしてもその腐りゆく身体はいつかは骨も残さず消えてしまうのであろうか。それとも、いつまでも嫌な臭いを発し続けるのであろうか。それが生き続ける限り、その役割をこなし続けるのであろう。ただ生きるためにその役割をこなし続け、ただ生きるために腐り続ける役割を演じて。腐りながらも生き続けるために。
何度繰り返されたのだろうか、積み重なった重苦しい空気は泥のように部屋を満たし、糸を引くほど粘り気を増す。その中に深い皺を刻み付けた男が根を張っているかのように座っていた。ギシギシと軋んだ音を立てながら変色した紙を捲り続け、さらに深い皺を刻み付ける。隣りに座って腕御組みながら思慮深く唸っている男の後頭部からは固まった油のような脳みそがドロドロと流れ出していた。その頭ではいくら考えても結果は知れていた。だが、黄ばんだホワイトボードの前で話す男は、肺から出た空気が体中の穴から漏れ出しているかのようで、最早何一つ、その意味を聞き取ることは出来ず、口から気味の悪い液体を吐き出して話を遮る男以外は、低く唸るしか仕方がなかった。それでも会議は続いていた。
これは何なのだ。私は何をやっているのだろうか。これが私の役割なのか。ただ、ひたすらに前に進んできた道の先にたどり着いた場所がここだったのだろうか。何のために歩んできたのか。ここで腐りながら生きていくためにか? この先はどこへ向かえばいいのか。いや、この先などありはしないのか。
怒りにも似た嫌悪感が込み上げる。私はこんな物を望んではいなかった。こんなものを目指してはいなかった。こんな物のために、この道を歩んできた訳ではなかったのだ。私にはまだ進むべき道が、この先のさらなる先へと続く道が……。右手に巻いた汗ばんだ包帯が私をそこへと引き戻す。
どこへ進めるというのだ。どこへ行こうとも、私もこの街の一部でしかなかったのだ。繰り返される日々の中、ゆっくりと腐敗してゆく。この腐りゆく街の住人であった。
もうここには私の役割は無いのかもしれない。そこで熟成される事無く、腐りゆく事に耐えられなくなった私は、積み重なった重い空気を踏み分け会議室を後にした。まだ日の高い通りは行き交う人も少なく、ビルに反射した日の光が地面を照らしている。人々はその光に当たると腐敗が進行するのだろうか、と思われるほどに日差しを避けては影の中を逃げ惑うように移動していたが、その通りの澱みにふらふらと漂う魚の死体たちは流れから逃れる事も出来ず、日の光に晒されてその場に崩れ落ちて行った。
行く当てもなくそこを歩き続ければ、私もいずれはああなるのであろうか。そこで腐り落ち、誰からも関心を払われる事無く、元が何なのか分からないような腐敗した肉の塊に。
水の中を漂う魚の死体のように目的も無く歩いていたはずが、いつの間にか駅へと足が向かっていた。自由に歩く事も出来なかったのだ。そこに漂う事さえも。決して自分の道をそれることは出来なかったのだ。敷かれたレールの上を進むように。決められた役割を演じるように。自らの硬い意志で踏みしめてきたその道は呪縛でしかなかった。戻る事も立ち止まる事も出来ず、ただひたすら私を前へと押し進める。決してそれから逃れられないのだと。
踏み出す事さえ困難なほど重い足取りで、ふらふらとホームへ向かう。今はただ、全身を掻き毟りたい衝動があるだけであった。腕、肩、背中、そのすべてが痒い。無意識にそこに伸びる指を押しとどめるが、それさえも……。それを我慢する理由を見つけることは出来なかった。肉を掻き毟り、その原型を留めなくなるまで掻き毟り、やがて動かなくなれば、あの怪物が片付けてくれるのだろうか。堅いベンチに座りあれが訪れるまでそこで待ち続けるのだろうか。そこに座り続ける私は、浜辺に打ち上げられた魚のように見えるのかもしれなかった。それもまたこの街での役割なのかもしれないと。
ホームから眺める灰色の街は何も変わらず、人の流れをその内へと染み込ませ、その色を増してゆく。
私は何処に行きたかったのだろう。それも、もう、どうでもよかった。
空の電車が、音も無くホームへとやって来る。それに吸い込まれるように乗り込んだ私は、やわらかい座席に腰を掛け、背もたれに体重を預けた。背中から細かい振動が伝わってくる。何とも心地よい振動だった。
11月16日誤字修正