腐りゆく男
腐りゆく男の書き直しです。
まただ、また皮膚が破れ始めている。茶色く変色した皮膚の下から、粘膜に覆われた軟体生物が這い出て来るかのように元が何かわからない汁を滴らせながら赤黒い肉片が顔をのぞかせていた。
この体はゆっくりと腐りゆく。
それに初めて気が付いたのは、つい、そこに手を伸ばすのが癖になっていた、耳の後ろだった。
いつもの様に無意識に伸ばした手で、ポリポリと乾いた皮膚の表面に爪を立てようとした時…、その指先がズブリと、そこにめり込んだのだ。
まるで自分のものではないような感覚に驚愕し、そこにこびり付いている物を必死でそぎ落とそうとするも、その場所が自分のテリトリーの中であると、これまで生きて来た時間に伝えられ、震える指先がそこに触れるのを拒む。だが、指についた粘液は、なにかこれまで個体だったものが溶けたようにドロリとした粘度を持ちながら、水の様に皮膚染み込むほどよく馴染む。あたかも、そこから皮膚に染み込み再び体の中に戻ろうかというのか。
不意に嫌悪感が胸に込み上げ、勢いよく開けた蛇口に指を押し付けるほど急いでそれを洗い流すと、何とも言えないひどい臭いに鼻が曲がりそうになった。強烈な腐臭…、日の当たらない湿った場所でゆっくりと時間をかけて腐敗していく生き物の肉のように、生あるものが嫌悪感を抱かずにはいられない。その匂いをそぎ落とそうと力を入れて何度も指をこすりつけるが、いくら洗ってもその匂いは消えはしない。
それもそうだ…、においの原因はこの指ではないのであろう。それが何かを確かめねば、このにおいも消えはしない事に気がついてはいた。ふーっと大きく息を吐き、心臓の鼓動が激しくなるのを誤魔化し、ゆっくり体を傾けながら震える指先で耳を捲り、それを鏡に写す。
穴が開いてあった。その穴は皮膚が破れ肉が削げ落ち、茶色い肉片に髪の毛が張り付き半透明の液体に覆われているかのようで、その赤黒い肉片の底に見えている白いものは頭蓋骨なのか。恐る恐る指を伸ばすも、その穴の中心を触ることは出来ず、周囲の変色した皮膚に指を押し付けると、それに触れた指先をつたい透明な液体が流れ出し、それと共に赤錆を混ぜたゼリーの様な塊が滑り出す。
慌てて手を振り払うと、赤錆色のゼリーは辺りに飛び散り、鏡に軟体生物が這った後のような粘液を残しながらゆっくりと滑り落ちて行った。再び強烈な腐敗臭が辺りに立ち込め、蛇口に指を押し付けて強くこする。夢中でそれの飛び散った鏡や床を拭き、荒い息に体を震わせていたが、その呼吸が落ち着きを見せ始めた頃、鏡に映る自分が「それは何だと。」疑問を投げかけていた。
考えなばならなかった。これは傷なのだろうか?これほど深く肉がえぐれているにも拘らず、何の痛みも無い、いや、なんの感覚もない。白く見えていた物は本当に骨だろうか?頭蓋骨のある位置ならもっと表面ではないのであろうか…。そんな事よりも自分の体に何が起こっているか、今はそれだけだ…それは。
それは、いつもの変わらぬ朝だった。薄い靄の掛かったような駅のホームには大勢の人が不可思議な模様を描くかのように列を作り、規則正しく電車に詰め込まれて行く。同じレールの上を運ばれる人々は、皆無表情にいつも決まった場所に納まり同じ姿勢のまま細かい振動に揺られていた。寸分違わぬ時刻で動く電車が駅に着くのを何度も時計を見ては確認し、秒刻みのスケジュールを気にしてはいたが、駅に着くと皆揃った足並みでゆっくりと歩き出す。人々はその改札を通る度に何かを吸い出されたかのように、虚ろな目をし、コンクリートのビルを色彩豊かに飾り立てた、灰色の街に染み込むように広がって行く。その足取りもその行く先も、明確にいつもと変わる事の無い物であるはずが、その流れはどこかしら澱みを含んだ曖昧さでビルの間を流れていた。
