17-1 大樹…?
十七.薄雲
「のり給へ」*
幼子は母の手を引いた。
当然一緒にくるものと思っている。
母はぐっとつまった。
「母さんは一緒にいけないのよ。後から行くからね」
そう言って口を閉じた。泣いているのがわかる。
自分のしていることは限りなく犯罪に近いと光は思った。
いかに罪や得らん*―
償えない罪が、またひとつ増える。
「すぐ会えるよ。信じて」
そっと慰めて車を出した。
慰めながら
俺だったら耐えられないだろう
こんな可愛い子を手放すなんてと思い
ふっと無口になった。
紫は娘を喜んで、とても可愛がった。
うへに、いとよく、つき睦びきこえ給へば、「いみじう美しき物得たり」
と、おぼしけり。*
乳母にも負けないくらい可愛がってくれる。
よかったなと思った
紫が喜んでくれて、よかった。
年が変って、光三十二歳になった。
紫二十四歳、明石二十三歳。嫁は若いに限るねえ。
「何か、ございましたか」
久々に会った花散里は、おおらかにたずねた。
ありがたきまで後やすく、のどかに物し給へば*―
そういう人だから、光も警戒していない。
「そう見える?」
ぼうっとしていた目を戻すと、首をかしげる。
そういう姿が愛しく思えた。
花散里は光より年上ではないが、男のことをやさしくいたわる目を持っ
ていた。
「ええ…少し。新しい春にお嬢様のお喜びも加わって、お忙しいですね」
「そうだね」
光はにっこり笑うと
「君は、こどもほしかった?」
何心なくきいた。
「そうですね、いれば楽しいのでしょうけど…今のままでも十分すぎる
ほどですわ。このような暮しをさせていただいて、四季の移ろいを楽し
めるだけでも、私は幸せに感じます」
そう言って、笑う。
「そう」
光は春のたおやかな風に撫でられながら、そっと息をついた。
「紫も、今は明石に会いに行くことを許してくれるんだ。
美しき人に、罪ゆるしきこえ給へり。*だって。
女の人ってやさしいね、可愛がる対象がいるとやさしくなれるんだね」
どことなく寂しげなので、花散里は苦笑してしまった。
「もっと嫉妬されたいですの?」
「ううん、めんどいからいいんだけどさ」
子供って女性のものなんだ、とつくづく光は思った。
とくにあの子は女の子だし。
自分も紫を育てたってことが、遠い昔のことに思える。
「女性は母を失っても、自分が母になれるからいいよね。俺の周りは
いつの間にか、母ばかりになっちゃった」
そういう人ばかりを集めてきたように思った。
早く大人になりすぎた心を、そっと慰めてくれる人。
いかに、思ひおこすらん。我にて、いみじう恋しかりぬべきさまを*
「そう思うんだってさ。自分でさえ恋しくて仕方ないのに、生みの親な
らどんなに心配だろうって、恋敵を思いやってるんだよね、紫は。す
ごいと思ったよ。敵の娘なのに、なぜそんなに心が広いんだろうって」
実際光は感心していた。
紫って、俺よりはるかに大人だよ
どうしてそんなにやさしいの?
女ってものの生態が、よくわからなくなる。
「あなたさまのお嬢様だからでしょう」
花散里は穏やかに答えた。
「私たちは皆、あなたさまに頼りきりですわ。大樹にやすらう小鳥の
ように。あなたさまが大きく頼もしいから、しあわせでいられますの」
大樹…?
「俺って、そんなに大きくなったかな?」
「ええ、とっても。お若い頃からご立派でしたけど、今はいっそう力強く、
お美しくおなりですわ」
言われて光はすこし照れた。
「それ太ったってこと?最近付き合い酒多いからな、中性脂肪増えて
きたかな」
言いながら、スリムなお腹をさする。
「いえ、まだお若くてらっしゃいますよ」
「そんなことないよ、もう年だもん。そろそろいたわってね」
和やかに談笑すると、明石の邸へ向かった。
大樹か
頼りない若木も、いつかは大きな樹になる。
それを信じて待っていてくれる人がやさしい妻なんだよな
紫はそうだった
まあ俺が無理やりそうさせた感が強いが。
花散里もそう。
他のたくさんの女たちも、俺を待ってて、ここまで育ててくれた。
そういう人たちに恩返しするのが、これからの人生らしい。
「あの子は元気だよ。君の名も覚えててね、紫と呼び分けてる」
娘の様子を、明石に細かく話した。
「もう十年もしたら入内させるから。それまでには来てやってよ。
入内してしまったら、母親でもなかなか会えないから」
「ずいぶん先の話ですわ。私など生きておりますかどうか」
「おいおい、気をつよく持ってよ。君俺より九歳下なんだからね。
君が死んでたら、俺もたぶん生きてないだろ」
「あなたは大丈夫ですよ、きっと」
「憎まれっ子世にはばかる?」
「いえ…」
明石がやっと笑ってくれたので
「君だって大丈夫だよ。十年なんてすぐさ」
光も笑って明石を抱きしめた。
そう、十年なんてすぐだよな
俺知り合って四半世紀になる人いるもの。
もっとあっさりした自分ならよかったと思った
気長な兄みたいに
くどいから飽きられるんだよな
気持悪いとか言われて、嫌われうとまれ、出家されて。
光だって出家はしてないが、祈る気持は同じだった
ただ、冷泉のことだけ。
ふたりはすこし似すぎていたのかもしれなかった
ひとつの大地に二つの太陽では熱すぎるように。
いまひとつの光が、そっと消えようとしている。




