16-1 魔性のささやき
十六.松風
「じゃあやめようか。君がそんなにつらいなら」
光は直衣を着ていた。
暗がりに美しい顔が、とてもよく映える。
「いいんですの?」
「だって仕方ないよ、君の子だもの」
光の微笑はいつも美しい。
「今の春宮さまね、俺の兄の息子さんなんだけど、局が近いから
仲良くさせてもらってるんだ。まだお若いが、やさしそうな方でね。
あの方になら、娘をあげてもいいと思ってたんだよ」
「そんなことができますの…?私のような者の生みました子に」
「そりゃできるさ。生んでくれたのは君だけど、俺の血も多少入って
るわけだしね」
光は微笑むと、幼い娘を抱き上げた。
もう三歳になるかな
片言を言って笑うのが、とても可愛い。
「俺にならできるよ。どんな手を使っても、必ずこの子を后にする」
限りない輝きが、恐ろしいほどに見えた。
明石がそっと息をのむ。
「俺こう見えても、都ではけっこう怖い人で通ってるんだよ。俺に睨まれ
たら、都では暮せないってね」
光は娘をおろすと、琴を奏でた。
まだ糸は狂っていない。
明石と離れて三年が経っていた。
時の経過を、早く感じる。
「まあ君が嫌だというなら、無理にとは言わないよ。お母さんと一緒に
暮らすのも、娘のしあわせだろうからね」
そのあっさりした物言いが、逆に明石を不安にさせた。
どうしよう。可愛い娘と離れたくない。それはたしかだ。
でも私といては、この子は一生つまらない人生を送ってしまう。
この人に預ければ輝けるはずの人生を、私のエゴで台無しにしてしまう。
それは嫌だと思った。
でも、あと一歩がふみだせない。
自分のこと、娘のこと、もろともに考えてもあと一歩が…
「月が綺麗だね」
光は空を見上げた。
秋の月が、美しく照っている。
「君にばかり判断を押しつけるのも、酷というものだね。まあそう
悩まないで。君が思い立って俺に預けてくれたとしても、娘には、
嫌がる君をふりきって俺が無理やり引き離したことにしておくよ。
そうすれば、のちのち母親に捨てられたと思うこともないだろう」
「この子はそんなこと覚えていませんわ、きっと…」
だってまだ、三つですもの。
今渡せば、相手の人を母と思うだろうと思った
この人のそばで、いつも仲むつまじく暮している、美しい貴女。
その人を自分の母と勘違いするだろう。
ああ、でもそれは望ましい勘違いだ
しあわせな
一生信じていたい誤解。
「俺は、この子に紫を母とは呼ばせないよ。生んでくれた別の母が
いることは、きちんと教える」
光、それははっきり言った。
そういう嘘は嫌いだ。だからつかせない。
「でもそれで、よろしいんですの…?」
「俺がいいと言うんだから、いいんだよ」
紫は義母で十分だと思った。
義母だろうと養母だろうと、彼女の愛情はきっと変らない。
子供の好きな人だ
俺とともに、この子を后に育てられるだろう。
「また、会えますのね…?」
「ああ、必ず」
「文をかいても?」
「もちろんいいさ。早く二條においでよ、娘とともに」
言いながら抱きしめた。
抱きしめながら、すこし考えている。
この人が東の院に来れば、紫の機嫌を損なうだろうな。
しかし、娘だけ取り上げて、女を捨てることもできない。
これは大切な女だと光は思う。
「魔物って、きっと美しい顔で微笑むんだろうね。俺みたいに」
そう言って笑うから、明石はどきりとした。
「なぜそんなにご自身を悪く言われますの?あなたはおやさしいですわ」
「そうかな」
光は笑った
光の瞳は、いつもやさしい。
「じゃ、またね。寒くなるけど、元気で」
光は笑って発とうとした。
乳母に抱かれた娘を撫でる。
可愛かった
つい連れ去りたい衝動が、頭をもたげたほどだった。
「お母さんはどこ?一緒に送ってくれればいいのにね」
明石は物陰に隠れていた。
その手を取って
「早く近くに来てね。悪いようにはしないから」
そっとささやいて出て行く。
「いと、かるがるしきかくれが、見あらはされぬるこそ、ねたう」*
都から来た追従者たちに見つかって
光は笑って桂の院に連れて行かれた。
二三日逗留して、華麗に酔い騒ぐ。
男の付き合いはいつも酒だった。
その騒ぎをぼんやり聞きながら
これが魔性のささやきか…
明石は思わず身ぶるいした。
すこしだった
ほんのすこし
耳に声がふれただけ。
でも美しかった
しびれるほど美しく、いつまでも耳に残る音だった。