私は、その生気の無い人々をかき分けて進んでいた。ただ、少しでも前へと進むために。その流れを進む者達があまりにも遅くのろのろと進んでいるように思え、何も考えず何も決めず、ただ曖昧な流れに身を任せているかのような人々の間を最短で最速で進むためにその流れの中を縫うように進み続け、前へ前へと歩き続け、澱んだ流れが渦を巻いて散っていく一際高いビルに吸い込まれて行った。
軽く会釈をしながら自分の席に向かうと、昼からの会議のための資料が既に運び込まれていた。端から軽く目を通し始め、いくつかの種類に分けて並べなおしていると、空を見つめているかのようにいつも焦点の定まらぬ男が追加の資料を持って入って来る。各部署が競うようにその量だけを増やした紙の束にたいした意味の無い数字が並ぶ。それを頭の端で計算しながら、ふと窓の外を何かが横切る影が見えた様な気がした。雲の切れ間だろうかと、深く考える事も無く、伸びた髪がかかり痒みを覚える耳の後ろを掻きながら再び意味の無い数字と向かい合う。オフィスは腕時計の針の音でさえ響くかのように静まり返り、時折誰も居ないではないだろうかという錯覚にさえ陥る事もあったが、昼が近づくにつれギィギィと椅子の鳴る音があちこちから聞こえ始め、いつの間にか運ばれたコーヒーの香りに気が付くと、軽く伸びをした。
少し重いドアを開け会議室に入ると、額に深い皺を刻んだ男がその手だけを動かして積み上げた資料を捲っていた。その向かいの席に腰を下すと、そこにある資料にも目を通す。これから始まる会議の事を考えると陰鬱な気分になり、隣に座った男につられて欠伸をしそうになったのを下唇を噛んでこらえていると、抑揚の無い男の声が始まりを告げた。肺に貯めた空気を少しづつ吐き出すかのように長く単調な話が部屋の空気に拡散するように終わると、再びそれを吸い込んでゆっくりと吐き出される低い音が会議室に響く。それが繰り返されるたびに空気は湿った粘度を持つかのようで、足の下からゆっくりと水の中に沈み込む様な息苦しさを感じ始めたいた。
私は、ひたすらに前へ進んでいたはずであった。そう誰よりも、流れの中で澱む人々を押しのけ、その先へと進んだはずであった。ただ、自分の前を歩く者を追い越し、さらに前の者へ追いつき、その流れの中に捕らわれることなく、先へと。そしてたどり着いたこの場所は、何処よりも澱み、流れる事も無く積み重なっていく。誰しも途切れる事の無いと信じるその流れもいつしか澱みの中に消えて行くのだろうか。
額の皺が木目の様に刻まれた男が流木の中に溜まったガスがブクブクと湧き出る様に呟くと、皆息苦しさに深く考え込んで唸るような低いため息を漏らす。誰かの吐き出す一息ごとに日は傾き始め、夕日が窓の外のビルを染め始めた頃、いくつかの事柄を保留とする事が決まった会議が終わりを告げた。
会議室の重く澱んだ空気がドロリとビルにへばりつきながら通りへと流されてゆく。その絡みつくような流れに飲み込まれまいと通りを歩く人々が空気を吸おうともがく魚の様に口をパクパクさせながら逃げ惑う。
いずれこの街を重く澱んだ空気が満たしてしまえば、あの魚は死んでしまうのだろうか。
独りごちた私の問いに、「死んだ魚は浮いてくるのだろうか、沈むのだろうか。」誰かがそう呟いた。
そんな気がした。
鮮やかにビルを染め上げる夕日も澱んだ空気に遮られ、灰色の街の底には届かないのであろうか。ドロリとした流れの中、駅に向かう人々は感情の無い濁った目でゆらゆらと揺れながら遅い流れの中を漂い、ゆっくりとそこに沈んでいくようで、それらに引きずり込まれるような不快感から逃げるように、いつもの居酒屋に駆け込む。
