19-5 六位宿世
物の初めの、六位宿世よ。*
夕霧ははっとした。
彼女のせいではないが、百年の恋も冷めるというものだ。
そうか、こんなところでのんきにロミオとジュリエット気どってる場合
じゃなかった。
急速に我に返ると、冷めた瞳で女を見つめた。
「俺を好きという気持があるなら、どうか待っていて」
「でも、お父様がどうなさるか…お父様には逆らえませんわ」
「わかってる」
あの腕力だ、俺だって逆らえないよと夕霧は思った。
「お父さんは君に、この上ない結婚をさせたいんだよ。君を幸せに
したいんだ」
「でも、それではあなたと…」
「うん、今は難しい。でも信じて待っていて。少しずつ位をのぼって、
必ず君にふさわしい男になってみせる。そうすれば、伯父さんも俺
との結婚を許してくださるだろう」
「そうかしら…?」
「ああ、伯父さんは偉い人だ。物の道理のわからぬ人じゃない」
夕霧は言葉を切ると、少し微笑んだ。
「お父さんに祝福されて結婚しよう。その方が幸せだよ。お父さん
のおっしゃることを、よくきいて」
彼女はうなずくと、そっと立って行った。
父親が迎えに来た音が、はっきり聞える。
夕霧は、彼女が離れた衣擦れを確認して、そっと部屋を出た。
その肩をぐっとつかんで
「おい」
ふりかえりざま
ばきっ
すごい音をさせ、夕霧を殴った者があった。
夕霧が吹っ飛ぶ。
廊にいたのに庭まで落ちたので、さすがに痛かった。
「お前、ここで何してる」
殴ったのはもちろん彼女のお父上だった。
痛え…
夕霧は頭をふりつつ、ゆっくり体を起こした。
口の端の血をぐっとぬぐう。
ほんと、殴んのが好きな人だな
手をついて、何とか起き上がった。
内大臣は自分も庭に降りると、夕霧の胸倉をぐいとつかみあげた。
彼は背が高い
夕霧はつるし上げられた形だった。つま先が少し浮いている。
女房たちは慌てた。だが止められるはずもない
皆、息をのんで見ている。
「貴族のくせにグーパンチとか。正気すか」
夕霧は嘆息して内大臣を見上げた。
伯父も上からぎろりとにらみ下げる。
「娘に二度と近づくな。文も許さん」
夕霧は目を細めて伯父をにらんだ。
その「で?」という顔が、内大臣を余計いらつかせた。
夕霧クールだが、沸点は意外に低かった
怒っても顔に出さないだけである。
面倒くせえな
しばらくにらみ合っていたが、ふと伯父の背後に女を見つけた。
雲井雁だ
彼女が父の用意した車に乗せられながら、じっとこちらを見ている。
ああそうだった
こんな些細な事でいざこざ起こしてちゃ始まらねえわ。
夕霧はすっと我に返ると、伯父をまっすぐ見つめた。
「すみませんでした。もうしません」
「絶対だな」
「はい」
真摯な瞳のおかげか、少年は投げ捨てるように捕縛から解かれた。
つかんでいた手をぶんと放された勢いで、また庭に転げる。
「浅葱風情の芋虫が。地でも這いつくばっていろ」
内大臣は息巻いて、のしのし去っていった。
その背を見送りながら
まあ、こんなもんかな。
夕霧は立ち上がると、土にまみれた裾をぱんぱん払った。
あちこち小さなすり傷ができている。
自分の部屋に戻って、簡単な手当てをした。
大事な娘を取られたと思ってるんだ
殴られたって仕方ない。
まだ霜の残る早朝、祖母の邸から退出した。
殴られた頬が、まだじんじんする。
でもそんなのは大して痛くなかった
六位宿世のほうが、ずっと胸に刺さった。
俺だって親父と同じ、帝の弟なのに。
位が低いとこんなにも馬鹿にされるのか。
言ったのは雁の乳母だった
雁可愛さに発した一言だろうが、あまりにも胸に残る。
涙が辛かった
まぶたが赤く腫れる。
悔し涙というものを、彼は生まれて初めて流した
その涙が、殴られた頬にしみる。
ぜったい上がってやる。誰にも文句を言わせない地位に。
夕霧はつよく誓った。
この涙の味を、生涯忘れないと思った。




