世界の終わり
最初は小さな違和感から始まった。
「おはよう。えっと……アンナ。いや、アリスだっけ?」
「いいえ、マリアですよ」
「あぉ、そうだった……マリア」
笑ってごまかしたけど、内心、ヒヤリとした。
名前だけならまだいい。
もし、コンピューターの押すボタンを間違えれば、取り返しのつかない大変なことになる。再点検を行ったばかりだったので、これは、何かおかしいなと思った。
「たしか、ここ……だったな」
データベースに接続して、マリアの情報を引き出す。
アンナは祖母の名前で、アリスは母親の名前だった。
その情報を紙にメモして、張り出した。
「マリア……マリア、と……」
データベースとは情報を共有している。
それこそ人間が100人いても、間違えることなんてなかった。
それが、たった1人しかいないのに間違える。アンドロイドである自分に、そんなことが起きるなんて、思いもしなかった。
朝、起動したら、まずメモを見るようにした。
原始的な方法だが、悔しいことに、それしか手段はない。
マリアに悲しそうな顔をさせるのは辛かった。
マリアの名前を、忘れたくない。
まさか、自分がそんな事を思うようになるだなんて、誰が思っただろうか。
いくら忘れたいと願っても忘れることを許されなかった。
それが、今や逆になってしまった。
積み重ねてきた時間が、自分というアンドロイドを作った。
自分が無くなっていく感覚に、私は恐怖した。
いったい何時から、その症状は始まっていたのだろう。
もしかすると、少しずつ、事態は進行していたのかもしれない。
あと少しなのにと、思う。
マリアが居なくなれば、どうなってもいい。
人間の生命を維持させることが自分の使命だった。
抜け落ち続けるデータに、焦りを感じている。
ひとつ、ひとつ、まるで虫食いのように思い出が曖昧になっていく。
だが、もうメンテナンスをしてくれる人もいない。
「まさか、あんな男を思い出すとはな……」
ふと、思い浮かんだ顔に、笑った。
記憶の中に残る男の顔は、何時でも嫌みな笑みを浮かべていた。とにかく、自己中で性格の悪い男だったが、すべての欠点を補って余りあるほど、天才だった。
自分は、その男に、なんでもイエスと言うようにプログラムされていた。
それこそ人体実験のような事の手伝いもやらされた。
人間を憎んだ時期もあったが、そんな自分が人間を守る立場になるとは思いもしなかった。
悔しいが、きっと、あの男なら、自分を直すことができるだろう。だが、100年に1人と言われた、あの天才に代わる人間は現れなかった。
「そろそろ、行かないと……」
マリアも、寂しがっているに違いない。
メモを読んで情報を頭にインプットしてから、私はマリアのところへ行った。
「おはようございます、博士」
「あぁ、おはよう」
ゆったりとした、何時もの日常が過ぎる。
だが、その日は、思いもよらないことを、言われた。
「……お願い、博士。私を此処から出して」
そんな事を言う人間は久しぶりで、私は何を言われたのか理解しきれなくて、目をパチパチと瞬かせた。
この子どもは、こんな顔をしていただろうか。
人間は成長が早い。
たった1ヶ月、いや1日でも、息を飲むほど変わる。何がきっかけになるか、わからないな、と思って、私は微笑んだ。
この最後になるであろう人には、何でもしてあげようと思っていた。
「ごめんね。それは、してあげられないな……」
だからこそ、そんなことを認めてあげることは出来なかった。驚きの声を上げて反発するマリアに、私は水槽の中が、どれだけ安全なのかということを力説した。
現状では、危険を冒すだけの価値はない。
マリアのためになるというならわかるが、そうでないなら論外だ。
落ち込むマリアに、なにか言葉をかけようと思ったら、けたたましい警報音が鳴る。
「……なんだろう。犬かなぁ」
施設そのものも古くなってきているので、動物が迷い込むことは良くあった。私は、麻酔銃を持って、見回りに行ったが、侵入者は見つからなかった。
仕方なく、マリアのところに戻ろうとして、足をとめた。
「生きて、いるのか……?」
マリアの前で、涙を流す、青い目の男。
驚愕した。
まだ、この荒廃した世界に人がいたのかと、思うと同時に、希望の光が見えたような気がした。
「そこの人……」
アンドロイドとしての私は、経年劣化により綻びを見せ始めていた。それは、自分では制御できない代物で、根本的な打開策は見つけられなかった。私の出来ることと言えば、だましだまし、自分を維持をすることぐらいだ。
しかし、これなら、いけるかもしれない。
震える声で、私は男に呼びかけた。