愛想のよい笑顔を顔に張り付けた様な生魚の臭いのする店員が先日と同じ味の無い料理を同じ順番でノロノロと運んでくると、もう何度目になるのか、同僚の同じ話をまた始めから聞くこととなる。それらを口に入れてはビールで腹に流し込みつつ、これが何時の事なのか、と言う疑問を考え始めていたのだが、アルコールで酔いが回り始め同じ話に何度も笑い声を上げていた。
上機嫌で繰り返し話を続ける同僚を濁った空気の居酒屋に残し、一人店の外へ出ると冷えた空気がほてった体を締め付ける。黒く縁どられた街には人も疎らで心なしか澱んだ重い空気の流れも澄んでいるような気がした。
今朝は人ごみをかき分けて進んだ通りを泳ぐように手を振りながら歩く。駅に近づくにつれ、暗い水の中へと潜るように段々と空気の冷たさが肌から染み込み始め、体の奥底まで黒く塗りつぶされて行くような痛みが私の体を前へ前へと急がせる。
巨大な魚がその口を開けて追いかけてくるような恐怖にかられ、岩場の影に逃げ込む小魚のように、人の居ない改札を通り抜けると、あちこちに寝転がるものには目もくれず、ホームへと続く階段を駆け上がった。
吹き抜ける風に体を突き刺されるような痛みを覚えながら人の列に紛れ込む。電車の到着するわずかな時間でさえ、冷たい風が吹き抜けるホームではゆっくりと進むかに思え、一人が電光掲示板を睨み付けながら体を揺らし始めると、その動きは列を伝って後ろへと流れていく。それはまるでホームの上に寝そべる巨大な生き物が蠕動するかで、少しづつ潰されて消化される肉片のようにはっきりしない頭でぼんやりと立ち尽くしていた。水の中をたゆたうようにゆっくりと進むその生き物は、闇の中に浮かぶ光を目指しガタゴトとその体を震わせて足の裏から細かな振動を伝えてくる。やがて、その光に巻き付こうとし、火に触れようとする虫の様に身じろぎしては蠕動を繰り返すそれは、扉が開くと絡みつくような空気でバラバラに引き裂かれ、その中へと引きずり込まれていった。電車の中の暖かい空気が体を包むと、やわらかく歪んでゆく湾曲した視界の中を篭ったアナウンスにそくされて、粘度の高い液体の中に沈むように歩きだし、のろのろと開いている座席に腰を下す。堅めの座席が伝える電車の振動が背中をむず痒くさせながら駆け上るのが何とも心地よい。背もたれに体重を預け、痺れるような体を繭が包み込む感覚を楽しんでいると、不意に誰かに揺さぶられ弾け飛ぶほどに驚く。そう、熟れすぎた果実の様に。
どうやら眠っていたらしい。停車した電車のドアは開け放たれ、車内には乗客の姿は一人も残ってはおらず、車掌らしき人物の歩き去る後姿を恨めしそうに見送ると、まだ、はっきりしない頭を振り、暖かい車内に未練がましい想いを抱きつつも、薄暗いホームへと大股に歩きだした。
冷たい空気の車外に出てもはっきりしない頭を無理に働かせようとするが、終電の明かりが消えると、薄暗い蛍光灯がぼんやりと視界を歪ませ、なにかを引きずる音が視界の端から聞こえていた。改札に向かう乗客の足音だろうか。皮膚をひりつかせる空気から逃れるようにその階段を一歩一歩上がり始める。深みにはまった足を引き抜くように一歩進むごとに息が切れ、のどが渇く。無性にのどが渇いていた。粘膜同士が乾燥し張り付いていく焼けるような痛みが耐え難く、喉を掻き毟りたい衝動を冴えない頭を働かす事で誤魔化していた。
駅前に出れば飲み物にありつけもすれば、疲れた体を休める事も出来るだろう。そんな小さな希望にすがって沈み込む足を無理に引き抜き、先へと急ぐのだが、駅前ロータリーに足を踏み出した瞬間、進むべき道を失い凍り付いた。
