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「ぐーてんもるげーん」
驚いて顔を上げる。顔を上げてさらに驚いた。
(いつから、いたんだ?)
全く、気付かなかった。気配が無かったのだ。黒木は少し特殊な家で育ち、幼少から父親に訓練されたために、一般的な人間より特定の感覚が格段に鋭敏である。その黒木をもってしても、その人物が、いつ店に入り、いつカウンターの前に立ったのか、全く分からなかったのだ。
そして、驚いたのはそれだけが理由ではない。カウンターを挟んで黒木のすぐ目の前に立っていたその人物は、一昔前のヨーロッパからタイムスリップしてきたかの様な格好だった。
その人物は中年の男性だった。白に近いクリーム色の高級そうなスーツに、同じ色のシルクハット。スーツの下には淡いブルーのベストが見える。黒いステッキを身体の前でつき、白手袋を嵌めた両手をその持ち手に重ね、音も無くそこに立っていた。挨拶からして、ドイツ人なのかと一瞬考えたが、片眼鏡をかけたその顔は、明らかに日本人だと分かる。
黒木は警戒のスイッチを一つ入れながらも、冷静に対応した。
「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ。」
その紳士は、微笑んで頷いた後、ゆっくりと黒木の目の前のカウンター席に腰掛ける。
「警戒しなくてもいい。私は怪しいモノじゃない。」
人を外見で判断してはいけないと言うが、残念な事にその言葉からは全く説得力が感じられなかった。黒木はちらりとキッチンを振り返るが、マスターが出てくる様子は無い。
「ご注文はいかがいたしましょう。」
黒木が決まり文句を口にすると、男は「ふむ」と少し考える様に、口に手を当てた。
「確かに、何も注文しないわけにもいかない。では、アメリカンを頂こう。」
何も注文する気が無かったのに、なぜ喫茶店に入って来たのか分からないが、男はそう答えた。
黒木は「かしこまりました」と答えて、キッチンの奥に顔を出し、注文をマスターに伝える。マスターは読んでいた新聞を置いて作業に取りかかりながら、「一見さんかい?」と黒木に尋ねた。
「そう・・・だと思います」
と意味ありげに答える黒木にマスターは「そう」と返しただけだった。黒木はカウンターに戻らず、コーヒーの抽出が終わるのをその場で待った。棚からソーサーを出す時、ガラス扉に映った男の姿を確認すると、胸ポケットから懐中時計を出して時間を確認しているところだった。
ドイツ語で挨拶をした明らかに日本人である男が注文したアメリカンコーヒーを持ち、黒木がカウンターに戻る。
「ほう、これはうまそうだ。」
男は満足そうに言ったが、コーヒーに手をつけようとはしない。すると男は唐突に「ところで」と話しだした。妙に声が大きい。
「私は、アルベルトという。」
突然の名乗りに、しかもどう考えても偽名であることは明白な名乗りに、黒木は「はぁ」と間の抜けた答えを返す。すると、男はカウンターから少しだけ右手を出し、掌を上に向けて黒木の方に差し出すと、またすぐに手を引っ込めた。
それが自分にも自己紹介を要求するジェスチャーであることに気付くのに多少の時間がかかり、黒木は慌てて自己紹介した。
「あ、僕は黒木といいます。」
「黒木くんだね。実は君に頼みがある。」
この男は何もかもが唐突だった。
「頼み、ですか。」
「そうなのだ。聞いてくれるかね。」
「内容によりますが・・・」
アルベルト(自称)は大袈裟に頷き、「それはそうだな」と先を続けた。
「頼みというのはだね・・・」
そう言うと、アルベルトはカウンターに肘をつき、両手を口の前で組んでから、じっと黒木を見つめた。その瞬間、黒木は目の前の男の雰囲気が微妙に変化したことに気付く。アルベルトは今までとは打って変わって穏やかに言った。
「ある女性を、守ってもらえないだろうか。」