13-1 末摘花邸
十三.蓬生
「ひどい邸でしたね。よくあんな所に住めたものだ」
惟光は舌うちして、露に濡れた裾を払った。
「あんな人のどこがいいんです?」
「ん?」
光は考えごとをしていたが、ふり向くと微笑した。
「だって、信じる心がすごいだろ。俺あの人と会ってもう十年になるよ。
この十年いろんなことがあったな…」
今日の光は感慨深かった。
それほどに末摘花の邸は荒れていて、光に時の移ろいを思わせた。
「この十年、都も変わったよ。人の心もな」
時流におもねり右へ左へなびく人々、翻弄された自分のことが
走馬灯のように思い出される。
「人に信じてもらえるってことがさ、俺は一番うれしいんだよ。 あの人は
俺を信じていた。信じて、邸も調度も自分も売らずに、ずっと待っていた。
それってなかなかできることじゃないぜ?まあ、売るに売れなかったん
だろうけど…すこしさかしらに知恵が働く女なら、我慢しきれず動いて
しまうだろうな」
光は、自分を信じきれず去っていった人のことを想った。
そう、あの人も、美しく教養のある、さかしらなひと。
「でもあの顔ですよ?」
「それは仕方ないよ、顔は自分のせいじゃない、親からもらったんだもの。
顔が悪いってことをコンプレックスにしてひねくれる奴もいるけど、彼女は
そうじゃないしさ。さすがに恥ずかしがりだが、気立てがやさしい。親から
譲り受けたものをずっと大切にしようって心もある。いい人だよ。顔の悪さ
だけで落ちぶれさせてしまうのは可哀想だ」
「今日はやけにやさしいっすね」
惟光はちらと光を見た。
「俺ももう歳だもの」
光が笑う。
「世の中の憂さつらさもよくわかったし、ここらで少しはチャリティーしないと。
やっとそういう地位まで上ったしね」
「仏勤めの代りってわけですか」
「まあ、代りになるかわからないけど」
光は、月に照らされ美しく微笑した。
来世なんて、本当にあるんだろうか。
「ふうん。じゃあそのにわかに湧きでた慈善心で行くんすか、次の人
のところも」
「慈善心てわけじゃないが…戻ってきてからずっと忙しかったから、
少し癒されたいんだ。花散里といると、ほんと母性を感じるんだよね。
自分が一匹の男でいなくちゃいけない、という気を使わなくてすむ。
かっこよく思われたいとか、弱みを見せたくないとか、そういう警戒を
解かせてくれる人だよ、彼女は。ただ俺が来てくれただけでうれしい
って顔で、にこにこ話をきいてくれるからさ」
「だから、そばにおきたいんですか」
惟光は「あーなるほど」という顔でうなずいた。
「女たちを集めて住まわせようなんて、どういう神経してんだろうって
疑ってましたよ。そんな戦場みたいなとこによく住めるなって」
「はは…たしかに。我こそはって思い上がった人ばかり集めたら、嫉妬
飛び交うすごい修羅場になりそうだけど。心休まる、おおらかな人を入
れとけばさ、そこにいるときだけは中立の立場というか、のんびり休憩
できるだろ?安全地帯だよ、俺の」
「若い嫁さんと好きなだけいて、疲れたら休憩するってわけですか」
「そうそう」
「天国っすね」
「生きてるときくらいはね。俺死んだら地獄行きだから」
「はは、たしかに。じゃ俺も地獄までお供しますよ」
こんな調子で話しながら、主従は花散里邸へ向かっていた。
そのころ末摘花邸では…
「もう帰った?」
「はい、お帰りになりましたよ」
「よかった」
ほっと胸を撫で下ろして、末摘花が現れた。
緊張がとけたのか、うーんと大きく伸びをする。
「どうしてあんな面などつけておられるのですか?本当のお顔をお見
せになれば、もっと愛されるでしょうに」
年とった女房が、嘆息してたずねた。
「ありきたりの顔じゃあの方はやってこなかったよ。自分以外にも言い
寄る男ができるだろうと思うと、女への興味は薄れるものさ」
そういって笑う彼女の鼻は、赤くなかった。
顔もそれほど悪くない。
「では、あの方の気を引くために、わざと?」
「そういうわけじゃないけどね。男に会うときはあの面をつけなさいって