ジジジ……、と、今にも消えそうな音のする街灯が辺りを薄暗く照らし、パチパチと小さな虫がぶつかる音を立てる自販機が煌々と光を放ち薄暗い街灯を闇の中へ追いやろうとしている他には、何もなかった。ひりつく喉を潤すにはそれで十分だったが、私は急いでそのロータリーを後にし街灯の頼りない灯りをつたって走り出した。街灯の灯りの切れ目に、その灯りが作る影にびっしりと寝転がる者達の姿があった。それがただの酔っ払いなら珍しくもなんともないのだが、そこに立ち込める悪臭、生ごみの腐ったようなにおいが湧きあがり、浜辺に打ち上げられた深海魚を連想させた。良くこんな所で寝ていられるものだと思いつつも、それらが闇から這い出る恐怖にかられ、足音を立てずに口と鼻を手で押さえながらその光を踏み外さぬよう慎重に進んでいた。
そこから一歩離れると、空気は不純物が取り除かれ限りなく透明になるようにその匂いも消え、代わりに心臓を突き刺すような黒く冷たい風が吹き込んで来る。まるで住宅街のように街灯も疎らな駅前の通りは、ひっそりと静まり返り、生き物に見捨てられた場所に入り込んでしまった不安が募る。引き返そうかと思うほどの心細さに辺りを見渡すと、狭い通りが続く闇の中にポツンと、コンビニの灯りが見えた。それがこれほど心強く感じられたことは無かっただろう。私は迷うことなく歩き出した。
思ったよりも遠いな…。頭に浮かんだ言葉はそれだけだったが、ただひたすらまっすぐ進むという事は思いのほか距離を感じてしまうものだ。前を歩く人を追い越し、立ち止まる人を迂回して、進み続けていれば、いつの間にかそこへ着いていた事であろうが、ただ真直ぐに同じペースで歩き続けるという単調さがどれだけ時間の流れを遅くすることであろうか。時の流れが遅くなると共に私の足もその動きを遅くして行き、いつかはそこに立ち止まったまま動かなくなるのではないか。かつて私が追い抜いた、色の無い目をしたまま立ち止まっていると感じた人々の様に。だが、いずれ道は終わる。
そこだけはよく見慣れた光景が広がっていた。知らぬ街でさえ同じようなつくりの商品棚に昨日と同じ商品が並んでいるだけの変わらない安心感。レジに立つ店員が首を動かすことなく抑揚の無い声で「いらっしゃいませー」と、間延びした声を発するも、ただそれだけで、非日常を彷徨う思考が引き戻される。私はふーっと、気づかれぬように息を吐き、家までの寄りはどれくらいであろうか、タクシーで帰るとしてもどこで捕まえればいいのか、明日の午前の予定は…などと、思いを巡らしながら商品棚の前で意味深にそれらを眺めていた。選ぶ必要もないよく見慣れた商品と同じで、それらも何か意味がある訳ではなかった事に気が付くと、昨日と同じ紅茶に手を伸ばしていた。
不意に、その手を掴まれ驚きに身をよじろうとしたが、腕に伝わる柔らかい感触が手荒に扱うのを止めた。死人のように白い肌を惜しげもなく露わにした派手な色合いの服装の女性が腕にしがみ付いたまま大声で笑いだす。他に客がいる訳でも無かったが、店員の無関心な目がこちらに向けられ少し気まずい思いをしたが、三人組の女性達は構うことなく呂律の回らない言葉で話す。彼女たちを押しとどめる事を観念した私は、店員の小さなため息とともに、体重を預けるようにしてしがみ付く女性に押され店の外へと追い出されると、そのまま何処へ連れて行こうというのか。腕をしっかりと絡めて引っ張られながら、背中から体重を預け押している女性がおぶさるようにしがみ付き、疲れを思い出した足がふらつく。狭い通りをゆらゆらと歩きだすと、その後ろからついて来る女性も同じように揺れながら裏通りへと入ると、そこには暗い明かりが灯る居酒屋があった。
