18-2 しるべなき世界
「そんなに悲しがるなって」
光はそっと紫の髪を撫でた。
「俺が帰る家はここしかないってこと、君もわかってるだろ?」
御髪をかきやりつつ、「いとほし」と、おぼしたる様も、絵に書かまほ
しき御あはひなり。*
紫はすこしすねた
だってあまり行くから。
その嫉妬が可愛い。
「あの家はおかしいんだよ。斎院の叔母さんが五の宮なんだけど、
その方が面白くて。俺のことを、本人を前に平気で褒めたり、俺と話
してるうちに寝入っていびきをかいたり。しかも、もっと年とった女房
までいてさ。父の時代に五十幾つの人だぜ?よく生きてたと驚いてし
まった。あんな長生きする人もいるのにね、なぜ中宮さまは、お若くて
亡くなられたのだろう」
そんなことを語って、そっと嘆息した。
「斎院もさ、言い寄ってみたけど効果ないみたい。若い時すら心を動
かさなかった人だもの、もう俺を男とは見てないよ」
そう白状して笑うと、紫をきゅっと抱きしめた。
一日中、ごろごろ撫でて慰める。
よく雪の積もった日、庭に雪玉を作って、女童たちが遊んだ。
手のひらサイズの雪玉もいて
それに目と耳つけたら兎になるんじゃない?
みんな笑って楽しそうだ。
「中宮さまは綺麗だったね」
光は、在りし日の彼女を思い出していた。
太后になる前は素敵だったな
十年前を思い出す。
「君も姪だから似てるけど、少し嫉妬深いのが気になるね。斎院は
そんなでもないよ」
にやりと笑って言った。
「朧月夜さんは、可愛らしい女性でしょう」
「よく知ってるね。彼女はたしかに可愛かったな、気の毒なことも
したけど。機会があれば、また会いたい」
光は遠慮なく言って、遠くを眺める。
「明石もなかなか素敵だよ、すこし思い上がったところがあるけど。
その点花散里はまさってるかな。出会った頃と変らないやさしさで、
俺を包んでくれるからね。いつも変わらず、あたたかい。ああいう
人を俺は愛している」
そんなことまでしゃべるから、紫は困ってしまった。
そういうい類型を教えて、私を修正しようとしてるの?
そうはいかせないぞ、あなたの思い通りには。
こほりとぢ石間の水は行きなやみ空すむ月の影ぞながるる*
私の心は氷に閉ざされ、行き場なく思い惑っているのに
あなたはその上をさらりさらりと流れてゆくのね。
外を見る紫の後姿は、とても可愛らしかった
死んだ中宮に似ている。
光は思わず抱きしめた。抱きしめて、離さない。
こんな雪の日だったと思った
彼女が突然出家して、俺を悲しませたのは。
「ずっと一緒にいて」
行かないで、どこにも。
耳元のささやきが、紫の胸を熱くした
氷が、とけてしまう。
「すきなの?」
「うん、すき」
そういうことでしか満たしようがなかった。
他の人と違う、何か特別なものがついていればいいのに。
紫の体もただ美しいだけだから、それを全財産に抱かれる。
その晩、光の夢に藤壺が出てきた。
髪を切る前の、光が大好きだった姿で、じっと彼をにらむ。
「知られてしまったのですね」
光は懐かしさで胸がいっぱいになった。
「あれほどだめだと言ったのに。私は、つらいわ」
そっと涙ぐむ。
「極楽へ行けてないの?」
光は心配で、そう問い返そうとした。
「…ねえ、大丈夫?」
その夢を、紫夫人がゆらゆら起こして覚ます。
藤壺さん…
光はまだぼんやりしていた
紫が不安げに見つめる。
二十四か
そうだね、その頃だったね。君があの子を生んだのは。
光はぎゅっと抱きしめた
紫を真正面から抱きしめる。
「昔大好きだった人がお別れをしにきたんだ。君に嫉妬したって。
君の美しさに」
光は動悸がしていた
それを抑えようと、紫を胸に入れる。
紫もどきどきした
こんな光を見たことがない。
身じろぎもせず、抱かれる。
ごめん、ごめんね、藤壺さん
俺どんなに恨まれても、やっぱりあの子に名乗れてうれしかったんだ
あの子を胸に抱けて、うれしかった。
君のぶんまで祈るから。つらいことも、全部身代りになるから
だから、許して
君の身も浮かばせるほど祈るよ
君がどこの瀬で迷ってても、俺が必ず極楽まで連れて行く。
そういう約束を、胸の奥でした。
まあ俺の言葉なんて、信じてくれない人だけど。
五つも下の頼りない男だけど。
「なにわざをして、しるべなき世界におはすらんを、とぶらひ聞えにま
うでて、罪にも代り聞えばや」*
道に迷ってるなら、ずっと俺のそばにいて
俺が死んだら必ずしるべになるから
地獄の谷も極楽の園も、一緒に行こう?
だってどうしても信じられないんだ、俺には
あんなにやさしい子を生み出した俺たちの愛が
ただ紅蓮の業火に焼かれるだけの、卑しい罪だったなんて。
光は、見えるものより見えないものを信じた
自分のやましさが作り出した幻影より
大きな蓮の上で自分と息子を待っている、菩薩のような微笑を信じた。
そう、自分勝手だろう?
俺はいつだって、いくつになったって、そんなことしかできないんだよ。




