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真鍮製のドアノブを捻り、店の中に入る。店内はどこか懐かしさを感じさせる古い木の匂いと、マスター自慢のコーヒーの香りで満たされている。
いかにも年季を感じさせる、黒光りしたフローリングの床に6組のテーブルと椅子が置かれている。しかしその6組はどれ一つとして同じ形の者は無く、古い木製のアンティークという共通点を除けば、統一性は皆無であるといえた。窓際のカフェテーブル、大きな円卓、ローテーブル、一人用のデスクの様な物もある。
店の一番奥にある猫足のソファで、大きな黒猫が丸くなっていた。あの猫は別段ここの飼い猫というわけではないようだが、店内で眠っているのをしょっちゅう見かける。常連のお客さんには「黒いの」とか「クロ坊」とか呼ばれているが、この店のマスターは彼の事を「シュヴァルツ」と呼んでいた。
この店でアルバイトをしている大学生の黒木は、誰もいない客席の間を通り過ぎて奥にあるカウンターの中に入り、キッチンの奥にいるはずの相手に声をかける。
「おはようございます。」
今はもう夕方にさしかかろうとする時間だが、以前居酒屋でバイトをしていた時からの習慣で、そう挨拶する癖がついていた。
「ああ、おはよう。早いね。」
キッチンの奥から少し掠れた、しかし落ち着いた声で挨拶が返ってくる。声の主はこの店のマスターだ。白髪に口髭をたくわえ、60はゆうに超えていると思われるが、背筋はピンと伸びている。今はキッチンに置いてある椅子に腰掛けて新聞を広げていた。
黒木は白いボタンシャツに黒のズボンという出で立ちで、特に指定された訳ではないが、バイトの時は大抵これに近い服装で来るようにしていた。カウンターの下から畳んで置いてある漆黒のエプロンを取り出し、その上から身につける。
エプロンにはちょうど胸にくる辺りに、金色の糸で次の様に刺繍が施されていた。
DUSK
ダスク。それがこの店の名前である。黒木がこの店に初めて訪れ、マスターに自分の名前を名乗った時、マスターは目を細めて「この店と同じ名前だね。」と言ったのだった。
シャツの袖を肘のあたりまで捲り、仕事に取りかかろうとするが、そこで立ち止まる。特にやることがない。
店には現在客は一人もいない状態だ。この店は喫茶店には珍しく、夕方から夜遅くにかけてが来客のピークになる。今はまだその時間には少しだけ早い。では店の掃除でも、と思ったがこの店はいつも黒木が来る前にマスターが掃除を済ませてしまっていた。
いつもこうなのだ。この店のほとんどの仕事はマスター一人で大体処理されていると言っていい。黒木も気をつけて先に先に動こうとはしているが、そもそも仕事量自体が多くなかった。
黒木が初めこの店に来たあの日、マスターは面接などは一切せず、自己紹介を終えた黒木にいきなり「じゃあ、明日から来てくれるかな」と採用の決定を告げた。黒木が仕事の内容を尋ねると、
「注文を取り、お客さんと話をして、お手伝いをしてくれたらいい。」
とだけ答えた。その答えに黒木は少し違和感を覚えたが、「お手伝い」というのは「店を手伝う」という意味であろうと納得したのだった。
かくして黒木は喫茶店ダスクで働き始め、2週間が経った。居酒屋でのバイトで接客には慣れていた黒木は、この店の常連客達にすぐに気に入られた。黒木もこの2週間で常連客達の顔と名前はほとんど覚えることができた。
ダスクの客層は意外と幅広く、年配の客中心ではあるが老若男女様々な客が訪れる。黒木はマスターに言われた通り、注文を取り、客と話をした。それに、黒木も努力している。今日も、先日常連客の一人である「中辻の奥さん」に強烈に勧められた海外ドラマのDVDを一気に観て来たところだ。今日奥さんが店に来たら、既に考えてある感想と好きなシーンの話をしようと心に決めていた。
そんな事を考えながら、大して埃が落ちてもいないカウンターを台拭きで拭いていると、突如、すぐ近くから声が聞こえた。
「ぐーてんもるげーん」