込み入った通りの奥にひっそりと建つ居酒屋は、一人では見つけられなかったであろう。こんな場所で深夜まで営業していては、元が取れないだろうと思いつつも他に行く当てもない身としてはありがたかった。ガラガラと音を立てる引き戸を女性の白い腕が勢いよく開けると、入り口近くに座っていた背広姿の男が驚いたように顔を上げ、感情のこもっていない目をこちらに向けたが、ゆっくりと首が傾くにつれ、その瞳を動かすことなくテーブルの上に視線を落とす。その無気力な目のおかげでその男が魚のように見え、皿の上の焼き魚を凝視する姿が滑稽に思え、笑いをこらえながら奥の席に向かった。席に着くなり急に眠気が襲われ暗い底へと落ちて行きそうになるも、女性のとりとめ無い話にもう一人が笑い声を上げる度にそこから引き戻される。こんな時間にもかかわらず意外にも客で席が埋まっていたが、店の中はあまりにも静かで女性たちの笑い声がよく響く。少し静かにさせようと思うも、彼女たちのとりとめのない会話に入る事も出来ず、一人押し黙っている女性に助けを求めようとしたが、彼女も会話に混ざるタイミングがつかめないらしく、何か話そうとしては口をパクパクさせては気まずそうに押し黙っていた。それは水槽の魚を連想させ、段々その女がこちらを向いて泳いでくる魚のように見え始め、店の灯りが波間に途切れ途切れに差し込む日の光のように揺れ動いていた。騒めきも店を満たす透明な水の中をくぐもって行くかのように私の関心から薄れ始め、ゆっくりと店内に視線を巡らしている時に、それを見た。
それは、店の入り口近くの天井にへばりついていた。数メートルはあろうかという巨大な蜘蛛のような姿と言っていいのだろうか、丸く盛り上がった胴体に長い昆虫めいた無数の足が生え、その先は人間の手の様に長い指に分かれて、器用に壁の突起物を鷲掴みにしてぶら下がっていた。それは音も無くするすると床に降りてくると、先の尖った四角い角のような頭を持ち上げ、大きな鼻をひくつかせながら頭を振る度に薄い金属を折り曲げるような音をさせていた。異常な光景に息をのみ汗が吹き出したが、怪物のまじかに居る店員はそれに気が付きもせず空のグラスを運び、その正面に座る男は、その怪物の向こうにある壁を眺めていた。誰もその怪物に気づかず、その存在を見えないかのように振る舞う。それこそが異常な光景だった。だが、怪物は構うことなく「PAGO、BAGO…。」と、奇妙な音を立てながら、周りの臭いを嗅ぎ始め順番に客に近づいて行く。やがて、焼き魚を見ていた背広の男の前に来ると触れんばかりに鼻を寄せ臭いを嗅いだかと思えば、いきなり大きな腕の一つがその男を鷲掴みにして、頭の側面にある口の中へと放り込んだ。男の体の半分が消え、咀嚼する度にバリバリと骨を砕く音を立て、まだその音が消えぬうちに残りの体も口の中へと押し込みながら、鼻をひくつかせて次の獲物の臭いを探していた。
怪物は順番に客の臭いを嗅ぎながら、ゆっくりとこのテーブルにも近づいてくる。女性達は相変わらず大声で笑い合っていたが、それには何の興味も示してはいなかった。しかし、私は音を立てて注意を惹いてしまわないように慎重に腰を浮かしてその怪物から離れようとしていたのだが、急に素早い動きで角のような頭が振り回された。身を引いて身構えるも、どうやら口をパクパクさせている女性の臭いが気になっているようで、しきりにその頭の周りの臭いを嗅いでいる。これからそこで起こるであろう事に血の気が引いて行くのを感じ、目の前であの様な光景を見るには耐えられず、それに背を向けて席を離れようとした時、テーブルの下からするりと伸びた手が私の膝を掴み、恐怖のあまり叫び声を上げて、テーブルのグラスが床に落ちた。ガラスの破片が飛び散り、その一つ一つが光を反射させ、それがお互いを照らし合い、さらに、その光を強め瞬く間に辺りが真っ白になるほどの眩しさに目が眩む。
