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ビルと同じくらいの高さになった太陽が、街を山吹色に染め始めたころ、黒木はまだ街をうろついていた。
何件か良さそうなアルバイト募集先に直接出向いてあたってみたが、どこもこちらの条件に合わなかったり、既に人を雇ってしまったりしていて断られてしまった。アサ子に貰った時に比べて、幾分くたびれてきた情報誌を睨みながら、黒木は苦渋の決断を迫られていた。やはり、もう少し時給の安いところで妥協するべきか、それとも・・・
アサ子の意地悪く笑う顔が目に浮かび、頭を振る。これまでにも何度かアサ子が「バイト」と称して持ってきた話について行ったことがあるが、どれも散々な目にあった。
(遠くなっても良い。地域を広げて探してみよう。)
そう決意し、再び通りを歩き始めたその時、前の方から子供の叫び声が聞こえた。見ると、老婦人に連れられた小学生くらいの女の子が手に持っていた風船を離してしまった所だった。女の子はこの世の終わりを見たかのような顔で、必死に手を伸ばし飛び跳ねている。
既に女の子のすぐ近くまで助走をつけていた黒木が、大きく跳躍した。
一瞬で風船との距離が詰まる。手を伸ばした黒木の指先が、もう少しで風船の紐に届こうとした刹那、突如黒木の視界が真っ黒になった。続いて何か柔らかい物で鋭く顔を突かれる感覚。何か独特の臭いがした。
視界がまた開けた時、目の前にあったはずの風船は消失していた。バランスを崩しそうになりながらなんとか着地する。
黒木が顔を上げると、そこには口に風船の紐を咥えた、中型犬かと見紛う程の大きな黒猫が澄ました顔で座っていた。
あっけに取られる黒木の脇を通り過ぎ、女の子の方に歩いていく。女の子は「猫ちゃんすごい!ありがとう!」と嬉しそうに猫の頭を撫で、老婦人と共に歩き去っていった。
残される黒木と黒猫。
「踏み台にしたな・・・」
黒木が低い声で唸ると、黒猫は嬉しそうに目を細めて口角を上げたように見えた。
睨み合う一人と一匹。
事故は続いた。
バキンと金属が折れたような音が少し離れた場所から聞こえ、直後にけたたましいブレーキ音が響いた。
黒木と猫が同時に目をやると、そこから十数メートル離れた路上で大型のトラックが急ブレーキをかけ、不自然な角度で止まっている。そしてその左後輪が、ボルトが破断したのかトラックを離れ猛烈な勢いでこちらに転がってきていた。
いや、こちらにではない。
転がっていく先には、風船。
先程の老婦人と女の子が、何が起きたか理解できずに立ち尽くしている。黒木と猫は同時に走り出した。
大型トラックのタイヤはホイールも合わされば100キロに及ぶ物もある。そんな物が高速で転がり人間に衝突すればひとたまりもない。老婦人もようやく危険に気付き、咄嗟に女の子を庇うように抱きしめたが、足が竦み逃げるまでには至らない。周囲の人間から悲鳴があがる。
猫が黒木より一瞬早く二人の下に辿り着き、女の子のスカートを咥えて引っ張るがさすがに動かすことは出来ない。タイヤまで数メートル。
周囲の人間が惨状を覚悟し目を伏せたその時、黒木がタイヤと二人の間に躍り出た。
響き渡る乾いた炸裂音。
黒木の体が宙を舞い、女の子の頭上を飛び越して、背中から歩道に落ちる。タイヤは女の子の1メートル手前でゴロゴロと斜めに回転した後、倒れて止まった。
何が起きたか分からず、周囲の人間はただ呆然としている。
我に帰った老婦人が孫の無事を確認する。その中で只一人、事の一部始終を見ていた女の子が、祖母にもみくちゃにされながら
「お兄ちゃんがね。手で止めたんだよ。」と話した。