父上がおっしゃってたから」
末摘花は、そういって頬をかいた。
彼女の特徴ある顔は、実は精巧に作られた面で
それをかぶるとすこし顔がかゆい。声もごわごわする。
歌が下手なのは性分だが、笑い声がくぐもったり
「むむ」としか返事できなかったりしたのは、このせいもあった。
「やっぱりつけててよかったよ。私何のとりえもないのに、ただ頼りに
して待ってたってだけのことで、私を評価なさったんだね」
そのことが、すごくも、哀れにも思われた。
私などでもうれしいんだから、よほど人に信じられたい、頼りにされた
いと思っている証拠ではなかろうか。
「なにか憂いを帯びた美しさだったね。真夏じゃない、秋の陽のような」
「まあ、大将さんは今や押しも押されもせぬ内大臣ですよ。そんな常夏
の輝きの方を、恐れ多い」
「そか…」
老女房に注意され、末摘花は苦笑した。
「そうですよ。今日だって見つけていただけなかったら、私たちどうなって
おりましたことやら」
「たしかにね」
くすりと笑って庭を見た。
草が高く生い茂って、森みたい。
門は崩れてひとけもないし、まったく廃墟と化している。
「よくこんな所に住めたものですよ」
「本当に。侍従が出てくのも無理ないね」
「私たちだって、明日にもおいとましようと思ってたんですから。まあ大将
さんが直してくださるなら、もう少しいてもよろしいですけど」
「そか、ありがとう」
末摘花はさっぱりとして、何事もあまり気にしないたちだった。
「私は父上の残してくださった物とともに、ここへ骨を埋めるつもりだから
さ、いいんだけど。皆は好きにしていいからね」
笑って言うと、また書物に向かってしまう。
彼女は本が好きだった。
時代が許せば大学院まで残って研究したいというような人で
本を読むことは、生きる一部になっている。
出不精のせいか、外との付き合いもほとんどなかった。
だが、光が出現したことで、偶然にもひとりの友だちを見つけた。
「ちーちゃん元気?この前借りた本まだ写せてないんだ。申し訳ない
けど、もうすこし借りてていいかな」
「返してくださるのはいつでも大丈夫ですよ。うちにまだありますから、
ご入用のときはおっしゃってください」
「ありがとう。ねえ、ちーちゃん」
書きさして、末摘花はすこし考えた。
「あの人って、あんな元気なかったっけ?そりゃ十年もたてば変わる
んだろうけど、それにしても何か、少し寂しげに見えてさ」
「そう、ですね…いろいろご苦労なさって、この前都へ戻られたばかり
ですから。少しお疲れなのかもしれません」
「そう…なんか前会った時はもっと自信家で、天狗になってるイメージ
だったけどな」
「天狗って、例のお面の?」
「そうそう、赤鼻の天狗さん。今度見る?つけてみようか」
「そんなに立派なお鼻なんですか?なんだか少し、見るのが悪いわ」
「ふふ…大丈夫。団扇で竜巻起こしたりしないから。でも父上もひどいよ
な、こんな面じゃ結婚なんて到底無理だよ。娘の幸せ考えてないのか」
「ずっと一緒に暮らしたかったのかもしれませんね、末さんと」
「ひやー」
苦笑しつつ、情け深い貴公子に会えたのも父のおかげだったのかなと
少し感謝した。
「二條のお邸が完成したら、お会いできますね」
「私そのメンツに入ってんのかな?ほんとに」
「たぶん大丈夫と思いますわ。私も入ってるくらいですから」
「じゃ、そのときはよろしくね、ちーちゃん」
「はい、こちらこそ」
ふたりはその後も仲良しだった。
「今はかぎり」と、あなづり果てて、さまざまに迷ひ散りあかれし、上下の
人々、「我も我も、まゐらむ」と、争い出づる人もあり。*
光のおかげで復興した邸に、お追従いって戻ってくる従者たちを気軽に
受け入れつつ、侍従大丈夫かな、とすこし心配した。
意地悪そうな叔母さんだったからなあ。九州で苦労してないといいけど。
心ばへなど、はた、埋れいたきまで、よくおはする御有様に*―
「いつでも戻ってきなよ。こっちも少しは綺麗になったから」
古い紙に文を書いた。
それを送って、また本に向かう。