慌てて瞬きをすると、そこはよく見慣れた混雑する電車の中であった。夢を見ていたのであろうか、私は気持ちを落ち着かせようと辺りを見渡す。いつもと変わらぬ車内だった。テカテカした紙の吊り広告に蛍光灯の光が反射して目が痛む。眠っていたのか、あれは夢だったのか、不意に夢の中で掴まれた膝に痒みを覚え、そこを強く掻いてしまった事に後悔した。掻けば掻くほど体のあちこちがむず痒く、あの出来事がそこに残っているかのようであった。
その奇妙な感覚を頭から追い払うように、サッと立ち上がると向いの電車へと乗り換える。随分眠っていたのだろうか、何本か乗り換えなければならなかったが、乗り換えの連結はタイミングが良く、ホームに降りてはすぐに次の電車に乗り換えることが出来た。何本目の乗り換えだろう。その電車はボックス席になっているタイプでそれほど混み合ってはいなかったのだが、入り口の横に備え付けられた補助席のそばで男が気分が悪そうに唸り声を上げている。それが気になった訳でも無かったのだが、開いている席を探して狭い通路を歩きだそうとした時、背もたれの上に目だけを出している子供の視線に寒気が走った。子供が座席の上に立てば丁度あれくらいなのだろうか、その目はまるで瞼の無い魚のようにこちらを凝視していたが、どこを見ているのか分からず、何とも言えぬ嫌悪感が込み上げてくる。胃の中から体の内側を這い上って来るそれを押さえようと胸に手を当てると、ドサリと背後で大きな物が倒れる音が聞こえた。
たいした興味も無く振り向いたそこには先ほどの男が俯せに倒れている。私自身、特に何の感傷も持たなかったが、直ぐ傍に立っている他の乗客たちも、その男には何の関心もない様子で誰一人見向きもしなかった。冷たいものだな、所詮は他人事か。そう思うと、何かしなければという義務感が湧いてくる。しかし、それと同時に面倒事に巻き込まれるのは御免だという思いも強くなっていく。
倒れている男に声をかけるべきか思案している所に、ウっっと顔を背けたくなるような臭いが立ち込めた。まるであの駅のロータリーのような浜辺に打ち上げられて腐ってゆく魚の臭い。そう、その倒れた男から。その臭いはどんどん強くなり、倒れそうになるほど強烈に臭い始める。それから逃げるように、ふらつく足で隣の車両に駆け込むと、大きく息を吐いて肺の中の空気を入れ替えた。どうしたらあんな臭いが出るのか。そんな疑問を込めた眼差しをガラス越しに向けてみると、あれほど強烈なにおいにもかかわらず誰一人その場を動こうとする気配も不審がる様子も見て取れなかった。あの臭いが何なのか、それを確かめに戻る気にはなれず、次の電車に乗り換える事にした。
それからというもの、無性に落ち着かない。通勤途中の電車の中だけが唯一気の休まる空間だったというのに。最近の奇妙な出来事、いや、そもそも体が触れ合うほど近くにいるのに、隣にいる人物の事を何一つ知ってはいないのだ。全く未知なる存在がこれほど近くにいて、今まで落ちつけていた事の方がおかしいのではないのだろうか。同じような無表情の顔が張り付いているその皮膚の一枚下は何が入っているのか分からないそんな生き物に囲まれて、動くこともままならない閉じられた空間に居るのだ。だが、誰とも共有しないその時間だけが、安らぎを与えていたことも事実だった。
それでも、毎日繰り返し電車に乗り、会社へと向かう。長くどこまでも続く人の列が作り出す緩慢な流れに乗り、灰色の街に染み込むように消えてゆく人の流れを追い越して歩く。昨日と同じ敷かれたレールの上の役割をこなし、ただ繰り返す。それは摩耗する事なのか、磨かれて行く事なのか。
昨日と同じ書類に目を通し、耳の後ろを掻きながらいくつかの数字を計算し、無気力にオフィスを歩き回っている男に山積みされている紙の束をいくつか渡すと、焦点の合わない目でそれを眺めながら、キリキリとぜんまいを巻くように首を動かしふらふらと自分の席へと戻って行く。それを何度繰り返したのだろうか。いつからそれを繰り返しているのかさえ分からなかった。ただ自分の役割をこなし、重く湿った空気を積み重ねて行き、ねっとりとした息苦しさを感じては、いつの間にかぬるくなったコーヒーを飲む。
そんな時でさえ飲み屋の女の子から来る連絡が重く曇ったオフィスに彩を添える。甘く熱烈な言葉で飾り立ててはいたが、今年に入って何度目かの誕生日が来たらしい。痒みを覚えるほどの作り物の言葉ではあったが、粘り気のある空気が遅れて反響させ糸を引くような音の響くオフィスでは、それは心地よく香り立ち、作り物のセリフで快く返事をした。ふと、右手の甲の皮膚が点々と白く捲れている事に気が付き、ハンカチでそれを拭う。ストレスで肌が荒れているのかと、何度か強めに擦るとそれはきれいに頭から消え去っていた。
窓の外をギイギイと金属がこすれるような声で鳴く鳥が通り過ぎ、辺りが暗くなり始めた頃、一段落ついた仕事を引き出しに終い込み、上等な方の腕時計を取り出す。人の少なくなったオフィスで軽く伸びをし、空いた席に誰が座っていたのか思い出そうとするが、そこに居たはずの人物の顔が思い出せなかった。そこには誰も居なかったのだろうか、コートを羽織りつつオフィスを横切リ、いくつもの空いた席を眺めながら通り過ぎるが、そこに居た誰かを思い出すことは無かった。
辛そうに重い足を一歩づつ引き抜きながら歩く人々の流れに乗りビルから通りに出ると重い気分に引きずられて、陰鬱な気分に気が滅入っていた。駅に向かう澱んだ流れに混ざり込み流されるまま歩き出そうとした時、ビルの陰から体格に合わない大きなコートを着た女が、人懐っこい笑顔を作って駆け寄って来る。今しがた忘れそうになっていた、彼女との約束を思い出す。迎えに来てくれた事を大げさに喜び、柔らかなコートを押しつける彼女と腕を組んで歩き出す。自分だけが澱んだ流れから救い上げられたように、上機嫌で笑い声を立てると、陰鬱な空気に包まれ辛そうに歩く人の群れが光りに照らされた虫のようにそそくさと周りから離れていく。暗がりのじめじめした空間から切り離されたような解放感が何とも心地よい。
足取りも軽く向かった彼女の店は、コンクリートの壁を華美な看板で飾り立ててあるビルにの中にあった。廊下にも派手な色の絨毯が敷かれその色彩からはみ出る世界など存在しないかのようで、微妙な色のライトに照らされながら歩く。上等な革張りのソファーに体を沈め、彼女の細い指先が器用に水割りを作る滑らかな動きに見惚れていた。そうだった…、彼女の誕生日を祝わないと。いつものメニューではなく、豪華なフルーツがテーブルに並べられ、むせ返るような、熟れすぎた果実の甘い臭いに咳き込みそうになるが、彼女の注いでくれたシャンパンを手に取り、芝居がかった笑い声を上げて彼女の誕生日を祝福すると、彼女は時代がかった返事で礼を述べた。ここでは誰もが自分の役割を演じている。華やかな舞台の上の役者の様に高らかに声を上げて。仮面の下の薄暗い影を見せることなく。
光り輝く舞台で夜の住人たちが踊り明かす。その熱に浮かされた高揚感か次第に遠くに感じられ、周りの声も、くぐもったエコーが掛かり、それらすべてが金魚鉢を覗き込むように、引き伸ばされて湾曲していく。
あれほど、普段の役割から解放された非日常の彩る世界を楽しみ、自由を謳歌していたというのに…、何か黒く長いものが鎌首をもたげて、その影を差し込んで来る。
解放感…、いや、そんなものはありはしなかった。皆、自分の役割をこなしているに過ぎない。ここは変わる事の無い昨日と明日の間でしかなく、ただそこでの、その時の役割でしかなかった。
私はいったい何のために、そう、誰のために走り続けていたのであろうか。ただ、前を目指して、少しでも先へと進むために。目の前にいる誰かを押しのけ、追い越して、その先へと進んでいた。後ろへと消えて行く者の怠惰を嘲笑し、決して抜かれまいと、戒め、怠けることなく、走り続けてた。それがどれほど険しく、厳しい道のりになろうとも、たとえ共に走る人の姿が消えたとしても走り続けねばならなかった。その道の先にある物を信じて。そう、たとえ誰も居なくなったとしても、自分だけがそこへたどり着けるとしんじていた。だが、それは本当にあるのだろうか、どれだけ人を抜き去り進んでも、どれほどの満足感を得ようとも、満たされることは無く、決して、そこが目的地となりはしなかった。それはいつまでも続く通過点の一つでしかなく、その歩みを止めることは出来なかった。
私は、私自身のため、立ち止まる訳にはいかなかった。その先へと続く道をさらに進まねばならない、ただ、ひたすらに走り続けなければならなかった。そう、生きるために。私らしく、いや、私として生きるために。それが、私の役割だというのか?…ただ、生きるためだけに、どこまでも走り続けているのか、いつまでも、生きるためだけに。ならば、死ぬまでその役割から解放されることは無いのか?死ぬまでその役割を演じてゆくのだろうか。
死ぬまで、ただ、生きるためだけに。
色鮮やかな金魚鉢が徐々に濁るように、色彩豊かなスポットライトもその色を失い始め、その白々とした光に照らされまいと、艶やかなドレスに身を包んだ女たちが一人また一人と、闇の中へと消えて行く。まるで、私だけがそこに取り残されるような、やるせない思いに駆られて、重い足取りで駅へと向かった。
それは沼の底にぽっかりと開いた排水口のように、暗く、深く。泳ぎ疲れて、力尽きた者からそこに吸い込もうと口を開いているかのようで、その緩慢な流れに引きずられるように歩み出す。街に溜まった澱みを流し出そうというのか、派手な色合いの看板から滴る錆のように、そこから染み出た者たちがゆっくりと流されて行く。駅に近づくにつれて、そんな流れにさえ乗れず、杭に引っかかるようにその場に倒れ伏している者たちの姿が目に付いた。彼らは流し出されることも無く、この街の水底に積み重なるのであろうか。そこでゆっくりと魚の死体のように腐敗してゆくのか。
私はそれらに振り返る事はしなかった。ただ、前だけを見て歩く。そう、振り返る事無く、敷かれたレールの上を走る電車へと乗り込んだ。乗客の少ない電車は、ゆったりと座れる座席が伝えてくる小さな振動が心地よい、はずだった。だが、そこに填まっていたパーツが欠落したかのように隙間の空いた空間がこぼれ落ちた記憶の喪失感を伴い、何とも落ち着かなかった。胃の内容物をかき混ぜるような振動に目を閉じるも、いつもの様に睡魔が訪れることは無かった。もし、眠ってしまえば、あの夢のようにどこかへ行く事になるのだろうか。
あの怪物が天井から這い降りてくる、そんな恐怖を…、いや、期待しているのか?自分の理解の範疇を超える何かを。
疲れがたまっていたのか、久しぶりに熟睡した気分だった。遅めにセットした目覚ましに手を伸ばし、ゆっくり起き上がると、揺り動かされた頭が途端に二日酔いの痛みを思い出す。目覚めた時の柔らかな光に包まれた爽快感はすぐに消え去り、窓から差し込む光が作り出すもやっとした影が部屋のあちこちの転がっていた。それ以上頭を揺り動かさないように額に手を当てて、洗面所に向かう。のろのろと歯を磨き始めると鏡に映り込んだ目の下が少し赤くなっていた。二日酔いの頭でどこかにぶつけたのかと、思い出そうとするも、響くように痛みが広がるばかりで、そのいら立ちを誤魔化すように、耳の後ろを掻く。
そして、それに気が付いた…。